60 それに自我と言える知性はなかった。
それは、確かにそこにいた。
それに自我と言えるほどの知性はなかった。本能的に餌を探し、番を見つけて子孫を残す。周囲は敵だらけで、自分の存在を守るために逃げ回る。そういう小さな存在だった。
マウスは自分の状況を正しく理解していなかった。暗く狭い場所で蹲るように寝ていたら、何か大きなものに捕まり気づいたら明るく大きな場所にいた。明るい場所は危険だ。自分を狙う何かに見つかってしまう。少しでも安全になるように大きな壁の近くでうずくまる。しかし、すぐに腹が減った、なんでも食べるが、ここには何もない。だから、何か美味しそうな匂いがしたときは、恐怖よりも食欲に支配されてその液体を舐めた。
とたんに世界が反転した。
ぐるぐると回り色づいていく世界、気づけば明るく大きな場所が、何かに仕切られた狭い場所になっていた。ここは危険、そう思って壁に体当たりしたが、びくともしない。全身を支配するのは引きつるような痛みとパニック、急に変わってしまった世界に戸惑うばかりだった。
逃げられない、同時にこの狭い場所には自分しかいないことはすぐわかった。どこかからか餌もやってくる、奪い合う兄弟たちもここにはいない。抵抗をやめて餌が来るのを待つ日々、気づけば痛みと恐怖はなくなった。代わりに生まれたのは疑問だった。
ここはどこだ?隙間から餌をいれてくるものはなんだ?
身体の大きさとともに肥大化した知識は、自分の状況を支配している何者かの存在を正しく知覚していた。隙間から見える手足と思えるなにかと、此方を観察するいくつかの瞳。自分に餌を渡すそれらは、自分よりも大きく、彼を阻む境界を越えて近づいてくることはなかった。
それが自分を、暗い場所から引きずり出したのだろうということは、予測ができた。だから、幾ら餌を与えられても警戒は解かないし、隙をみせれば噛みつく覚悟もあった。
「◇★ふぁdささ。」
不躾に近づいてきた手に噛みついたときの、慌てようは心地よかったが、しばらくは餌がこなかった。しかたないので従順なフリをしたら、今度は餌の量が増えた。
ルールを理解しそれは大人しく餌を食べることにした。すると徐々に餌が増えた。身体はさらに大きく、疑問は怒りに代わっていた。
「××××××」
何か楽し気な外の存在が腹立たしい。そう思いつつ一方的なこの関係が支配されているという屈辱であることを理解する知性はまだなかった。だから自由を欲した。
いつの日か、それに復讐し、自由を得る。
そう思いながら、それは身体に妄執と怒りをため込んでいくのであった。
飼育係に任命されたときは、仕事を任せてもらえたと思って張り切った。
「このやろう、噛みやがった。」
だが、すぐに誰もやりたがらない雑用を押し付けられたんだと分かった。機密保持だという理由で、檻がある場所はコンテナと段ボールの隙間を這って進まないとならないし、マウスには可愛げはなかった。
与えられた餌をむさぼり、糞などは檻の隙間から散らかすので、毎回掃除をしなくてはならない。一度に運べる量が限られるので満足するまで何度も往復しないといけないので、休む暇もない。
「貴重な商品で資料です。くれぐれも。」
そう言った雇い主のジョンは、最初の説明以来、立ち寄ろうともしない。報告は上げているが、数日後の商談の準備に忙しいから、いい感じにやっておけとしか指示をださなかった。
「くそ、餌食って、大人しくしてればいいものを。」
気まぐれだった。数日の餌やりで、愛着がわいて撫でてみようと思ったらがぶりとやられた。すぐに振り払ったので、大したケガにはならなかったが、裏切られた感がひどかった。
「ちっ、きたねえな―」
とっさに傷口を抑えたハンカチは、僅かな血と大量の唾液によってもう使えそうにない。世話係は苛立つままに、それを段ボールの山に向かって投げ捨てた。安物だから惜しくはないし、汚いものをいつまでも持っていたくなかった。
「ああ、そんなに深くはないか。」
傷は浅く、血はもう止まっていた。デカくなってもしょせんはネズミ。男は大した心配もせず、仕事を続けた。腹いせに数回分の餌やりをさぼったら、マウスは大人しくなった。身の程を知ったのだろう。
そう思えば再び愛着がわき、その後は黙々と仕事をした。面倒だが、払いはいいし、日々大きくなっていくマウスもどこか可愛らしい思えるようになった。
「もっと、大きくなりな。」
気づけば一日の大半を餌やりに費やしている。その自覚は世話係にはなかった。
リドルは薬品であるが、ウイルスや細菌のようなものでもある。その性質を理解しているからジョンは、専用のケースで管理し、保管しているコンテナは独立した電源と空調で管理され、一定の温度と湿度を保てるようにしてあるし、いざとなった場合は高い気密性で拡散や盗難を防げるようになっていた。
危険な薬品や希少な生物などを取り扱った経験もあり、無造作なようでその管理は徹底していた。そう言った信頼もあるからこそ、客たちも彼からは、買い取り以外の手段を択ばない。
しかしながら、ジョンは商人でしかない。理解はしていても、その危険性よりも需要と利益を優先して考えていた。だから飼育係には衛生の関係で手袋をして世話をするよう注意して、珍しい動物としか説明をしなかった。
機密保持を優先した判断。だが、それは最悪の凡ミスだった。
フンや抜け毛などは焼却処分させていたし、飼育係は人数を絞って監視も徹底していた。世話係に万が一があれば対応できる。それがジョンの傲慢であった。
ハンカチによって拭き取られた唾液、そこにわずかに含まれていたリドルは、本来ならばそのまま死滅し、自然に還っていただろう。だが、母体となったマウスのもつ生物的な生存本能はそれをよしとせず、新たな宿主を求めた。
乱雑に管理された段ボールのの隙間に落ちた唾液は、身体を求めた。倉庫にあるわずかな湿気を養分にハンカチをカビのように染め、出会いの機会を願った。そして、汚染は、一つのおもちゃを見出した。
それは、カモフラージュ用に大量に用意されたただのぬいぐるみにすぎなかった。だが中身の綿と繊維は有機物、バクテリアのごとくそれを分解エネルギーに変えながらリドルは、増殖し、いくつかのぬいぐるみを捕食し、やがては一つのぬいぐるみを身体とした。
この先をどうするか?
身体を得たリドルたちは思考する。由来とするマウスの知性は低く、具体的な策はない。あるのは食欲とわが身を増やさなければならないという強迫観念に似た何か。自然界ならばすぐに淘汰されていただろう。だがここには、餌も身体もたくさんあった。
ゆっくりと、しずかに。彼らは餌を喰らい、仲間を増やしていった。
段ボールやコンテナ、そして倉庫の壁はそんな彼らの虫のようにわずかな活動を覆い隠した。
その時が来るまで。
餌枠とフラグがたくさんな、素敵な取引現場―




