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「元締め! 今回はずいぶんな稼ぎになりやしたぜ!」
ノックの音に応じて相手を確かめ、入室の許可を出す前に人払いをした部屋の主は、入ってきた人物が口にした言葉に眉を寄せた。
そして長年仕えてくれている腹心の部下を見上げ、ため息を吐く。
「アレッジオ。何だ、その話し方は?」
「いえ、こちらのほうが雰囲気が出るかと思いまして。どうでした? 様になっていたでしょう?」
「様になりすぎていて、お前が下町の破落戸だと言われても誰も疑わないだろうな」
「ええ? 陛下、それは褒めすぎですよ」
部屋の主――エアーラス帝国皇帝ラゼフは嫌味が通じなかった相手――国土調査庁のアレッジオ・ローチ長官に呆れた視線を向けた。
国土調査庁と言えば聞こえはいいが、本当の仕事内容は間諜である。
もちろん、そのことを知っているのは皇太子をはじめとした主だった者だけだ。
「皇太子殿下はいらっしゃいましたか?」
「ああ、先ほど帰還の挨拶に少しだけ顔を出した」
「で、どうでした? もう皇宮中の噂になってますが、本当に殿下は笑っていらっしゃいました?」
「いや、残念ながら、相変わらずの仏頂面だったな。だが、雰囲気がまったく違った。驚くほど柔らかくなっていたが、本人は気付いていないようなので、笑いをこらえるのが大変だったぞ」
「ほう。それはそれは……。ぜひ後でお会いしに行かなければ」
「やめろ、アレッジオ。お前の顔を見れば、ジェスの機嫌が悪くなる」
「なんとまあ、失礼な。こんなに愛嬌のある顔をしているのに」
きっちり長官の制服を着ていてなお、どこかの山賊の頭にしか見えないアレッジオの強面をちらりと見上げ、ラゼフはわざとらしく鼻を鳴らした。
これで街へと出れば自然と溶け込むことができるのだから不思議である。
さらにはアレッジオの部下たちは、物覚えのいいラゼフですら、誰一人として顔を思い浮かべることができない。
そんな彼らは、皇宮内はもちろん、国内外のいたる所に潜入している。
「まあ、せっかく殿下のお噂が良い方へ向かい始めたのですから、ここで不機嫌にさせてしまって台無しにするのはやめておきましょうか」
「そうしてくれ。……あれには申し訳ないことをしたからな。そろそろ〝紅の死神〟も引退だろう」
「そうですね。殿下は初陣からそのお力をいかんなく発揮され、敵兵たちが〝紅の死神〟なんて呼び出したものだから……。それを面白がった我々もいけませんでした。この国も十年ほど前までは戦続きでしたが、今はすっかり落ち着きましたからねえ」
「まったくだな。はじめは本人も不本意だったようだが、その二つ名のお陰で、無駄な争いを避けることもできるようになり、仕方なく受け入れていたが……。ただ気がつけば、味方までもが恐れ、皇宮内でも忌避されるようになってしまったことが誤算だった」
それでもジェスアルドは平気なふりをしていたのだ。――コリーナ妃が亡くなるまでは。
あの悲劇以来、ジェスアルドはすっかり心を閉ざしてしまった。
もし妻が生きていてくれればと、ラゼフは何度思ったかわからない。
だが、ラゼフは嫌な思い出を吹き払うように大きく息を吐き出すと、アレッジオに悪戯っぽい目を向けた。
「お前には本当に感謝している。あのように明るい姫を見つけ出してくれたのだからな」
「おや、それは未だにフロイトの謎を探り出すことのできない私への、励ましの言葉になりますね」
そう答えて、アレッジオもにやりと笑った。
次々と新しい製品や生産方法を生み出すフロイト王国を、各国は〝フロイトの謎〟と呼んで、その秘密を探ろうとしている。
もちろん素直に教えを乞えば、製法を教えてはくれるのだが、問題はどうやって――もしくは誰が、次々と新しい発想を生み出しているのかなのだ。
