◆異世界で刺青師? 中編
「げほっごほっ」
苦しげに咳を繰り返すユトに焦りが募る。
魔画が失敗するなんてほぼないと思っていたから、咄嗟に自分が何をしたらいいかわからなくなった。
でもキョロキョロしているうちにテーブルの上の小瓶が目に入って、私は心の中で盛大に自分を罵った。
(解毒薬、ちゃんと用意してたじゃない……!!)
すっかり存在を忘れていたそれに慌てて手を延ばす。
横ではまだユトが咳き込んでいて、細い背が苦しげに揺れているのが痛々しかった。
「ユト、ま、待ってね、いま解毒薬を――っ!」
――カシャンッ
(ああああぁぁぁああぁああっ!!!)
なんて間抜け!
なんてお約束!
無駄にお約束!!
こんなドジっ子みたいな展開、誰も期待してないって!
焦るあまりに念のためと用意してあった解毒薬の小瓶を取り落としてしまった。
物凄く軽い音を立てて飛び散った大事な解毒薬に頭が真っ白になる。
「けほっ……んんっ」
呆然と床を湿らせる解毒薬を眺めていたけど、ユトの呻きで我に返った。
そうだ、呆けている場合じゃない!
「だだだ、大丈夫だからねユト! 今すぐベローナの薬草店に行って来ればきっと間に合う!」
魔画は割と万能だけど、こういうときには役立たずだ。だってのんびり模様を描いている暇なんて無いからね!
私は床に散らばった小瓶の破片もそれなりの値段がする解毒薬もとりあえず無視して身を翻す。
軽い気持ちでユトを実験台呼ばわりしていたけど、未知の魔画を描くことにもうちょっと警戒心を持って慎重を期すべきだった。
まさかまだ20歳にも満たない少年の命を危険に晒すことになるなんて、失態だった、で許されることじゃない。
「ごほっ――……。落ち着いて、ください」
今にも駆け出そうとしていた私は身体を折って咳き込んでいたはずのユトにパシッと手を取られ、静かな声で引き止められて思わず跳びあがりそうになってしまった。
こんなときまで冷静だなんて、とんだ18歳だ。でも死を目前に本人に落ち着き払われても周りは黙って見ていられないものだよ、少年!
「う、うん、大丈夫、落ち着いてる、大丈夫、転んだりしないよ、大丈夫! それより手を離して、すぐ解毒薬を買ってくるから、大丈夫だよ! あああ、私ってばどうして解毒薬を一つしか用意してなかったんだろう頭が足りなさ過ぎるっ」
何回“大丈夫”を繰り返すんだか。大丈夫じゃないのが丸分かりだ。
とにかくユトに掴まれている手を引き抜こうとグイグイやっていたんだけど、でもユトは全然手を離してくれなくて、それどころか逆にグッと引き寄せられてしまった。
思いのほか強い力にたたらを踏んで倒れこみそうになった私は、ユトが腰掛けている椅子の背に慌てて空いた方の手をつく。
突然のことに息を飲みながら見下ろすと、ユトが紫水晶の瞳に薄っすらと涙を溜めてこちらを見上げていた。
思わずゴクリと喉が鳴ってしまったのは、ええと……、うん、誤魔化せないので正直に言います。
ちょっとお前、可愛すぎるだろ。
美少年の潤んだ瞳での上目遣いはベルゴルよりも毒だと思う。
おねぃ様は殺されそうです。主に出血多量で。
って、そんな変態臭いこと考えている場合じゃない!
