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まだたったの三日しか経っていないのに、ずいぶん久しぶりな気がする。
リリスが馬車の小さな窓から見えてきたトイセンの街並みにわくわくしていると、遠くから歓声が聞こえてきた。
それは馬車が街へと近づくにつれて大きくなる。
どうやら街の人たちがリリスの無事を喜び、出迎えてくれているようだ。
「殿下、どうしましょう……緊張してきました」
「リリスが?」
「どうしてそこで驚くんですか? 私だって、緊張します。人前に出るのは苦手なんです」
「……そうか」
ジェスアルドにまた「大丈夫だ」とか、「私がついている」とか言って励ましてほしかったのに、驚かれてしまった。
少々傷ついたリリスの向かいの席では、テーナが俯いてごほごほと咳をしている。
どうやら笑いを堪えようとして、むせてしまったらしい。
その時、膝に置いたリリスの手にジェスアルドの手がそっと重ねられた。
はっとして顔を向ければ、ジェスアルドは眉を寄せてリリスを見ている。
まるで睨まれているような表情だが、今のリリスにはそうでないとわかった。
ジェスアルドは自分の発言でリリスを傷付けたことを申し訳なく思いながらも、どう言えばいいのかわからず困惑しているのだ。
もうそれだけで、リリスは全てを許せた。――どころか、今お布団があればくるまって悶えている。
それでもリリスは心に荒れ狂う萌えをどうにか抑え、にっこり微笑んでジェスアルドの手を握り返した。
「殿下が傍にいてくだされば、安心できますね!」
「……そうか」
リリスの言葉に、ジェスアルドはまた同じ言葉で答えただけ。
しかし、リリスにはその小さな表情の変化を見逃さなかった。
ジェスアルドは今、ほっとしているのだ。
(ああ、どうしよう……ジェドが好きすぎてつらい……)
未だにハンカチを口に押し当て、俯き肩を揺らしているテーナのことも腹が立たない。
むしろ、そのまま顔を上げなければ、ジェスアルドのこの表情を独り占めできるのにと、リリスは考えていた。
恋は人をバラ色の世界へと誘うのだ。
街の大通りには多くの人が出ており、大きな歓声に沸いていたが、頭がお花畑になってしまったリリスの耳には入らない。
だがさすがに、宿屋の玄関前に馬車が止まると、リリスも我に返った。
ここからは皇太子妃として振る舞わなければならないのだ。
ジェスアルドが励ますように、握った手に軽く力を入れる。
「大丈夫か?」
「はい! 喜んで!」
「……そうか」
三度のジェスアルドの言葉には戸惑いが滲んでいた。
リリスにとっては、ジェスアルドの妃として振る舞うのなら、たとえ火の中水の中。
喜んで飛び込んでいくと言いたかったのだが、当然伝わるわけがない。
その一部始終を見ていたテーナは頭を抱えたくなったが、賢明にも平静を装っていた。
やがて外から扉が開かれ、先にジェスアルドが下りると、歓声はわっと大きくなった。
だが、ジェスアルドは応えることもなく、リリスへと手を伸ばす。
途端にその場は静まり返ったが、リリスは大きな手に自分の手をしっかりとゆだね、ゆっくりと馬車から顔を覗かせた。
瞬間、先ほど以上の大歓声が沸き起こる。
それでもリリスはいつもの明るい笑みを浮かべて踏み段を降りると、声援に応えるように手を振った。
すると、中には喜びと安堵に泣きだす女性などもおり、その場はちょっとした混乱をきたした。
「皆さんには大変な心配をかけてしまいましたが、殿下や近衛騎士、そしてこの街の警備兵のおかげで、こうして無事に戻ることができました。ありがとう!」
リリスが話し始めると辺りはしんとなり、そして再び大歓声に包まれた。
長く滞在していたからだけではない、街へ出て人々と直接触れ合う皇太子妃の気さくな人柄に、街の人々は惹かれ、今や心からリリスのことを敬愛しているのだ。
