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緊張のせいか、縛られているせいか、リリスは初めて眠れないまま夜明けを迎えた。
何度かウトウトとはしていたと思う。
ただそのたびに、はっと目覚めては現状を思い出して、また眠れなくなってしまったのだ。
レセの無事を知ることはできた。でも騎士たちの安否はわからない。
それにテーナはどうしているだろうか?
今頃は心配して、テーナも眠れていないはずだ。
(でも、私が無事なことは、わかっているはずよ。うん。だから、大丈夫なはず。……とはいえ、睡眠不足がこんなにきついとは知らなかったわ……)
ごそごそとベッドを出ると、めまいに襲われリリスは頭を下げた。
体はあちこち痛む上に、だるくて力が入らない。
これではいざという時に逃げ出せないと思い至ったリリスは、演技はひとまず置いて、朝食はしっかり食べようと決意した。
そこにノックの音が小さく響き、モラが洗面器とタオルを持って入ってきた。
本来なら宿のメイドにさせるのだろうが、リリスと接触させたくないのだろう。
昨夜もメイドと顔を合せることは一度もなかった。
「おはようございます、お嬢様。もうお目覚めでいらっしゃるとは気づきませんで、申し訳ございませんでした。お疲れでしょうが、昨日の遅れを取り戻すために、今朝は早めに出発すると旦那様がおっしゃっておりますので、お支度をお手伝いいたします」
昨日はあれだけ無口だったモラが、大きな声でリリスに声をかけた。
ひょっとすると、隣の部屋にメイドがいるのかもしれない。
そして自分が〝お嬢様〟の役割を、サウルが〝旦那様〟の役割を当てはめられたことを知った。
その後、用意された朝食はどれも美味しそうに見えたが、味を感じることができず、あまり喉を通らなかった。
夜中にはお腹が空いていたのに、寝不足は食欲までも奪うのかと、リリスは落胆しながら、それでもどうにか口にする。
そんなリリスに、モラもさすがに同情したのか、昨夜全て食べきっていた林檎を用意させましょうかと問いかけてきた。
それに首を振って応え、リリスはされるがままに、旅行用の上等なドレスをおとなしく着た。
やがて支度が整い、リリスが再び居間に戻ると、そこには老紳士の姿をしたサウルが待っており、リリスの姿を目にして満足げに微笑んだ。
演技ではなく、憔悴しているリリスは儚げに見える。
しかし、リリスはサウルの笑顔を見て、反抗心がめらめらと湧いてきていた。
(くじけてる場合じゃないわ! こんな、こんな……クソじじいの思うようになんてさせないんだから!)
リリスなりの精いっぱいの悪口を頭に浮かべて、自分を叱咤する。
それからすぐに出発となり、再びモラに外套を頭から被せられても、リリスはおとなしくしていた。
馬車に乗り込む時には、くすんだ赤褐色の髪の子供がじっとこちらを見ていることに気付いた。
きっとハンスが言っていた浮浪児だろう。
髪の色にジェスアルドを思い出して切なくなったが、そこでふとリリスは心配になった。
(ハンス……お金は大丈夫かしら?)
窯から急ぎ駆けつけてくれたということは、路銀は持っていないはずだ。
馬で追うにしても、飼葉や水をやらなければいけないだろう。
浮浪児の存在は問題だが、それは別として、彼らにもお駄賃をあげないといけないのではないか。
そこまで考えて、昨夜のハンスが自信たっぷりだったことを思い出し、きっと大丈夫なのだろうと結論付けた。
リリスとは違って、ハンスは苦労してきただけに、世慣れているのだから。
浮浪児のことは、後で考えようと心の中にメモをする。
(それにしても、どこへ向かっているのかしら……)
本来なら、昨夜だってのんびり宿に泊まっている暇などなかったはずだ。
よほど追手を撒ける自信があるのかもしれない。
確かに、コーナツの街は何事もないように朝靄の中、静けさに包まれていた。
(森を抜けずに街道を進んだとして、トイセンの街からあの四つ辻に到着するのはどれくらいかかるのかしら? ひょっとして、ハンスの目印に気付かず、南東の道を進んでしまったとか……?)
