42.
消えてしまいそうな小さな声がファシェンの耳に届いた。
中にいた客の1人だろう。振り向いたファシエンが真っ先に目を奪われたのは、その女性の頭に付いている布飾りだ。頭の左右にくるりと円を描いた、羊のツノのような編み物。自分で作ったのだとしたら、相当手先が器用なのだろう。
「ぐ、具合が優れないようですがあ。店長さんに言って、少し奥で休ませてもらいます?」
前髪をうんと伸ばしているので表情はよく分からないが、その声音から心配くれているのが分かる。
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
アイテムを買うのはまた今度にしようと決めて、フアシェンは外に出ようとした。
だが、こういう時に限って間が悪く呼び止められるものだ。
「ヘンネ! そこにいたのか! ん? おお? 横にいるのは風の勇者様じゃねえか」
掠れたハスキーボイスと共に、店の奥から1人の老人が現れた。
後ろを刈り上げ、横に長い白髪を垂らした奇抜な髪型。見た目は老人だが、その実若者よりエネルギーに満ちあふれている。
ファシェンはその人を知っていた。というか、街の大人はだいたい知っている。
彼はソイビンの街の顔役の1人、アリコルージュという男だ。
大物中の大物である。
彼は大股で近づいてきて、にかっと笑う。笑い皺が目元にくしゃっと付き、埋め込まれた金歯がきらりと光った。
「いったいどういう組み合わせだ?」
「どういうも何も、今お会いしたばかりの関係ですよ」
「そうか。ヘンネが人と話してるのが珍しいからよう」
ヘンネと呼ばれた女性は「ひぇ」と小さくうめいた。頭に付けた飾りを抑えて縮こまる。アリコルージュは親指でヘンネを指した。
「こいつ、魔除けの織物を作る天才なんだ。商人のツテで、やあっとこの街に来てもらったんだ」
「そ、そ、そんな大した腕前では……」
「ひゃひゃひゃ。普通は城下町でもなきゃ買えない魔除けだ。ファシェン、買うなら今のうちだぜえ?」
(……そういうことか)
ファシェンは納得した。
街の顔役、アリコルージュ。彼がわざわざ城下町に住むヘンネを呼びつけた理由だ。
ソイビンの街には、3人の顔役がいる。そのうちの1人がアリコルージュだ。
顔役3人は互いに権力の拡大を狙い常にけん制し合っている。
もちろん、自分の力のアピールにも余念がない。
アリコルージュが天才織物職人を連れて来たのはその一環だろう。彼は商人で、この街の商売人たちに大きな影響力を持つ。王都とのツテもあり、城下町の織物職人を連れてくることだって簡単にできるだろう。
ファシェンとしては「余計なことを」と思わなくもないが。
(しかしこの流れで、魔除けを買わずに出るのはカドが立つか……)
ファシェンとしても、街の顔役に目を付けられるのは避けたい。
仕方なく1つ買っていこうと考えたところで、ヘンネがびくびくとしながら一歩前に出た。
「あああの、アリコルージュ様。こ、こちらの方は具合が悪いようなので、またの機会に」
「んお? そうなのか。そりゃあ呼び止めて悪かったな」
「あ……、いえ。気にしないでください」
「は、早く寝た方がいいですよう。さようなら、ファシェンさん」
「ああ、では」
ヘンネに促されて、ファシェンはそのまま店を出た。
視界から魔除けが消えた途端、ざわついていた心が落ち着いていく。
来た道を歩きながら、布飾りを付けた天才織物職人を思い出した。
(ヘンネさん、いい人だったな)
仕方のないこととはいえ、彼女が丹精込めて作ったものを買うのを拒否してしまったことを少し後悔する。
今度エルプセにお願いして、3つほど魔除けを買ってもらおう。そう決めて、ファシェンは店を後にしたのだった。
□■□■□■
その日の夜。
リンゼは行きつけの酒場でもりもりと肉をほおばっていた。
ファシェンと豆太郎を2人きりにするため、張り切ってダンジョンを飛び出してきたのだ。
その都度豆太郎が「また肉のところに行くのか」と1人対抗心を燃やしているのを彼女は知らない。
頬袋をぱんぱんにした彼女を、長い髪をひとくくりにした青年が呆れ顔で眺めていた。
彼の名はエルプセ。ファシェンやリンゼの仲間で、炎の勇者である。
「リンゼ、お前よく食べるな。昨日も食べてただろ」
「まあね。私が肉を食べるほど恋が進展する仕組みなんだ」
「そんな野生的なジンクス聞いたことねえよ」
そんな2人を、大柄な男性が微笑ましそうに眺めている。
鍛えぬいた肉体の持ち主、その名はザオボーネ。パーティーのリーダーであり、1児の父である彼にとっては、エルプセやリンゼも我が子のような存在なのだ。
生ハムとビールに舌鼓を打っていたザオボーネは、ふと入口の方に視線を向けた。
酒だ、肉だとにぎわう酒場に、1人の女性が入ってきたのだ。
羊のツノのような変わった頭飾りをつけた女性。
それだけなら別に珍しいことではない。現に誰も気に留めていない。
だが、その女性はあまり酒場の雰囲気にそぐわない大人しそうな女性だった。
現に今も酒場の空気にびくびくと怯えながら、座れる席を探している。
ザオボーネはちらりと店員たちを見る。彼らも酔っ払いたちの注文を聞くのに手一杯のようだ。
「お姉さん、こっちが人が少ないぜ」
ザオボーネが声をかけて、手招きをする。
女性は飛び上がったが、ややあって人ごみの間をすり抜け、ザオボーネの指さしたカウンターの隅に座った。
「あ、あ、ありがとうございますう」
「んにゃ。見たところ冒険者でもなさそうだが、どうして酒場に? 人探しか?」
手元のチーズと生ハムを差し出し、ついでに店員を呼び止めて適当なジュースを頼む。女性はお辞儀をしながらチーズを一かけら手に取った。
「人ではないのですが、そのう、うわさを知りたくて」
「うわさ」
「はい、『もやしダンジョン』についてですう」
──彼女の何気ない発言で、そのテーブルだけ時間が止まった。