さらには訪問前には恐ろしかった皇太子の印象をも変え、街の人々は男爵のことで感謝をしていた。
だからこそ比較的近くにいた目敏い女性たちは見逃さなかった。
相変わらず無表情な皇太子が、宿の中へと皇太子妃を促す時に、その紅い瞳に優しさを滲ませていたことを。
それは今まで不気味にしか見えなかった紅い瞳を美しく輝かせていた。
「今の……見た?」
「ええ、殿下でしょう?」
「あらまあ、やっぱり見間違いじゃなかったのね」
「びっくりだわ……」
「あれって、どう考えても殿下は妃殿下のことを……」
「大切に想っていらっしゃるわね」
「あら、あたしはわかっていたわよ。妃殿下が攫われたって時だって、あれほどに血相を変えて追っていかれたんだもの」
「確かにねえ」
両殿下が宿へと入り、男性陣が興奮しながらも仕事に戻っている中で始まった、いわゆる井戸端会議。
宿の前に陣取るわけにはいかないので、女性陣たちは本当に井戸へと場所を移し、子供たちはその周囲を遊び回る。
当然、このトイセン発の〝殿下は妃殿下を大切に想っている〟噂は、あっという間に帝国中に広がっていく。
そして賭けの結果は、皇太子自ら妃殿下を迎えにいった事実とともに、〝バラ〟の勝ちとなるのであった。
そんな噂が為されているとも知らず、リリスは部屋に入った途端、待機していたレセに抱きついた。
「レセ! 心配かけてごめんね! 痛かったでしょう!? 怪我はどうなの!? って、私が悪化させたかも!」
「ご安心ください、リリス様。私はこのように元気ですから」
ぎゅっと抱きついたものの、リリスは慌てて離れると、上から下からレセを観察する。
レセは困ったように笑い、深く頭を下げた。
「私のことよりも、リリス様がご無事にお戻りになって、本当によろしゅうございました。このたびはリリス様をお守りすることが――」
頭を下げたまま述べるレセの言葉は涙に濡れていた。
しかし、リリスがレセの手を強引に握ったために途切れてしまう。
顔を上げたレセに、リリスはいつもと同じにっこりとした笑顔を浮かべた。
「私、またレセの淹れてくれたお茶が飲みたいの。それにレセお勧めのお菓子も食べたいわ」
「……かしこまりました。とても美味しいお菓子をご用意しておりますので、すぐにお持ちいたします」
「あ、でもちょっと待っててくれる?」
リリスの気持ちを汲んでさっそく動き始めたレセを、リリスは止めた。
そしてジェスアルドを窺うように見る。
「あの……先に騎士たちに会いたいのですが……」
「そうだな。では、そうしようか」
リリスの希望に、ジェスアルドもすぐに了承した。
この宿の一番大きな部屋で、怪我をした騎士たちは治療を受けていると聞いていたのだ。
二人は部屋を出ると階を移動し、病室となっている部屋に入った。
その姿を目にして、騎士たちは慌てて起き上がろうとしたが、すかさずリリスが声を上げて止める。
「待って。今、あなたたちがベッドから起き上がることも、話すことも許さないわ」
そこまで告げて、リリスは一度大きく息を吸った。
そしてゆっくり続ける。
「でも、私が許さないのはそれだけ。……ありがとう、みんな。しっかり怪我を治して、また……あなたたちが私の護衛をしてくれることを、待っています」
リリスがそうきっぱりと告げる間、ジェスアルドは黙ったままリリスの手をしっかり握っていた。
それはまるで励ますように。
リリスは微笑みを浮かべていたが、目に見えてひどい怪我をしている騎士も何人もいて、本当は泣いてしまいそうだった。
きっと、ジェスアルドの温もりがなければ笑っていられなかっただろう。
この国の皇太子妃という立場は、正直に言えばリリスにとって重荷だった。
だが、ジェスアルドの妻でいられるなら頑張れる。頑張ってみせる。
リリスは大きな手をぎゅっと握り返し、続いて騎士たちに労いの言葉をかけているジェスアルドの言葉を聞いていた。