焦れば人は、小さな異変を見逃しがちだ。
不安になりながらも、こういう時こそ落ち着かなければと、リリスは気付かれないように深呼吸をして考えた。
(この道がどこに繋がるのか、そもそもどの道を進んでいるのかもわからないけれど、私が追手の裏をかくなら、あえて普通では選ばない道を行くわよね。それでも、できるだけ追手との距離を稼ぎたい。こちらは馬車、追手は馬だとすると、かなり速度に差も出るのだから、油断はできないはず……)
頭の中に地図を浮かべ、コーナツから伸びる道を思い出す。
細い道を行くのはかえって目立つはずだから、大きな街道を進むはずだ。
だとすれば——。
そこでリリスははっとした。
(そうよ! 船だわ! コーナツの街をさらに北西に進めば、わずかな時間でプレイコ河の畔にある小さな港に到着するもの。そこから船で下ればあっという間に海に出ることができるわ。プレイコ河は西に向かって流れているから、フォンタエとはますます遠くなってしまうけれど、河口の街で別の船に乗り換えて、とにかく帝国から出れば……)
馬よりも何よりも速い船にさえ乗ってしまえば、追手をつき放すことができる。
しかも、あの四つ辻から南東に向かった先にも別の河があり、ストーンウェアなどはそこから船で運ばれるのだ。
移動方法に船を思い浮かべても、北西に戻らなければならない港より、通常ならばそちらを予想するだろう。
(今までなら、そちらの経路を利用したかもしれないけれど、確かストーンウェアの横流しが発覚してから、あちらの港は警備が厳しくなったのよね……)
プレイコ河は流れが激しく、割れ物を運ぶには適していないため、警備も厳しくはない。
そもそもが材木を運ぶ目的でできた港のため、今でもちゃんとした客船はないはずだ。
昨晩、宿に泊まったのは、夜に船は出ないからだろう。
リリスは見えもしないのに、後ろを振り返った。
間に合わないかもしれない。
そんな考えが頭によぎる。
(いっそのこと、河に飛び込む? って、無理だわ。私ってば、泳げないもの。じっとしていればスカートが空気を含んで意外と沈まないとは聞いたことがあるけれど、それじゃ、逃げられないものね……。港に到着したら人の多いところで助けてって叫ぶ? ううん。きっとサウルのことだから、適当に誤魔化されてお終いだわ)
痛む両手首がリリスの思考の邪魔をして、馬鹿な案ばかりが頭に浮かぶ。
いくら絹を縒った布とはいえ、手首はかなりこすれ、赤く擦りむけてきている。
船に乗ったとして、ハンスは追ってきてくれるだろうか?
おそらくは荷船に乗せてもらうのだろうし、紛れ込むのはさすがに無理だろう。
生まれて初めての船旅は、ちっとも楽しくないものになりそうだった。
結局、逃亡のための名案は浮かばないまま、馬車は速度を落とし、丁寧に止まった。
車外では男たちの怒鳴り声が飛び交い、その合間に耳慣れない音も聞こえる。
馬車から再びモラに掴まれて降りたリリスは、目の前に現れた船に息を呑んだ。
こんなに近くに馬車が止められたことにも驚きだが、それ以上に初めて目にする船にかすかな興奮を覚えた。
(これが本物の船なのね……)
湖で舟遊びをするボートとは大違いだ。
怒鳴り声だと思ったのは、ただ活きのいい男たちのやり取りであり、耳慣れない音は波や船体が岸壁にこすれる音だった。
しばし状況も忘れて興奮していたリリスだったが、再び強くモラに腕を引かれて我に返った。
慌てて周囲を見回すと、港の男たちはリリスたちには目もくれず、自分たちの仕事をこなしている。
意外とここで荷物の代わりに船に乗る者は、珍しくないのかもしれない。
船からは乗り込むための板が渡されており、船員とは別に、もうすでに何人もの男たちが乗っていた。
リリスを囲む帯剣している男たちと合わせれば、優に二十人は超えている。
やはり目立たないように、サウルに付き従っていたのだ。
(どうしよう。どうしたら……)
ぐいぐいとモラに腕を引かれて船へと向かいながら、リリスは半ばパニック状態だった。
この船に乗ってしまえば、逃げることは不可能に近い。
渡し板が少し狭いせいか、モラに先に渡るようにと押しやられたリリスは、一歩前へと進み、ちらりと横目で船と岸との間のゆらゆら波打つ河を見た。
ここは本流とは違って、流れもほとんどない。
(……飛び込もう)
そうすれば騒ぎになり、出航は遅れるはずだ。
港の男たちも異変に駆けつけてくれる。
少しは逃げる機会があるかもしれないと、ほとんど自棄になって考えたリリスは、河へと足を踏み出した。
しかし、渡し板の側で待機していた船員にあっさり捕まり、リリスは河から引き離されてしまったのだった。