数ヶ月前、ようやくアレッジオの部下は、賢人グレゴリウスが名前を変え、王家の子供たちの家庭教師としてフロイト城に滞在しているらしいとの情報を掴んだ。
しかし、部下たちはグレゴリウスの顔を知らない。
そのため、唯一知っていたアレッジオが確認にフロイト王城に潜入して遭遇したのが、とても変わった姫――アマリリスだった。
病弱だと話に聞いていた通り、滅多に部屋から出てくることはなかったが、ごく稀に姿を現すと、その行動が面白い。
小国とはいえ、王女であるはずのアマリリスが、ある日は農場へ馬に乗って向かうと、牛の乳を搾り、堆肥作りを手伝う。
またある日は、手に傷を作りながらもバラの花摘みを手伝っていた。――というより、率先して行っていた。
体に障るのではないかと、見ているこちらがはらはらしてしまっていたが、本人はいたって平気そうなのである。
しかも誰にでも分け隔てなく接し、農夫の汚れた姿を気にするでもなく笑って話しかけ、一度など火傷で顔面の半分がただれた老女の手を握り、軟膏を渡していた。
残念ながらそれは、王城からあまり離れていない場所に限定されてはいたが、〝美しきフロイトの眠り姫〟との噂は本当だったのだと、アレッジオは感心したものだった。
確かに、妹姫のほうが容姿はとても美しい。
ただ末の王子が生まれるまでは一番年下ということもあってか、少々甘やかされて育ったようだった。
それにしても、宰相の息子であるアルノーと恋仲にあるらしいと部下から報告があった時には、アレッジオもさすがに驚いた。
アルノー・ボットはアマリリス王女の婚約者候補なのだ。
(ずいぶん迂闊な男だな……)
アレッジオにとってフロイト王国の宰相は聡明な男だとの印象だったが、息子はどうやら違うらしい。
将来を有望視されていると聞いたが、恋情を制御できないようでは未熟にも程がある。
それがどれだけ周囲に混乱を引き起こすかわからないはずはないのに、それでも選んだ相手はただ綺麗なだけの普通の王女なのだ。
(俺なら断然、アマリリス王女を選ぶな……)
そこまで考えて、アレッジオはすっかり無表情になってしまったジェスアルドを思い出した。
昔は、その容姿を陰で何と言われようと笑っていたジェスアルドも、今では全てを諦めてしまっている。
アマリリス王女なら、もう一度ジェスアルドを笑わせてくれるのではないか。
らしくもなく、そんな希望を抱いて、アレッジオは自嘲した。
(たとえそうだとしても、病弱なアマリリス王女を国外へ嫁がせるなど、心優しいドレアム王が許すはずがないよなあ)
残念な気持ちのままに本国へと戻ったアレッジオは、報告のために皇帝ラゼフの許を訪れた。
そしてラゼフは、アレッジオが賢人グレゴリウスのことよりも、アマリリス王女に気を取られていたことに気付き、詳しい説明を求めたのだ。
「なるほど。確かにそれは惜しいな」
アレッジオにそこまで言わせるのなら間違いはないだろう。
ラゼフは本心から惜しんだが、天はラゼフに味方した。
今までかろうじて独立を保っていたフロイト王国に、フォンタエ王国が従属を求めて動き始めたのだ。
そんなフロイト王国存続の危機を、ラゼフは絶好の機会と捉えて援助を申し出た。
息子であるジェスアルドと王女との結婚によって、同盟を確かなものとしたいと条件をつけて。
いきなり病弱だと有名なアマリリス王女を望んでも怪しまれるに違いない。
そのため、王女のどちらかとしたが、アレッジオの報告から推察するに、まず間違いなくアマリリス王女が自ら名乗り出るだろう。
アマリリス王女は、妹王女の恋人の存在に気付いているらしい。
しかも体は弱くとも、馬に乗れるほどの体力はあるのだから十分である。
