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異世界のかけら -断片集-  作者: 滝底
本編的断片
2/48

◆異世界で人違い? 中編





 正直なところ、私も何故あのときその場から逃げ出したのかはわからない。

 ただ、捕まったら終わりだ! と心の中で誰かが叫んだ声に従ったのだ。

 たぶん、何も悪いことをしていないのに、お巡りさんに声を掛けられるとどこか居心地が悪くて逃げ出したいような気持ちになるのと一緒だ。たぶん。


 でも。


 出来心のようなもので逃げただけだというのに、鬼気迫る勢いで馬を駆って追い駆けて来られたら、誰だって死に物狂いで逃げると思う。


 途中、白い馬が脇の路地から飛び出して来て目の前で嘶きながら前足を振り上げたときは、本当に死ぬかと思った。

 まあ、死ぬかと思いつつ慌てて方向転換したんだけれど。

 運動音痴というか、わけあって小さな頃から運動が出来なかった私にしては、素早い反応だったと褒めてほしいくらいだ。

 でも直後、馬から飛び降りた彼が今度は自らの長い足を使って迫って来て、すごく後悔した。

 あの場で蹲っていた方がよかったんじゃないか、と思うくらい、青年が発した静止の声は厳しかった。


 結局、常に厳しい鍛錬を積んでいるような騎士の脚力と体力に運動不足の私が敵うはずもなく、路地に逃げ込んだところであっさりと捕まってしまったのだ。




 建物の陰になった薄暗い路地で覆い被さられるように壁に追い詰められ、両手を顔の脇で拘束されている私は、息を呑んで間近に迫る青年の顔を凝視しているところだった。

 厳しい表情の青年は、遠目でも分かったとおり凄く端整な顔立ちをしていた。

 暗く燃える月色の瞳を湛える目元は切れ長で鋭く、縁取る白金の睫毛は長い。筋の通った高い鼻梁は細くもなく太くもなく、胸に響く心地の良い声を発した唇は薄い。

 髪の毛は肩を少し超えるくらいまでの長さがあるけれど、顔がとても精悍で、背も190cm近くあるんじゃないかというくらい高く、しっかりと筋肉がついている肩幅は広くて、決して女性的には見えなかった。


 私は未だに、自分が置かれている状況が理解できない。


 掴まれた手首が熱い。


 間近で私の顔を覗き込む青年は、二度目の台詞を口にした。


 「何故、逃げるのですか」


 だからね、それは逆に私が聞きたいところだ。

 どうして、そんな強い目で追いかけてくるのかと。

 逃げた理由は、その視線があまりに高い熱を孕んでいたからだ。


 でも、捕まっているのは私なのに、彼の方が追い詰められたような声を出すのはどうしてなんだろう。


 わからなくて、でも捕まってしまっている以上、何も言わないわけにもいかなくて、困惑しつつも観念して答えた。


 「――い、いえ、た、他意が、あった、わけ……じゃ……っ!」


 息も絶え絶えだ。

 自分でも吃驚した。冷静な思考の裏で、私の身体は街中を走り回って疲れ切っていた。

 だって、仕方ないよね? ほぼずっと全力疾走だったんだもん。

 むしろ目の前の青年が息も切らさず汗一つかいていない方が驚異的なことだ。

 え、どこの怪物ですか? とか聞いたら、本気で殺されてしまうだろうか。視界に映る、腰に佩いたその美しい剣で。

 と、そんなことを考えている場合じゃなく。


 「わ、私、何も、悪いことは、し、してません……!」

 「……」


 必死で言い訳したのに、無言で返すとは何事か。

 黙りたいのは呼吸困難状態の私の方ですけど! と内心叫びながら、青年の様子を伺う。

 てっきり猜疑の視線を向けられているのだと思ったのに、彼の瞳に宿るのは戸惑い、だった。

 鋭かった碧の虹彩が、ほんの少し揺らいだ気がした。


 「……貴女が悪事を働くなどと思っていません」


 随分ときっぱり言われて、驚く。

 いやでも、じゃあどうして追い駆けて来たんだろう。

 体力の限界まで走らされた私はもはや疲労困憊で、彼に腕を掴まれていなければ崩れ落ちているかもしれないというのに。


 「何故、こんな場所に? 何故城に戻らなかったのです? 何故私に何の断りもなく――」

 「ま、待って!」


 私は慌てて彼の言葉を遮った。

 何故、何故、って、こちらの台詞だ。

 何故彼はそんなことを私に聞くんだろう?

