◆異世界で刺青師? 後編
「仔猫は大人しく雛鳥とでも遊んでな。頭の方が重そうなヨタヨタ歩きの坊やが仔鹿を狩るのは不可能だ」
皮肉いっぱいの言葉をはなって二本の黒い膝下がカツンと一歩を踏み出した。
物凄く存在感のある膝下だ。何度見ても膝下しか見えないというのに、獣の王も真っ青な存在感。膝から上が消失しているホラーな見た目もお陰様でおどろおどろしさの欠片も無い。
ところでさっき“仔猫は仔鹿を狩れない”とか言ってたけど、猫は大人になっても仔鹿なんて狩れないよね? そもそも獲物にする大きさじゃないし。
つまり一生無理って言ってない?
うわあ、なんという嫌味。しかも、もしかしなくても仔鹿って私? 勝手に獲物認定しないで欲しいんだけど。膝下の癖に。
「追い掛け回して跳びかかるだけが狩りだと思い込んでいる頭の足りない獣に言われたところで堪えませんね」
あからさまな挑発にも顔色一つ変えず冷静に皮肉で返すユト。……いや、皮肉を返している時点で冷静とは言えないのかな? 現に素早く椅子から立ち上がって膝下に向き合った様子を見ると対抗する気は満々のようだ。
一方私の口からは抑え切れない溜息が漏れる。
(あー……。とっても嫌な予感がしますよ、と……)
さっきまで林檎パイの甘い匂いと紅茶の香ばしい香りがほのぼのと漂っていたはずなのに、いまや殺伐とした空気が流れるダイニングは大変居心地が悪い。私が遠い目になってしまっても誰も文句は言うまい。腕の中に飛び込んで来たシリンのベルベットのような毛並みが唯一の癒しだ。
それにしても毎度繰り返されるこの遣り取りはどうにかならないものなのか。
鼻を付き合わせれば眉を吊り上げ、視界に入れただけで不快を露わにする二人はまさに犬猿の仲と言える。
どうにか鉢合わせしないように予定を調節していたっていうのに、臨時の訪問とか勘弁して欲しい。
うーん、とりあえず今はテーブルの上の林檎パイと紅茶を避難させるべきか。万が一にも乱闘とかになったら、せっかくの力作も台無しになる。糖分たっぷりのパイが床に落ちたら掃除するのも大変だ。
――あ、そういえば床に落とした解毒剤、片付けるの忘れてた。まあ日本と違って土足上等の家屋なので、二人とも小瓶の欠片を踏んだところで怪我なんてしないだろうから気にしなくてもいいか。
でも他の備品を壊したら一月出入り禁止にしようかな。さっきまで作業をしていたから大事な商売道具もあるし。うん、それがいい。そうしよう。
徒然と考えつつ現実逃避気味にシリンを撫でている間にも膝下が放つ空気は重くなり、ユトの視線の冷ややかさが増していく。
なんだか止めるタイミングを完全に逃した気がする。どうしよう。
迷っていると、短い睨み合いの後、ユトがサッと右手を払うようにして伸ばした。淡い紫の光を一瞬放ち、次の瞬間には何も無かったはずのユトの手には銀のサーベルのようなものが握られていた。
(相変わらず手品みたいだなあ。)
他人事のようにそう思った。
だけど実際は他人事なんかじゃなく、あれも私の作品――魔画によるものだったりして。
さっきユトに施していたのは毒除けという補助的な効力のある魔画だった。他にも身体能力を上げたり精神を強化したりすることが出来ると言ったけど、もう一つ仄めかしていた魔画の一番特殊と言える力が、“具現”だ。
対象者の身体に魔画を描くと、描かれた対象者は己の意思に従って描かれたモノを具現化することができるんだ。剣を描けば剣を自由に手にできるし、弓なら弓を、というようにね。
武器以外には楽器くらいしか仕事では描いたことがないけど、生き物以外ならある程度は何でも具現化できる。
ただし、描くときの溶液に工夫が必要なんだけどね。
それに、魔画の維持には描かれた当人の魔力を使うし、具現化にも維持以上の魔力が消費されたりするから、魔力量が少ない人には描けないという欠点がある。
でもこれ、そういう制限や欠点を補って余りあるほどすごく便利なんだ。
だって、見た目にはただの絵だから携帯する際の重みなんて無いし、質量もないから嵩張らない。つまり剣を腰に佩いて弓を担いで、懐には短剣を数本装備して……、なんて必要が全く無くなるのだ。
加えて、弓矢とか投擲武器なんかの消耗品でも、魔力が続く限りは数量制限無く具現化できるという……。
さらに言えば、魔画には魔法を補助する力を持たせることもできるし、その応用として、描いた武器なんかに属性効果を付与させたりも出来てしまう。
つまり、かなり反則的な能力だったりするわけです。
反則的だからこそ、私はこれを表ではなく裏のお仕事として行なっていて、さらにお客様についても伝手を使ってかなり慎重に素性から性格まで細かく調べ、魔画を施した際に危険が無いか選ばせてもらっている。
ユトは実験台だけど、膝下は正当なお客様だ。
正当なお客様だから、どんなに尊大な態度をとっていても膝下は決して悪い人じゃない。何故かユトを目の仇にしているけど私には概ね優しいし。
「ハッ! 小賢しいこと考えるよりよっぽどマシだ。坊やのやり方は仔猫の皮でも被って寄ってきたところをガブリ、か? そんな罠は今どきウリ坊でも掛からないだろうよ」
「その台詞は使える頭がある人が言えば格好もつきますが――。俺は自分を偽ったりしませんし、そんな浅慮な罠など張るつもりもありませんね」
――と、意識が飛んでいるうちに目の前の二人はさらに険悪なムードになっていた。
(あれー? 窓から燦々と日光が入り込んでいるはずなのに、室内が寒く感じるんだけどー?)
