27.
目を閉じたリンゼに、ソーハは無表情のまま近づいた。
手を伸ばせば届く距離まで来たところで、ソーハは止まる。
彼女を殺すのは簡単だった。
ここはダンジョン最下層、地下3階。ソーハの力が最も強くなる場所だ。
この手をかざしてほんの少し魔力を込めて破裂させる。それで終わりだ。
けれど。
『ソーハな、ソーハ。俺は豆太郎だぜ』
『ソーハさま。私ももやし料理を作ってみましたよ』
けれど。
きっとレンティルも、あのお人好しの人間も。
それを望みはしないのだ。
「──なあ、聞こえているだろう。魔物よ?」
ソーハの全身から魔力があふれだす。力の奔流を殺気に変えて、目の前の1人に注ぎ込む。
「見えているだろう、聞こえているだろう、感じるだろう。その器に引きこもっていていいのか? お前の命を脅かすものが目の前にいるぞ!」
──魔物は強い人間を警戒する。自然災害に恐れをなす。
だが魔物にとって、最たる畏怖の象徴は魔人を指す。
魔物は何より魔人を恐れているからこそ、彼らに従うのだ。
そして今。
リンゼの中にひそむ魔物は、自らの遺伝子に刻まれた恐怖を呼び起こした。
──逃げなければならない。
──死にたくなければ、抗わなければならない、と。
「……う!?」
リンゼが震え、がくりと膝をついた。
胸を押さえ、大きく目を見開く。
「ああ……あぁあ!」
リンゼの体から、じわりと黒い染みが浮き上がった。それはざざざざ、と宙に巻き上がり黒い水の渦を成す。
体が裂けるような痛みに、リンゼは絶叫した。
黒い水はゆらめき、うねりを上げてソーハに襲いかかる。
ソーハは眉1つ動かさず片手を上げた。それだけで、見えない障壁が水を弾く。
弾かれた水はしゅるしゅると渦巻き、瞬きの間に姿を変えた。
蛇のように長い体。その全身をおおうは水の鱗。
現れたるは、水の黒龍。
龍は口を大きく開き、ソーハをひと飲みにしようと襲い掛かった。
「勢いだけは褒めてやろう」
ソーハが右手の人差し指を龍に向けると、その大きな口が爆ぜた。
水風船が割れるように、水飛沫が勢いよくあたりに飛び散る。
地面に落ちた水飛沫が震えた。それらは磁石のように引き合って集まり、再び龍の形を作る。
ソーハは舌打ちした。
(殺さないようにする加減が難しいな)
相手は水の魔物。今のは身にまとっている鎧を攻撃したようなものだ。
相手をリンゼから切り離すには、どこかにある核を攻撃する必要がある。
(おそらく核は、あの女と繋がっている部分)
龍の尾はひげのように細くなり、リンゼをぐるりと囲んで心臓と繋がっていた。
もしソーハが魔物を切り離そうとすれば、再びリンゼの中に逃げ込めるようにしているのだろう。
ソーハの全力であれば、魔物が逃げ込むより早く核を攻撃することもできたかもしれない。
だが、今ソーハは全力を出せない。リンゼに加護の防壁を張っているからだ。
リンゼを救い、魔物を切り離すためには、魔物の核を攻撃する役割を担うもう1人が必要になる。
ただしここは地下3階。
ダンジョンの道中にはソーハが工夫をこらした数々の罠、複雑な迷路、強敵が待ち受けている。
瞬間移動で自由に場所を移動できるのは、ダンジョンの主であるソーハだけ。
レンティルでさえ、ここまで降りてくるのに数日かかるだろう。そうすれば、ソーハもこの拮抗状態を保つのは難しい。
だが。
このダンジョンには、あの男がいる。
ソーハは水晶玉を取り出した。いつもより2回りほど小さい、通信用の水晶玉だ。それを額に当てて、頭の中で語りかけた。
『聞こえるか、レンティル』
『……はい、聞こえます。ソーハさま』
リンゼを殺すのも、魔物を殺すのも、ソーハにとっては造作もないことだ。
だってソーハは、レンティルが認める誇り高き魔人なのだから。
だから、ソーハはさらに難しいことに挑戦する。
『マメタローを連れて、俺の元に来い』
それを難なく成功させて、どうだ、と笑ってみせるのだ。