「ユト、し、死なないでね……!」
思わずがっしりとユトの細い肩を掴む。
ちょっと痛そうに眉を顰める美少年もまた垂涎の(自主規制。
「死にません」
「――へ?」
物凄く端的に断言され、間抜けな声が出た。
ポカンと見下ろす私を余所に、ユトは相変わらず沈着冷静だ。
掴んでいた私の手をそっと離し、さらに椅子に覆い被さるようにしていた私の肩を優しく押して体勢を立て直させてくれた。
「一つお聞きしますが、この紅茶は普通の紅茶ですか?」
「えぁ? うう、うううん」
「……どっちです?」
「え? ああ、うん、普通の紅茶だよ? 安物だけどね?」
毒で咽ていたはずのユトが思ったよりもしっかりと喋っているのに気が抜けて咄嗟に上手く返事が出来なかった。我ながら『うううん』って……。そりゃ突っ込まれるわな。
でも気を取り直して質問に答えた。
商売は順調なので貧乏なわけじゃないけど、高級な茶葉は少し酸味が強くて好かないのだ。
この世界のお高い紅茶はローズヒップの濃いやつみたいな味で、舌が痺れちゃうんだよね。
「ストレート? それとも何か入れました?」
畳み掛けるように聞かれ、首を傾げる。
やけに紅茶に拘るな。
毒の話はどこいった?
「ベルゴ――」
「それ以外で」
ぴしゃりと遮られて、ちょっとムッとした。
人の言葉をぶった切るのは失礼だぞ、少年。
そうは思いつつ、苦しい思いをさせてしまっただろうことを考えると強気に出られず。
「砂糖は入れたよ? スプーンに4杯ほど。ユトは甘い方が好きでしょ?」
「――」
何故そこで黙る。
そして何故頬を染める。
美少年が恥らう姿はやっぱり色っぽいが。
いやいや、何を恥らっているのか、おねぃさんにはわからないんだけれども……。
今の若い子の感覚を理解できなくなっているんでしょうかね? 私ももう齢?
「――あの、何故それを……?」
「ん?」
またしても上目遣い攻撃。
誰かこの世界でもカメラを開発してくれないかなー。
今のユトは写真に収めたいほどの麗しさです。
とかなんとかぼうっと美少年を眺めていたら、もごもごと言い難そうにユトが口を開いた。
「俺が甘い方が好きだって……」
「ああ」
何だそんなことか。
「だっていつも実験後にパイとかクッキーとか出すと目が輝くし。食べてるときも幸せそうだし」
「……」
あ、頬がさらに赤くなった。……可愛いいなあ。
なるほど、要は男が甘い物好きなのは恥ずかしい、的な思考からの赤面ですか。と納得した。
私は気にしないのになあ。むしろ男の人でも甘い物は好きな方がいい。だって私がお菓子作るの好きだからさ。食べてくれないと悲しいじゃない?
「それよりユト、具合は悪くないの? 解毒薬はいらない……?」
顔を覗き込むと、居心地悪そうに俯いていたユトがハッと顔を上げた。
「あ、ええ。すみません、なんともないです。さっき咽たのは、紅茶があまりに苦くて……」
「苦い?」
「はい」
えー?
そんなはずないよね?
さっき言った通り、紅茶には砂糖を4杯も入れてあるし、ベルゴルの毒は無味無臭のはずだし……。
「今回の魔画は解毒ではなく毒除けと言っていたでしょう? その所為だと思います。僕も聞いたときはどう毒を避けるのか疑問だったんですが、今のでわかりました」
「――あ、ああ! そっか!」
ユトに言われて私も気づいた。
つまり、毒除けっていうのは解毒と違って、入って来た毒を中和するわけじゃなく、もとから毒を受け付けないようにするためのものなんだから、身体が毒に反応して排除しようという動きになったわけだ。
もとは無味無臭のベルゴルを舌に苦いと感じさせることで、咽て飲み込むのを防ぐという形で効果が現れたんじゃないだろうか。
「俺の予想ですが、苦いものにベルゴルを混入したなら甘く感じるか、あるいは辛く感じたりするんじゃないですか? それか刺激を感じたり。もしかしたら悪臭を感じる可能性もありますね。そのあたりは試してみる必要がありそうですが、口に入れるものに合わせて変化するのではないかと」
「なるほど~」
