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人間と魔人。
3人の間に、重たい沈黙が落ちた。
「…………」
「ソーハさ……」
呼びかけたレンティルは思わず口を閉じた。
いつも感情を豊かに表現するソーハの顔から、すべての感情がそぎ落とされていた。
(ものすごく怒っていらっしゃる)
レンティルはそっと口を閉じて控える。
「…………」
ソーハの頭の中で、誰かの声がする。
それはそこで寝こけている男の声だった。
『俺を召喚してくれて、ありがとう』
「…………」
ソーハはずんずんとリンゼに近づいていった。そして彼女の腕を掴んで思いきり睨みつけた。
「ふざけんなよ、お前」
彼女が、ソーハの言葉の意味を理解するより早く。
ソーハとリンゼの姿がふっとかき消えた。
□■□■□■
ソーハのダンジョン、入口付近。
「あれ、エルプセさん」
「あ、レグーミネロさん……」
レグーミネロがベンネルを引っ張ってダンジョンに行くと、そこには先客がいた。
ザオボーネ、ファシェン、エルプセの勇者ご一行だ。やけにどんよりしている。
「こんにちは。皆さま。今日はリンゼさんは一緒じゃないんですね」
「……ああ、まあ……、そうっすね」
エルプセが暗い顔で視線を逸らした。
実のところ、そのリンゼの手掛かりを探しに、3人はこのダンジョンへやってきたのだ。
突然のパーティー脱退宣言。
事情を聞こうと3人がリンゼを問いただしたが、彼女は「明日話す」と言ってその場を去り、そのまま行方をくらませたのだ。
3人はあちこち探した。リンゼがよく行くお店、街はずれの泉、孤児院。
しかしどこにも彼女はいなかった。あとの手掛かりはせいぜい、最近リンゼが夢中になって食べていた「もやし」くらいだった。
なので、わずかな希望をかけて、もやしを育てている豆太郎の元へとやってきたのだ。
暗い雰囲気の3人を見て「これは触れてはいけない話題だったのかな」とレグーミネロはちょっと焦った。
(なんだか深刻そうな雰囲気だし、今日は私たちは帰ったほうがいいかしら)
「急用を思い出した」とでも言って帰ろう。レグーミネロが口を開いたとき、ファシェンがはっとした様子でダンジョンの入り口を見つめ、走り出した。
「ファシェン!?」
「姐さん!?」
「えっえっ」
「おい馬鹿、着いていくな、危ないだろう!」
弾かれたように走り出したファシェンのあとを追う勇者2人。
反射的にレグーミネロは後を追おうとして、ベンネルに止められた。
「どうした、ファシェン!?」
「中で何か起きている!」
ファシェンがそう言ったのには根拠がある。
ファシェンは、常人には感じ取れない魔人の気配を感じ取れるのだ。
それが今この瞬間、ダンジョンの外にいても感知できるほどに膨れ上がった。
(中で一体何が起きている、マメタロー!?)
ダンジョンに住む男の安否を心配しながら、ファシェンは走り続けた。
□■□■□■
数週間前。
とある孤児院での炊き出しにて。
リンゼはスプーンを持ったまま固まっていた。
スプーンを凝視する。そこにのっていた「もやし」という食べ物を口にした瞬間、自分の中の魔物が確かに弱体化するのを感じたのだ。
(この食べ物は一体……!?)
動揺するリンゼに、給仕をしていた男が声をかけた。
「どうした? えーと、リンゼ?」
リンゼははっと顔を上げた。
彼は確かマメタローと呼ばれていた。
事情はよく知らないが、エルプセが立ち直るきっかけとなった人だ。
「え、えと。もやしが思っていた以上に美味しかったので、驚いた」
そう言うと、豆太郎は笑った。
心の底から嬉しそうに。
「そっか。じゃあ、もっともっと食べろ」
その笑顔を見て、リンゼは初めてザオボーネに会ったときを思い出した。
お腹を空かせたリンゼにたくさんご飯を食べさせて、彼は「もっと食べて大きくなれよ」と笑った。
リンゼの住んでいた村では、そんなことは言われたことがなかった。
誰もが自分の食い扶持を守るのに必死で、隙があれば誰かの食べ物を奪おうと必死だった。
なぜこのおじさんたちは、他人が食べるとこんなに嬉しそうにするのだろう。
彼らの腹が満たされるわけでもないというのに。
リンゼのその疑問は、ずっとずっと解けないままだった。
□■□■□■
「ぐっ!」
思いきり身体を地面に打ち付けて、リンゼは呻いた。
真っ暗な天井。日の光を一切通さない壁。
(ここは、先ほどのダンジョンの下層?)
ダンジョンの下層に行くほど魔人の魔力濃度は高くなる。
それに比例して、人間の身体への負荷も増大する。
リンゼは慌てて加護の魔法を唱えようとしたが、思ったほど身体に負担がないことに気が付いた。
(誰かがすでに私に加護をつけている?)
「体に問題はないだろう。なにせ、俺の加護がついているからな」
ぼっと明かりが灯り、声の主が闇の中から姿を現した。
彼の紫色の目は、静かな怒りに揺れていた。
(この子は、どうしてこんなに怒ってるんだろう)
水源を勝手に利用しようとしたから?
魔物を殺そうとしているから?
そのとき、リンゼは豆太郎を庇うように立っていたソーハの姿を思い出した。
それに孤児院で見た豆太郎の笑顔が重なって、リンゼはようやく理解した。
(……ああ、そうか)
豆太郎は、ザオボーネみたいな人だ。
誰かが美味しそうに食べる顔を嬉しいと思える、優しい人。
自分のことばかり考えていたリンゼは、気づこうともしなかった。
リンゼがいなくなれば、誰かが気づくかもしれない。
彼女に水の魔物が巣食っていたこと、ダンジョンの水を飲んで自死したこと。
きっかけが、孤児院でもやしを食べたこと。
もし、自分が作った食べ物が人を殺すきっかけになったと知ったら、豆太郎はどう思うだろう。
「最低だねえ、私」
彼女にとって、魔人は魔物の延長線上にいる生き物だ。
だけどあの魔人の行動は、自分よりよほど人間らしかった。
ソーハは、大事な人が傷つくのを見たくなかったから怒ったのだ。
ソーハがゆっくりと近づいてくる。
暗がりの中、無表情で近づいてくる彼の姿だけがはっきりと見えて、死神のようだった。
自分は今から殺されるのだろうか。水ではなく、ソーハ自身の手で。
(せめて魔物ごと私を殺してくれればいいが、それは無理だろうか)
抵抗も懇願も、今の彼女には許されない。
目の前にいるのは、ダンジョンの主なのだから。
リンゼは諦め顔で笑った。
「ごめんね」
勝手にいなくなってごめんなさい。
利用しようとしてごめんなさい。
傷つけて、黙っていてごめんなさい。
後悔しても遅いけれど。
たくさんの人と、目の前の魔人へ。短い謝罪の言葉を。
そうしてリンゼは覚悟を決めて目を閉じた。