 まるで私のことを以前から知る人だと言うみたいに……。

 そこではたと気づいた。


 ――この人は、人違いをしているんだ。


 私と彼は初対面のはずだ。

 私は誓って騎士であるような人と接点など無かったし、城なんてものは以ての外だ。

 明らかに一般人の私と、城や騎士と関わりのあるような人をどうして間違えたのかはわからないけれど、世界には三人は同じ顔をした人がいるというし。

 そうと分かれば話は早い。

 彼の言葉からすると、私と似ている人は行方がわからないのだろうし、彼の剣幕から考えると彼にとってとても大切な人のようだから、人違いだとは凄く言いづらいんだけど、その人の振りをすることなんてできないから仕方がない。

 私は目を瞑り大きく呼吸して息を整えてから、一度も逸らされない彼の綺麗な月色の瞳を見返した。


 「あの。――人違いだと思います。私は貴方を知りません」


 そう口にした瞬間、時が止まったかと思った。

 彼は息を呑み、瞠目したまま、私を見つめている。

 ……凄く、居心地が悪い。

 でも、どんなに彼が傷ついても、これは覆せない事実なんだ。


 ――そう思ったのに、驚愕を露わに瞠目していた彼の瞳が、見る見るうちに苦痛に歪んでいく様を見るのは、思った以上に私の心も抉った。


 何も悪いことはしていないと言った、その言葉は嘘じゃないのに、何か途轍もなく重い罪を犯したような気分だった。

 彼のことをどこか軽く捉えていた思考が、急速に熱を失っていく。

 遠くで聞こえる祭りの喧騒は、もう耳に届かない。


 「何故、そのような――」


 彼は掠れた声を搾り出すように言った。

 力を漲らせていたはずの月色の瞳が頼りなく揺らぎ、暗く痛みに歪んでいる。


 「あ、あの、ご、ごめんなさ――」


 どうしていいかわからず、間が持たなくてとにかく謝ろうとしたら、私の手首を掴む彼の手に痛いほどの力が加わって、思わず言葉を飲み込んだ。


 「――笑えない冗談など要らない!」


 決して大きな声ではないのに、そこに込められた重く暗い感情に、口が利けなくなる。

 瞳に全てを飲み込むような熱が再燃していた。


 「私がどれほど貴女を探したか……! ――貴女が側に居ないと気づいたときは、視界が闇に染まったかと思った。世界が歪み、身体の均衡を失うほどの恐ろしさを貴女は経験したことがあるか? それでも自分を叱咤し、縋る思いで国中を探しても貴女は見つからなかった。寝食の間も惜しんで、国外にまで探索の手を伸ばしてもだ。……もう、貴女はこの世に居ないのかもしれないとさえ――」


 ――ああ、月が溶ける。


 違う。


 彼の月色の瞳に、涙が浮かんでいるんだ。


 辛うじて流れることのないそれは頼りなく震え、滲む瞳には強い憤りが映っている。

 男の人の涙なんて、初めて見た。

 本当にどうしたらいいかわからない。

 きっと、今の私の顔はすごく情けないことになっていると思う。

 初めて向けられる男の人の激情に、ひたすら戸惑っていた。


 「……ごめんなさい」


 何を言えばいいのか。

 ただ、私の持つ言葉は一つしかなかった。


 「貴方をからかっているとか、冗談を言っているわけではなくて、本当に私は――」


 その先の言葉を紡いでいいのか、躊躇う。

 苦痛、怒り、憤り、渇望。そして全てを飲み込む正体不明の熱。それらが浮かぶ月色の瞳を見ていられなくて、視線を落とした。視線の先には引き結ばれた形のいい唇と、固く食い縛られているとわかる筋の浮いた顎が見えた。


 なんでこんなことに。

 やっぱり、捕まってはいけなかったんだ。

 心のどこかで、そんな風に思う自分がいた。


 続く言葉を言えないまま俯く私の手首が、不意に解放された。

 あ、やっと誤解が解けたんだろうか、とホッとした。でも、目の前の青年がどんな表情をしているのか確かめる勇気が無くて、視線を上げられない。

 どうすべきかと地面を見つめていたら、目の前の白いブーツがすっと一歩こちらに踏み出された。


 「……シュイ様」

 「――えっ?」


 抵抗する間もなく、気がつくと私は青年の腕の中にいた。

 長身な彼の腕の中にすっぽりと納まった私の背に、縋るように彼の太い腕が巻き付いている。彼は私の肩口に顔を埋めるようにして抱きついていた。


 あ、汗かいているのに……!


 恥ずかしさと恐ろしさに藻掻いても全然びくともしない。

 心の中で悲鳴を上げたけれど、でも気になることが――。


 「シュイ」


 それ!

 彼の呟きが耳元でもう一度聞こえて、何で、と思う。

 シュイ。

 それは、私の“こちら”での名前だ。

 最初の呟きには“様”まで付いてなかった?って思ったけれど、そんなことよりどうして彼がその名前を知っているのか……。


 いや、偶々! 偶々かもしれないし!


 そう思って一度抵抗を止め、恐る恐る、私に覆い被さるように抱きついている彼に問いかけてみる。


 「……えーと。どうして名前――」


 ――ぎゃあ!


 声を発した途端、巻き付く腕の力が強まった。

 さらに、私の肩口に額を擦り付けるようにしていた彼の頭が少しだけ動き、首筋に柔らかい感触が押し付けられるのがわかって、思わず心の中で悲鳴を上げた。

 明らかに唇だとわかる、少しかさついて冷んやりとした柔らかい感触。

 しばらく押し付けられていたそれは、小さな吐息と共に一度離され、――甘噛みに変わった。






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