魔画を描いた本人より、描かれた方が効力を把握しているという不思議。
まあ実際体験するのは魔画を施された方だから当たり前といえば当たり前なんだけれど。でも施す側が自分の描いたものの効力をきちんと理解していないのはやっぱりまずいよなあ、と頭の片隅で思う。
チートっぽいからといってあまりホイホイ新しい効果を生み出すのはやめた方がいいかもしれないな。特に、今回みたいに効力の現れ方をきちんと予測できないときは。
「魔画に失敗したわけじゃなくてよかった。ユトに何かあったらどうしようかと思ったよ」
「……大丈夫だと言ったでしょう」
「うん、そうなんだけど……」
命の危険はなかったようだけど文字通り苦い思いをさせてしまったわけだし。
申し訳ない思いは拭いきれず、私は甘党のユトのために今日のおやつを用意するためキッチンへ向かいながら答えた。
いくら冷静で大人っぽいユトとはいえ、まだ18の少年なのには変わらない。
私がこの世界に来たときもユトくらいの歳だったけど、動揺のあまり大変だった。夜は何も考えていないのに涙が出たり、朝になって混乱がぶり返して物に当たることも何度かあった気がする。
生活に慣れるまでにも時間が掛かって、愛猫のシリンが居なければ今の私はなかったかもしれない。
20歳を過ぎても親の元にいる子が多い現代の地球で育った私とは違ってユトはもっとずっとしっかりしているけど、でもだからって危険に晒すような行為は大人としては避けなくちゃいけなかったと思う。
今日は少し調子に乗ってしまったかもしれないな……。
そんなことを考えながら林檎のパイと新しい紅茶の準備をしてダイニングに戻ると、ユトがじっとこちらを見据えていたのに驚いて足が止まる。
妙に強い紫水晶の瞳に射抜かれ、思わず目が泳いでしまった。
髪以外は少しきつい印象を受ける美少年の顔で、さらに力強い視線を向けられるのは心臓に悪い。
「……約束ですから、貴女が何と言おうと俺はこれからもここに来ますよ」
「…………」
まいった。
この少年には私の考えることなんてお見通しらしい。先手を打たれて正直返答に困った。
これじゃあ魔画の実験はもう終わりにする、なんて言えないじゃない。
ユトは約束と言ったけど、出会ってから既に2年以上が経つし、私自身もうあのことは気にしてはいないんだけどなあ。
でもユトは真面目だから、まだ自分の中で自分を許せないのかもしれないね。
私は苦笑しつつ、止まっていた足を進めた。
「――ほら、今日はユトの好きな林檎パイだよ! 偶々だったけど、ベルゴル入り紅茶の口直しにはなるんじゃない?」
「……。いただきます」
座って座って、とテーブルの上を片付けながら言うと、私が曖昧に誤魔化したのを感じ取ったのかちょっとだけ眉を寄せたユトは、それでも素直にテーブルについた。
林檎のパイが甘いから紅茶の方の砂糖は控えたけど、今度はベルゴルなんて入れてないから、ちゃんと甘さはあるはずだ。
艶めく林檎パイを見て心なしかユトの周りの空気が華やいだのに内心笑いつつ、私も椅子に座ろうとしたとき、
――ガチャッ
突然居間の扉が開いた。
「――にゃぁん」
林檎パイにも負けないくらいの甘い声を発したのは、漆黒に艶めくベルベットの毛並みをした私の愛猫のシリンだ。こちらの世界に来てからずっと私を支えてくれた愛しい子。
シリンは尻尾をぴんと立てて、開いた扉の前からこちらを窺っていた。
だけど扉を開けたのはシリンじゃないだろう。
ちらりとシリンの脇を見ると、許可無く扉を開けただろう人物の足が見えた。
大きな黒い短靴とそこから続く足。でも膝から上に続くはずの身体は無い。
相変わらず、ホラーだな……。
好物を口に入れようとしていたユトもそれを目にし、彼の放つ空気がピリリと張り詰める。短靴を見据える紫水晶は先ほど私に向けていたものよりもずっと鋭く険を含んでいた。
「――何だ、またそんな小僧を招き入れているのか」
威圧的な声が短靴の方から放たれた。
謎の足、登場。
次話で謎の腰も登場予定。