ユトが牽制するようにサーベルを突き出して、それを目にした膝下が鼻で笑ったのがわかった。
……いや目も鼻も無いけどね。
物凄く馬鹿にしたような笑い方だったにも関わらず眉一つ動かさないユトは流石というかなんというか。
最近の18歳は落ち着いてるなー、なんて感心している私の内心には気づかず、ユトはさらに硬く冷ややかな声を膝下にぶつける。
「そもそも不当な侵入ですよね。許可されている裏口までならまだしも、こんな奥まで入り込むなど常識を疑います。衛士にでも突き出しましょうか」
「常識ねぇ。――裏口以外も許されてるなら文句は無いのか?」
「……何ですって?」
あ。ユトの周りにゆらりと薄紫の陽炎が……。
一歩踏み込むユトと、まるで身構えるように踵を上げる膝下。
一触即発の雰囲気にいい加減止めるべきかと口を開いたとき、開け放たれたままの扉から甘やかな声が割って入った。
「あらぁ、これって修羅場ってやつぅ?」
「……」
「……」
「……」
あまりにも間延びした声に、見事にユトと膝下の動きが固まった。ついでに私も発しようと思っていた言葉を飲み込む。ごっくん。
開け放したままだった扉の方に視線を投げると、そこには流線を描く何とも悩ましい……“腰”が。
うん、どう見ても腰だ。腰から上が無い。
下半身だけでも妖艶さを放ち、男でなくとも撫で回したくなるような美しい曲線を惜しげも無く晒すタイトなスカート。
世の全ての男を誘惑する魅惑の腰から、甘く耳を震わす艶声が零れる。
「どうでもいいけどぉ、ホノちゃんの大事なお家を壊すようならぁ、うちのイガイガちゃんに叩き出してもらうわよぉ?」
語尾を延ばす独特の喋り方はともすれば苛立ちが募りそうなのに、ほんのりと掠れてハスキーさもある声では甘みが緩和されて後味の悪さがない。不思議だ。
だけど間延びした口調でドスを聞かせるというのはさらに不思議。どうやっているんだろう?
首を傾げつつふといがみ合っていたはずの二人を見ると、ユトはいつのまにかサーベルを仕舞っていたし、膝下は……太腿の半分辺りまで成長していた。
いやうん、成長とはいえないんだけどさ、見た目的には成長だよね。
あ、ちなみにやっと出てきた私の名前は五十鈴 仄香です。大体24歳くらいになった気がします。いや歴が多少地球と違うもので、正確にはわからないんだよね。
……それより、そろそろ傍観しているだけじゃ駄目かな。何せココ、私の家だし。訪問者の態度がでかすぎるけど。
「ディーファさん、いらっしゃい。件のイガルガさんはいらっしゃらないんですか?」
「ん~? いるわよぉ、――ほら」
魅惑の腰――鳩尾あたりまで成長した――の持ち主、ディーファさんがスッと横に退けると、頭を屈めながら岩かと思うほど大きな男性が一人、扉を潜ってダイニングへと入って来た。彼はきちんと全身がある。お陰で圧迫感がすごいけど、私にはシリンを除いたら一番の癒し系。垂れ目で笑うと目尻にくしゃっと皺が寄るんだよ、可愛いよね。
「邪魔をする、ホノカ」
「うん、いらっしゃい。とりあえず、みんな席についてゆっくりして」
急激に人口密度が増したダイニングで、どうにか収拾をつけるべく、私は人数分の紅茶と二人分の特殊な薬湯を用意しにキッチンへ向かった。




