44.
自分と同じ気配。
ソーハの言葉にひどく動揺する。
それはつまり、魔物の血が混ざった人間のことだ。
(一体誰だ?)
ファシェンはごくりと唾を飲み込み、入口をじっと見つめる。
静かになると、1人分の足音が近づいてくるのがはっきりと分かった。
3人の間に緊張した空気が走る。
ソーハは素早く髪と目の色を金色に変え、人間に擬態する。
しばらく足音だけが響き──、ついにその人は入口から現れた。
羊のツノに似た特徴的な頭飾り。
前髪で顔を隠したその女性を、ファシェンはよく知っていた。
「ヘンネさん……!?」
ファシェンが驚きの声を上げた。
「あ、あれ。ファシェン……さん。どうしてここにいらっしゃるんですかあ? それに後ろの人たちは……」
昼間と変わらぬ間延びした口調。ヘンネはファシェンの後ろにいる子どもと大人に一瞬だけ目を向けたが、すぐにファシェンに向き直った。
「もしかして、もしかしてえ。ファシェンさんもダンジョンの魔人に会いにきたんですかあ?」
「ダンジョンの魔人に?」
ヘンネは「ファシェンも」と言った。つまりヘンネ自身、魔人に会うためにここに来たのだ。護衛も付けずに、たった1人で。
金の瞳に擬態したソーハは目を細めた。相手の目的が分かるまで、名乗るのはやめておいたほうがいいと判断する。
「ヘンネ。あなたはなぜダンジョンの魔人に会いにきたんだ?」
「お願いごとがあったんです。ここのダンジョンの魔人は、もやしを育てて人に食べさせようとしてたんですよねえ? つまり、人間と対話する意志がある。私のお願いを聞いていただけるかと思いましてえ」
ソーハが「お前のせいじゃねえか」という気持ちを込めて豆太郎を睨み、豆太郎はすっと視線を横に逸らした。
「それで、どんなお願いをするつもりだったんだ?」
ヘンネは両手を前に組んで、祈るように言った。
「はい! 私をここに住ませてくださいって、言おうと思ってるんですう」
「…………」
深い沈黙が落ちた。
ソーハは目を閉じて小さく小さく呟いた。
「最近こんな奴しか来ない……」
誇り高き魔人の悲しき呟きは、隣にいた豆太郎にだけ聞こえた。
□■□■□■
「ここに住みたい」というヘンネの答えに、ソーハは静かに目を閉じた。
もう嫌だ。このダンジョンには、もやしを食べにくる輩と住もうとする人間しか来ない。魔人のダンジョンをなんだと思っているんだ。
悲痛な表情で沈黙する魔人をよそに、ファシェンとヘンネの対話は続く。
「ファシェンさんも私と同じで、ここに住もうとしているのかと思ったんですが、違いますかあ?」
「なぜそう思うんだ」
「だって、あなたも私とおんなじでしょう?」
ヘンネが自分の手で、長い前髪をそっと上げた。
「んー。他の人もいるけど……。まあ、もう人と関わることもないだろうし、いいか。ちょうど今が頃合いですのでえ。お見せしますねえ」
頃合い。ファシェンにはすぐにその意味が分かった。
今でこそファシェンは、魔物への変身を制御できるようになったが、それまでは自分の意志に関係なく、一定の周期で魔物に変わっていたのだ。
彼女の言う頃合いとはすなわち、人から魔物へと変わってしまう瞬間。
隠していた前髪が持ち上げられ、ヘンネの風貌が露わになる。
黒々とした切れ長の瞳に白い額。その額を食い破るようにして、一本角が生えた。
黒い瞳が瞬きの度に色が変わり金色へと変化していく。髪を押さえていた細い指先から、錐のように鋭い爪が伸びる。
一瞬にして、彼女は人から魔物へと変貌を遂げた。
「ヘンネ……」
「びっくりしましたあ? あらためて、昼間のことはごめんなさい。私の魔除けで気持ち悪くなってしまったんですよねえ。だから、すぐに仲間だと分かりました」