「別にアマリリス王女に、跡継ぎだの皇太子妃としての公務だのを求めはしない。ただジェスが感情を取り戻すことができれば――いや、感情を抑えることをやめさせることができれば、それだけでいいんだ」
「ですが、陛下の思惑が外れてダリア王女が嫁いでいらっしゃることになったらどうするんですか?」
「それはもちろん、適当な理由をつけて破談にするしかないだろう。支援することには変わりないんだ。これ以上フォンタエ王国に好きにさせるわけにはいかないからな。任せたぞ、アレッジオ」
「ええ? 丸投げですかあ?」
「理由はほら、ダリア王女は若すぎるため〝紅の死神〟が納得しなかったとかどうとか……ジェスのせいにでもすればいい。ああ、それからジェスにはできる限りこの話を漏らすなよ。できればアマリリス王女が嫁いで来るまで隠しておくのが最善だな」
「またそんな無茶振りを……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、アレッジオは結局は成し遂げたのだ。
ラゼフの予想通り、アマリリス王女が嫁いで来ることになり、ほっとしたのも束の間。
同盟の条件に自分と王女との婚姻が含まれていたと知ったジェスアルドは、ラゼフに抗議するだけでは我慢できなかったのか、国境近くの街ブルーメまで花嫁を迎えに行ったのだ。
「――いやあ、あの時は焦りましたよねえ。殿下は王女を追い返されるつもりではないかと、冷や冷やしました」
「というよりも、自分の姿を見せれば王女は怯えて国へ逃げ帰ってくれるくらいに考えていたんじゃないか?」
「幸いにしてアマリリス妃殿下にその考えは思いつきもしなかったようですがね」
「それどころか、意気揚々と乗り込んできたように見えたぞ」
思い出話というほど昔の話ではないが、懐かしそうにラゼフとアレッジオはリリスが嫁いできた時のことを思い浮かべて笑った。
フロイト王国に対しては無理難題を押し付けてしまったが、帝国としては――いや、ジェスアルドの父としては本当に素晴らしい縁組だったと満足している。
「ただ新たな謎は増えたがな」
「グレゴリウスですか?」
「ああ。彼が〝フロイトの謎〟ならば、アマリリス王女に同行してきたのはおかしいだろう」
「確かにその通りですが、彼はかなりの気まぐれだと聞きますからね。しかもフロイト王はそれほどに欲の張った人物でもないですし、グレゴリウスの興味がこの国に移っただけかもしれませんよ」
「ふむ。トイセンのことにしろ、シヤナのことにしろ、そう考えるのが妥当だが……」
「陛下、あまり考えすぎると老け込みますよ。我が国に利をもたらしてくれるのならば理由などよいではないですか。グレゴリウスについては、もう少し様子を見ましょう」
机に肘をついて眉を寄せ考えるラゼフに、アレッジオは軽く答えた。
ラゼフはアレッジオを睨みつけながらも、無言で同意して話題を変える。
「まあ、とにかく城に仕えてくれる者たちの気晴らしも、当分は必要ないな」
「そうですね。しばらくは両殿下の話題でもちきりでしょうから。まあ、皆が飽きるまでには他の賭け対象を見つけておきますよ」
「ああ、頼む。では、いつものように利益は救貧院へ寄付しておいてくれ」
「了解しました。――ところで、妃殿下誘拐の件はいかがなさいますか?」
再びにやりと笑って頷いたアレッジオは、それからすぐに表情を一変させて問いかけた。
今回の誘拐事件はフォンタエ王国の官僚一人の暴走ですむ問題ではないのだ。
「それについては明日、詳細をジェスから聴く予定だ。お前も同席してくれ」
「かしこまりました」
最後はアレッジオも臣下らしく、皇帝に向かって深々と頭を下げてから、執務室を出ていった。
一人残ったラゼフはまた眉間にしわを寄せ、秘書官たちが戻ってくるまでじっと考えていたのだった。




