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「す、すみません……」
「泳げる自信はあるのか?」
自分の行動が恥ずかしく、俯いたまま謝罪すると、船員はリリスに回した腕に力を入れて問いかけた。
その声に、はっと顔を上げたリリスが見たのは、笑っているような怒っているような、細められた紅い瞳。
リリスは夢を見ているのかと思ったが、腰に回された腕の温もりが現実だと教えてくれる。
「っ、ジェ——」
「お嬢様! 何をなさっているのですか!」
「そこの男! すぐに娘を放せ!」
喉を詰まらせながらも出したリリスの声は、モラとサウルの声に遮られてしまった。
それでもリリスは、信じられない思いでまだ船員を——ジェスアルドを見上げていた。
ジェスアルドはサウルたちを無視して、リリスを腕に抱いたまま岸から離れようとしたが、その前に帯剣した男たちが立ちはだかる。
「お前たち! この不届き者を殺せ!」
サウルの「殺せ」という言葉に、リリスは小さく震えた。
しかし、リリスの耳に唇を寄せて、ジェスアルドは優しく囁く。
「大丈夫だ」
たったそれだけで、リリスは状況も忘れて真っ赤になってしまった。
なぜここにジェスアルドがいるのかはわからない。
ただリリスには、「大丈夫」の言葉を疑う気持ちはまったくなかった。
サウルの怒声に剣を握った男たちはリリスとジェスアルドを取り囲んでいる。
「私の妃を攫っておきながら、よく言う。不届き者はお前たちだろう?」
「な、何を……?」
剣を構えた男たちに囲まれても、ジェスアルドは動じることなくサウルを睨みつけた。
その迫力に押されて男たちは動きを止め、サウルは怯えて戸惑っている。
「——殿下!」
そこに呼び声が響き、ジェスアルドは投げ込まれた剣を受け止めた。
しかし、その反動で頭に巻いていた布が解け、さらりと赤い髪が風になびいた。
「なっ、まさか紅の…死神!? 皇太子か!?」
サウルの悲鳴じみた声に、仲間の男たちも動揺した。
その中で、年かさの男が怒鳴り声を上げる。
「恐れるな! あいつは足枷をしているも同然! 利は我らにある!」
その一喝で、他の男たちも動揺を消した。
態度や言葉遣いから、やはり男たちは訓練された者——兵士で間違いないだろう。
ただ一人、サウルは怯えたまま兵士たちの後ろに隠れてしまった。
(なんて臆病なの……)
皇太子妃誘拐などを企みながらも、いざとなると逃げだそうとする。
無様なその姿に呆れながらも、リリスはちらりとジェスアルドを見上げた。
先ほどの兵長らしき男の言葉——足枷とは自分のことなのだ。
だがジェスアルドは、じりじりと距離を詰めてくる兵たちに視線を向けたまま、再び「大丈夫だ」と囁いた。
その顔にはうっすらと笑みさえ浮かんでおり、リリスは外套の下で縛られたままの両手をぐっと胸に押しつけた。
(ダメ。そんな場合じゃない。じゃないけど……かっこよすぎる!)
胸がきゅっと締め付けられ、息もできないほど苦しく、顔は火照っているのか、とても熱い。
この胸の痛みには覚えがある。
それでも、これほどに苦しくはなかった。
(これって……恋……)
ようやく自覚した恋心に、リリスが浸る暇は残念ながらなかった。
ジェスアルドの力強い腕に抱え上げられるようにして一回転したかと思えば、次は逆に半回転する。
まるで激しいダンスを踊っているような気分だったが、現実はまったく違う。
しかし、ジェスアルドは決してリリスを離そうとはせず、リリスも必死にジェスアルドの動きに合わせていた。
くるくる回る視界の隅では、なぜか港の男たちも兵士たちと剣を交えている。
そして、それほどの時間もかからず、剣がぶつかり合う耳障りな音は止み、ジェスアルドも動きを止めた。
リリスは息を切らしていたが、ジェスアルドはほとんど呼吸を乱していない。
さらには、十人いた兵士たちは地に横たわって呻いており、港の男たちが手際よく彼らに縄をかけていた。
「そ、そんな……」
信じられない様子で呟き、一歩、二歩と後ずさるサウルと、その場に座り込んでしまったモラも、男たちに捕らえられてしまった。
「は、放せ! 無礼な! 私はお前らごとき下賤の者が触れていいような存在ではないのだぞ!」
サウルの喚き声に、遠巻きに見ていた他の港の男たちまでもが剣呑な空気を纏う。
成り行きに未だついてけず、呆然としているリリスの耳に、ジェスアルドのため息が聞こえた。
「サイラス、捕らえた者たちを帝都に連行する手続きを頼む」
「はい! もう完了しております!」
サイラスと呼ばれた港の男は、ジェスアルドの近衛隊長のサイラスであった。
皇太子近衛隊の者たちは他の者たちと違って、ジェスアルドを恐れてはおらず、むしろ心酔している。
リリスがトイセンへの旅で知ったその事実をぼんやり考えていると、耳慣れない足音が聞こえた。
その音の方へと顔を向ければ、船からは船員たちがサウルの兵士を捕縛し、引き連れて降りて来ている。
船員たちの顔をよく見れば、見知った者ばかりであり、はっとして再び港の男たちを改めて見れば、やはり近衛隊の者ばかり。
「どうして……」
いつの間に、ジェスアルドたちはこの港に来ていたのだろう。
そもそもなぜ、ここにいるのだろう。
リリスの頭の中はぐるぐると疑問でいっぱいで、徐々に目までぐるぐると回ってきた。
そこへ、物陰から走ってくるハンスの姿が見えたが、ひどく揺れている。
「妃殿下! ご無事でよかったです!」
「ハンス……」
ハンスも無事だった。
そう思った途端、リリスの体から一気に力が抜けていく。
「——リリス? リリス!?」
真っ白な靄がかかったような頭の中で、ジェスアルドの焦った呼び声が聞こえた。
しかし、答えることができない。
そのままリリスは生まれて初めて、気を失ってしまったのだった。




