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 翌朝、リリスはとても優しい声で起こされた。

 重たい瞼を開けると、楽しげに輝く紅い瞳。

 驚いたリリスの額にジェスアルドはキスをすると、申し訳なさそうに起き上がった。


「おはよう、リリス。本当はもっと眠らせてあげたいが、今日もまた旅が続くからな。そろそろ起きて準備をしたほうがいい」

「……おはよう、ございます。ジェド、あの……ありがとうございます」

「いや……うん。ではまたあとで」

「は、い……」


 声がかすれて上手く出せないリリスにジェスアルドは微笑み、それからどこか照れくさそうにして、ベッドから起き出すと、寝室から出ていった。

 もちろんドアの向こうに消える前に、リリスにもう一度微笑みかけてから。

 リリスはぼんやりとした頭でジェスアルドを見送り、徐々に頭がはっきりしてくると、昨夜のように上掛けをかぶって丸まり、悶え叫んだ。


「ゆ、夢じゃないよね? 本当だよね? ジェドが……ジェドが、私を好き! 嘘! いや、本当!」


 その声は幸い寝具が吸収してくれたおかげで、誰にも聞かれることはなかった。

 ただリリスが起きた気配を察したのか、ゆっくりとしたノックの音が響く。

 入室の許可を出したリリスに応えて、テーナが洗面用具を持って入ってきた途端、顔をしかめた。


「まあ、リリス様……。まさか昨夜は……」

「違うの! すごいの! だって、だって、殿下は……殿下は……教えてあげない!」

「……それは残念でございます。では、お支度を」


 リリスの浮かれ具合に安堵しながらも、テーナは呆れた声を出して洗面用具をサイドテーブルに置いた。

 リリスはベッドから起き出すと、洗面器に入れられたお湯で顔を洗い、テーナからタオルを受け取って、何気なく寝室の壁にかかっていた鏡を見た。

 そして――。


「ぎゃあああああ!」


 とのリリスの絶叫――悲鳴は宿中に響き渡った。

 それはもう、隣室にいたジェスアルドが剣を抜き、控えていた護衛騎士までもが許可なく部屋に入るほどに。

 寝室に入ったジェスアルドは一瞬で室内を見回し、うずくまっているリリスと、近くに立っているテーナの二人以外に気配がないことを訝しんだ。


「いったいどうしたんだ!?」

「申し訳ありません、殿下。実は――」


 言い訳しかけたテーナの声にかぶさるように、リリス側の居間に繋がるドアから護衛騎士の入室を求める声が聞こえる。

 その声にジェスアルドが必要ないと――妃殿下は無事であるとドアを小さく開けて伝えると、護衛騎士たちはほっとした様子でその場を去っていった。

 そして再びうずくまったままのリリスをちらりと見て、テーナに説明を求める。


「その、このようにお騒がせして申し訳ないのですが、実はリリス様の……苦手な虫が出まして……」

「虫?」

「はい。もちろん、もう退治いたしましたから、ご心配には及びません。ですので、どうか殿下もお支度をなさってください」

「……リリス、本当に大丈夫なのか?」


 テーナの説明に納得がいかなかったのか、ジェスアルドが問いかけると、リリスはタオルで顔を押さえたまま、ぶんぶんと首を縦に振った。


「――では、リリスのことを頼む」

「かしこまりました」


 ジェスアルドがリリスの許に飛んでくるまでの時間は恐ろしいほど速く、あの絶叫からそれだけの時間で一介の侍女が虫を始末できるわけもない。

 何か別の言えない理由があるのだろうと察して、ジェスアルドは引いてくれた。

 テーナは深く頭を下げながら、嘘を吐いたことを謝罪していた。

 特に虫が出ると不名誉な嘘を押し付けてしまった宿屋の主人に。

 それから深く深くため息を吐いたテーナは、リリスへと近づきその肩にそっと触れた。


「リリス様、いつまでもそうしていても治りません。ちゃんと処置なさりませんと」

「う……わかってる……」


 リリスがタオルに顔をうずめたまた答えると同時に、レセがノックをして寝室に顔を覗かせた。

 いったいどうしたのかと不安そうなレセに、テーナがにっこり笑って指示を出す。


「レセ、例のあれを用意してくれる?」

「あ……はい。かしこまりました……」


 何のことかはすぐにわかったレセだったが、その理由に表情を曇らせた。

 しかし、テーナがぐっと親指を立てて見せると、途端にレセの顔が輝き、準備のために控えの間へと急ぐ。

 そこでようやくのろのろと立ち上がったリリスに、テーナは励ましの言葉をかけた。


「リリス様、先ほども殿下はリリス様のことをとても心配なさっておいででした。ですからお早く、そのお顔を――目の腫れを治されて殿下にお元気なお姿をお見せにならないと、さらに心配をおかけしてしまいますよ」

