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いよいよ王都へと入った皇太子夫妻一行は、熱狂した民衆に迎えられた。
出発時は皇太子に対して怯えた様子だった街の人たちが、心から二人の帰還を喜んでいるようなのだ。
どうやらもうすでに、皇太子妃が攫われ、皇太子が助け出したという話が伝わっているらしい。
「大変だわ。一緒に〝暁の星辰〟も広めないといけないのに……」
窓から笑顔で手を振りながら歓声に応えているリリスが呟いた言葉に、同乗していたジェスアルドは一瞬固まった。
だが、何事もなかったかのように反対側の窓から手を上げたまま、いつもの無表情で民衆の歓声に応える。
やがて馬車が王城の大門をくぐり、正面の馬車寄せに止まった時には、大勢の使用人たちが出迎えに集まっていた。
にもかかわらず、その場は静まり返っており、リリスが不思議に思っている間に、ジェスアルドが外からの合図に答え、扉が開かれた。
先にジェスアルドが下りたが、誰かが息を呑む音が聞こえるだけ。
訝しがりながらもジェスアルドに手を差し出され、リリスは喜んでその手を取った。
そして、明るい日差しを浴びて輝くジェスアルドに見惚れながらも、ゆっくりと馬車を降りる。
瞬間――どっとその場が沸いた。
驚いてリリスがジェスアルドから目を離すと、集まっていた人々が悲喜こもごもの表情で騒いでいる。
そこで、賭けのことを思い出したリリスは、ジェスアルドの腕に腕を絡めて見せつけた。
するとさらに皆が喜びだか、嘆きだかの声を上げたが、ジェスアルドが片手を上げると、またその場が静まり返った。
「皆、出迎えご苦労。色々と噂が広まっているようだが、無事に私は妃を連れて戻ることができた。一緒に喜んでほしい」
皇太子は朗々と告げ、口角をかすかに上げる。
その笑顔ともつかない仕草に、皆が戸惑った。
今までなら誰もが恐怖に怯えたであろうその表情も、隣に立つ皇太子妃が頬を染めて見上げていると違って見えるのだ。
(え? 今のって、まさか殿下は微笑まれた……?)
皆の間に動揺が広がる中、皇太子妃が皇太子からゆっくり目を離し、皆の顔を一人一人見つめながら口を開いた。
「皆さん、このようにお迎えくださって、ありがとうございます。旅先では色々とありましたが、こうして無事に戻ってくることができました。この国に嫁いでくる時には不安もありましたが、今はとても幸せな気持ちでいっぱいです」
はにかんだ笑みを浮かべて告げた後、またすぐに妃殿下は皇太子へ視線を戻した。
妃殿下の視線を受けて、皇太子も妃殿下を見下ろし、またかすかに口角を上げてから、歩み始める。
もちろん妃殿下の腰に手を当て、しっかりエスコートして。
この瞬間、誰もが賭けのことも忘れ、ぽかんと口を開けて二人を黙って見送った。
たった今、目にしたものが信じられない。
呆けた様子の使用人たちを見て、皇太子の護衛騎士の一人がわざとらしく咳払いをする。
途端に皆が正気を取り戻し、大騒ぎになった。
「おい、今の……マジか?」
「幻じゃないよな? 殿下は笑っていらっしゃったよな?」
「やっぱあれ、俺の見間違いじゃなかったのか……。賭けに負けた現実が見せる悪夢かと思ったが……」
「妃殿下はとてもお幸せそうだったわよね?」
「誰よ、絵葉書は見せかけだなんて言ったの。間違いなく本物よ。本音よ」
「ああ、羨ましいわあ。私も素敵な恋人が――夫が欲しいー!」
「というか、妃殿下よりも殿下よ! あんなお優しいお顔をなされるなんて……」
「本当にねえ。今でも信じられないわ」
「賭けには負けてしまったけど、いいもの見れたし、このひと月節約生活も頑張れそう」
「ふふん。私は勝ったわ。しかもこんなに幸せな気持ちにしてもらえたんだもの。お裾分けしないとね。だからあなたに夕食を奢ってあげてもいいわよ」
「やった!」
などと話をしながら、いつまでもそこに留まるわけにもいかず、皆が持ち場に戻っていった。
そして出迎えに参加できなかった者たちへと急速に噂は広まっていく。
そんなことはおかまいなしに、ジェスアルドはリリスを部屋まで送っていった。
リリスは久しぶりの我が家――自室に入ると、喜びに顔をほころばせる。
そんなリリスを見守りながらも、ジェスアルドは残念そうに口を開いた。
「リリス、あなたは長旅で疲れただろう。今日、明日は何も予定が入っていないはずだからゆっくりするといい」
「殿下はお休みにならないのですか? こんなに長旅でしたのに……」
しかもリリスと違って、ジェスアルドは王都からトイセンへと到着してすぐに、リリス救出という難題をやってのけ、宿屋でも執務をこなしていたのだ。
「私はこれくらいでは大丈夫だ。だがあなたは体が丈夫ではないんだ。今回は大変な試練だったろう?」
そう言って優しく目を細めるジェスアルドに、リリスはいたたまれなくなった。
まだ病弱だと嘘を吐いたままであることが心苦しい。
できるだけ早く打ち明けなければと思いつつ、返す言葉がなくて、リリスは曖昧に微笑むしかできなかった。
「……どうか、ご無理はなさらないでください」
「ああ、わかった」
結局、リリスはありきたりのことしか言えなかったが、ジェスアルドは頷くと、リリスの頬に軽く手を触れて、部屋から出ていった。
その背を見送りながら、リリスは唇を噛みしめる。
ずっと先送りにしてきたことを、いよいよしなければいけないのだ。
(でも、当分はジェドも忙しいわよね……。気軽に話せる内容でもないし、二、三日様子を見てから……)
テーナが用意してくれたお茶を飲みながら、どう切り出すべきかを考える。
今回の旅に同行しなかったリリス付のメイドたちが次々に挨拶に訪れてくれ、その間は考えも中断されたが、やはりお昼寝のためにベッドに入ってからも悩みは続いた。
今ならジェスアルドが、リリスの力を気持ち悪く思うことはないと確信がある。
ただなぜここまで黙っていたのかと、疑念を抱かせてしまうのではないかとの不安があった。
ジェスアルドはきっと理解してくれるだろう。
だが、理性ではわかっていても、心の奥では拒絶されてしまうかもしれない。
(あーもう! あれこれ考えても仕方ないわ! ここまで引っ張ったのは私自身だし、覚悟を決めるしかないもの。大丈夫。とにかく、今はジェドのたまっているだろうお仕事が早く片付くことを祈るしかないわよね)
いつか、その仕事も少しは手伝えるようになればいいなと思いながら、気持ちを切り替えたリリスは眠りについた。




