16.
「──ちょっと待ったあああ!!」
エルプセが思わずずっこけて、ザオボーネが動きを止めた。
全員が一斉に声の主を探して通路の方を見る。
慌ただしい足音と共に、通路から1人の女の子が飛び出してきた。
「レグーミネロ!?」
思わず豆太郎がその名を呼んだ。
レグーミネロは、ぜえぜえと肩で息をした。
そして顔を上げると、勢いよくザオボーネに挨拶した。
「初めまして、土の勇者ザオボーネ様! 私はベンネル・メメヤードの妻、レグーミネロと申しますっ」
手に持っていた書状をザオボーネに突きつけた。
「この度こちらのダンジョンの調査権は、我々メメヤード家が買い取らせていただきました。よって速やかに戦いを止め、退去願います!」
エルプセは驚いた。
ダンジョンの調査権は国に帰属しており、民間人が買い取ることができる。
物資や立地に目をつけて商家が買うことは珍しくないが、決して安くはないはずだ。
ザオボーネは彼女の持っている書状をまじまじと見つめた。
押された印章は間違いなく王家のもの。
偽造文書の類ではなさそうだ。
「確かに本物のようだ。なるほど、これで俺は、このダンジョンにいる者に手出しできなくなるな」
ザオボーネのその言葉に、エルプセは全身から力を抜いた。
これでこの場の主導権は、第三者であるレグーミネロに移行した。
予想もしなかった結末だが、これで戦いはしなくて済む。
そう思ったのだが。
「……だがお嬢さん。いくら調査権があったとしても、だ。ダンジョン内で緊急に命の危険を要する場合は、関係者以外の武力行使も認められるんだ、知っていたか?」
ザオボーネの殺意は、まだ消えていなかった。
「たとえば目の前に魔人がいる今この状況は、まさに緊急事態とみなされるんだ」
退く気はないというザオボーネの気迫を感じ取り、エルプセは強く剣を握った。
「くそっ!」
ザオボーネが楯を前に掲げて前進する。
その振動で大地が揺れる。
「マメのおじさま!」
レグーミネロの悲鳴。鶏があたりを飛び回り、ヤギが鳴く。
大地の振動に耐えられず、棚の上のものが地面に落ちて──。
ばさりと。
1冊のノートが、地面で広がった。
それを見た瞬間、ザオボーネの動きがぴたりと止まった。
「…………?」
エルプセもノートに視線を落とす。
それは子どもが描いたらしい、たどたどしいもやしの観察日記だった。
「これは……」
「た、ただの観察日記だよ、近所の子どもの」
殺されかけている恐怖のせいか、どもりながら豆太郎は説明した。
ザオボーネはその観察日記をじっと見つめる。
□■□■□■
昔の話だ。
ザオボーネの娘が魔人のせいで大怪我をしてから、1か月経った頃のこと。
彼は何かに取り憑かれたように魔人を討伐し続けていた。
娘を助けられなかった罪悪感から家族と顔を合わせられず、帰るのはいつも真夜中。
ある日、夜遅くにこっそり家に帰ると、妻が仁王立ちで待ち構えていた。
ついに別れを切り出されるのだろうか。そんなことを考えるザオボーネに、彼女は怒った顔のまま、1冊のノートを突きつけてきた。
困惑しながらそれを開くと、そこにはひさしぶりに見る娘の字が綴られていた。
『交換日記、だそうです。娘と顔が合わせられない弱虫のあなたのために、あの子が考えた方法ですよ』
ザオボーネは黙って日記を読む。
今日はどんな本を読んだとか、お昼ご飯が美味しかったとか、他愛ないことが書かれていた。
怖い目にあったはずなのに、苦しい目にあったはずなのに。
彼女の文章には、幸せがいっぱい詰め込まれていた。
ぱたり、とノートの上に雫が落ちる。
一度こぼれると、もう止まらなかった。
妻は盛大にため息をついて、泣いているザオボーネの頬に触れた。
『泣き虫さん。明日は夜ご飯に間に合うように帰ってきてくださいね』
ザオボーネは娘のくれたノートを胸に抱きしめて頷いたのだった。
□■□■□■
一触即発の現場で、地面に落ちた1冊のノート。
ザオボーネはそこに書かれたもやしのイラストを見つめていたが──、突然笑い出した。
「……くく、はっはっはっ!」
突然の奇行に、全員が驚いた。
ザオボーネは顔を押さえてひとしきり笑う。
「はー、なるほど。なるほどなあ」
ザオボーネは楯を背負い直すと、くるりと踵を返した。
「悪い、邪魔したな」
「って、ええ!? いいんすか!?」
思わずエルプセは止めてしまった。
いや、「よくない」と言われても困るのだが。
「いいさ。魔人が子どもとそんな観察日記をしているとも思えんからな」
もし魔人だったとしても、これを見てしまったらもうだめだ。
豆太郎が人間に害をなそうとしない限り、きっと自分には殺せない。
その部分はそっと胸中に隠し、ザオボーネは豆太郎の方を振り向いて、歯を見せて笑う。
「もやし、うまかったぜ。ありがとさん」
そうして、今度こそ振り返らず。
ザオボーネは地上へと去っていったのだった。
「……はああ〜……」
エルプセとレグーミネロが、同時に地面に崩れ落ちた。
緊張の糸が一気に切れたのだろう。
地面に沈む2人を見て、豆太郎はぽりぽりと頬をかき。
「ええーっと、2人とも、ありがとうな。め、飯にするか?」
いつも通りの能天気な提案を持ちかけたのだった。