「うん……。でもまさか、こんな顔をジェドに――殿下にお見せしていたなんて、恥ずかしすぎて……」

「まあ、好きな殿方にはいつでも綺麗な自分を見て欲しいものですからね。ですが、私たち女性が好きな殿方ならどんなお姿でもかっこいいと感じるように、殿方もまた、好きな女性ならどんな姿でも可愛い、綺麗だと感じてくださるのではないでしょうか? 実際、先ほどの殿下のご様子からしても、リリス様への愛情以外には感じられませんでしたもの」

「ほ、本当に?」

「はい」


 テーナは今までになくきっぱりと答えた。

 実際、先ほど皇太子がリリスを見た時の紅い瞳は心配に滲み、無事を確認してからは優しさに溢れていたのだ。

 初めて皇太子とリリスが顔を合せた頃、テーナには噂通り不気味にしか映らなかった姿も、今ならリリスが褒めていた通りに見える。

 以前から感じていたことだが、リリスは不思議な夢を見るだけでなく、物事の本質を見抜く力も備わっているらしい。

 だからこそ、神様はリリスに夢見の力を授けたのかもしれないと思いながら、テーナはレセの用意した特製ハーブ液と薬草貼り付け作戦で、リリスの腫れた目の処置をしていった。


 そして、宿を出発する頃にはすっかりリリスは可愛らしい顔を取り戻していた。

 リリスが泣きながら目覚めることも珍しくはなかったので、腫れた目の処置はテーナたちにはお手の物である。

 鏡で再度自分の顔を確認したリリスはにやりと笑って、お礼を口にした。


「ありがとう、テーナ、レセ。すっかりいつもの顔ね。ううん、いつも以上かも! やっぱり、恋すると綺麗になるって本当なのかしらね?」

「…………さようでございますね」

「で、では、私も恋してみたいですね!」


 昨日までの気落ちした様子と違って、今日は鬱陶しいほど――いや、驚くほど明るいリリスに、テーナは冷ややかに答え、レセはその寒暖差の激しい空気を和らげようと答えた。

 途端に、リリスの顔がさらに輝く。


「じゃあ、ハンスはどう?」

「あり得ません」

「即答なの? けっこういいと思うんだけどなあ……。確かに軽すぎる気もするけれど、今回のことでは機転が利いていて頼もしかったし……」

「そのことに関しましては、感謝してもしきれませんが、それとこれとは別です」

「そうなのね……。じゃあ、デニスは?」

「あの方には申し訳ないのですが、好みではありません」

「あら……」


 きっぱり答えたレセに、リリスが残念そうに呟いた。

 そのやり取りを見ながら、テーナはため息を吐く。

 どうしてこう、自分の恋愛がうまくいっていると、誰もが周囲にも恋愛を勧めようとするのだろう。

 迷惑なことこの上ないが、今回に限ってはレセが迂闊なことを言ったのだからフォローのしようがない。


 そして馬車に乗り込んでからも、リリスはテーナとレセが辟易するほどにのろけていた。

 ジェスアルドは態度にこそ見せないが、ずっと側近くで仕えていたデニスや騎士たちはその変化を感じ取った。

 そのため、トイセンの街へと皇太子に付き従ってきた者たちはご機嫌である。

 なぜなら皆が〝バラ〟に賭けていたからだ。


 ちなみにテーナとレセは、翌日からはフレドリックに馬車に同乗してくれるよう頼み込んだらしい。

 さらには、しばらく甘いものは遠慮させていただきますと、休憩時間には二人ともストレートのお茶しか口にしなかった。

 こうして、どこか浮かれた雰囲気の皇太子夫妻一行は、立ち寄る街や村で往路以上の大歓迎を受けながら王都へと帰還したのだった。




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