行ってきます
「じゃあ、先行くな」
「ちょっとだけ待って!」
玄関から、リビングに居るはずのカナに声をかける。
朝ごはんを食べ終わった俺は、歯磨きに諸々を終え、スーツに袖を通して通勤寸前。
普段家の中では半裸なので、パジャマから着替えた今日はちょっとだけ時間が掛かったように感じる。誤差ではあるが、これまでとの確実な違いを実感する。
今日はミーティングがあるので、少し早めの出発。
カナは1時間程後に家を出る予定の筈で、ありがたい事に高く積まれたダンボールの開封を行ってくれている。
「これはここ置いといて…… よっし。1個終わりっと!」
地図アプリで駅への道を確認しつつ、靴べらで革靴に足をはめ込む。
その間、リビングから聞こえてくる声が愛おしい。これまでの慌てるばかりの出社とは違い、今はなんだか余裕がある。
カナの声が持つリラックス効果は、小さな頃から俺を安心させてくれていた。そして今はより強くその効果を感じる。
「ちょっと待ったぞー」
「あと4秒ー!」
声と共に、スリッパが地面を押す音と共にリビングに繋がるドアが開いた。
カナはまだ部屋着のまま。だけど薄らと行われたメイクが可愛さをより高めている。
「お決まりは消化しなきゃ!行ってらっしゃい、言わなきゃでしょ?」
「それは知らんけど」
キラッキラした目で見てくるカナ。このモードは、応じないと微妙に拗ねゲージが溜まるやつだ。
流石に社会人。やるまで引き止められるなんてことは無いだろうが。
覚悟を決めて、言葉を紡ぐ。
「……行ってきます」
あ、ヤバいやつだ。これ。
言った瞬間に悟る。朝のアーンで削られたHPが、耐え切れる気がしない。
だけど俺の口は最後の1文字まで言い切っていた。
瞬間。
時間の流れが急に遅くなった。これ絶対、ゾーン的な何かに入ってる。
正面に立つ、カナの桃色の唇がゆっくりと開き、音を漏らす。
言い出しっぺの癖にちょっと照れた様な目が、俺を勘違いさせる。
覗いた歯の白さに、走馬灯の様に前歯を欠いた幼い頃の彼女を思い出した。
「いってらっしゃい」
放たれたそれは超兵器。
顔に血がのぼり、耳が熱くなっているのを感じる。中学生か? 自分が恐ろしくなるほどときめいている。
たったこれだけのことで。
だからこそ、俺は思わず身構えてしまった。
生存本能だろう。
これ以上は洒落にならない。
再び小さく息を吸う音が聞こえた。
「……キスは、お預けね?」
まみむめも!?!?!?
上目遣いの茶色っぽい瞳は見た気がする。
気付いた時には、会社の最寄り駅。
「……よーし、ミーティング頑張るぞ!!」
握った拳に、力は入らない。
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