雑貨屋で、魔除けを見て体調を崩したファシェン。それを見てヘンネはすぐに分かった。自分と同じだと。
「不謹慎ですけど、嬉しかったですよお。自分と同じ人がいるって分かって」
「私と同じ? だが、あなたは魔除けの織物職人だろう」
「ええ。いつも死ぬほど苦しんで、魔除けを作ってます」
ヘンネは長い爪を器用に操り、髪を耳にかけた。
「昔は不思議でしたあ。私が苦しめば苦しむほど、良い魔除けが出来上がってしまうんですよねえ。周りはそれを才能だ、なんていってもてはやして。私自身、良作は苦しみから生まれるんだ。なんて馬鹿な思い上がりをしたものですよお」
そうやって、毎日苦しみながら織物を作り続けて19歳になったある日。
その日は突然やってきた。
夜なべして作った特製の魔除けのケープ。出来栄えを確認しようと首にかけ、姿見を覗き込んだその瞬間。
──姿見に映った化け物と目が合った。
角、鋭い爪、爛々と光る目。
そしてその化け物は、自分の作った魔除けを首に掛けている。
ヘンネは絶叫した。
「そのまま家を飛び出して、森の中で一晩明かしました。朝人間の姿になったときは、心底ほっとしましたよお。でも、周りの人にバレたくなくて、家を出ました。それからしばらくは、眠るのが怖かったですよ」
ファシェンの胸にずきりと痛みが走る。彼女の気持ちは、よく分かる。
明日目が覚めたら、また魔物になっているのではないか。そんな恐怖を抱えて、身体を守るように丸めて眠る夜を、ファシェンも知っていた。
「私ももう、疲れちゃいましてえ。それならいっそ、人間ではなく魔物側になろうと思ったんです」
ソーハは眉間にシワを寄せて、ずいと前に出た。
「それでダンジョンに住みたいと? 甘えるな、気高く強い魔人が、そんな理由で人間をほいほい受け入れるわけないだろう」
ヘンネは不思議そうにソーハを見つめた。人間の子どもが、何故魔人に肩入れするようなことを言うのか、疑問に思ったのだ。
だが素直に頷いた。
「確かにあなたの言うとおりですう。魔人は人間よりずっと強く、遠い存在。私のような小娘の言葉を聞く理由はありません」
「お、おお。よく分かってるじゃないか、お前」
普段子ども扱いしかされないソーハは、まんざらでもない様子で頷いた。
「なので、対価を用意しましたあ」
「「対価」」
ソーハと豆太郎の頭に、お子様ランチがぽんっと思い浮かぶ。
リンゼの居住権獲得のため、山の山菜で作ったご馳走の数々。
それを思い出して、ソーハがごくりと唾を飲み込んだ。
「これは人間と決別するという、私の覚悟でもありますう」
(これだけの覚悟を決めて出してくる品だと……!)
(ああ、これはとんでもないご馳走が出てくるぜ、ソーハ)
(なぜ2人は食べ物だと決めつけているんだ……?)
3人でひそひそと話していると、ヘンネはすっと上を指さした。
彼女の指さした先は、ダンジョンの天井。小さな穴が開いている部分だ。
「あそこから外に出て、空を見てください」
「空……?」
皆不思議そうに首を傾げたが、とりあえずヘンネに従うことにした。
ファシェンが風の魔法を使い、全員を宙に浮かせる。そのままゆっくりと1人ずつ、穴から外へ出していく。
まずは豆太郎。
「うおお、空飛ぶって意外と怖……」
外に出たとたん、言葉が止まった。
気になりつつも、ファシェンは次にソーハを外に出す。
「おい、一体なに……」
またも、沈黙。続いてヘンネを外に出し、最後に自分が外に出て。
「……な……」
絶句した。
見上げた夜空。ソイビンの街の真上に、煌々と輝く紫の光。
夜闇を裂いて、巨大な魔法陣が浮かんでいたのだ。
ヘンネが一歩前に出て、3人を振り返り笑った。
「これが──魔人への供物ですう」
紫色の魔方陣を背に口元を歪める彼女の姿は、なんとも魔物めいて見えた。




