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久しぶりの難題にリリスは焦ったが、結論を出すまでの時間はほんの一瞬だった。
「ーー確かに、フロイトでの経験をもとに、私もこの施策にいくつか提案はさせていただいたけれど、最終的に方策を打ち出されたのは陛下よ。もちろん、シヤナの制作方法を私が知っていたことがきっかけなのは否定しないわ。それと、私の体に関しては色々と難しいのよ。元気そうに見えるかもしれないけれど……実際、体調のいい時には元気なんだけど、少し無理をするとすぐに寝込んでしまうの。これで納得できたかしら?」
「……わかりました」
これでもかというほど無難な返答だったが、ハンスは思うところもあっただろうに、素直に受け入れた。
トイセンに関する施策のことも当然のことながら、ジェスアルドにさえ打ち明けていない秘密をここで言えるわけがない。
ハンスもリリスの秘密はともかく、ある程度は予想していたのだろう。
どこか緊迫していた空気も緩み、リリスがほっと息を吐いたその時——。
「ちょっと! 黙って聞いていれば、さっきからあなた、リリス様に対して、失礼にも程があるわよ!」
珍しいレセの怒声がその場に響いた。
どうやらずっとハンスの態度に怒りを募らせていたらしく、もう我慢の限界だったらしい。
つかつかと足音を立てて近づいたレセは、ハンスに人差し指を突きつけた。
しかし、ハンスはそんなレセに片目をつぶってみせる。
「確かに、レセさんの言う通りだ」
そう答えたハンスは、リリスへと振り返っていきなり跪き、頭を下げた。
「ハ、ハンス?」
「俺——いや、私は妃殿下に謝罪をしなければなりません」
「謝罪?」
「はい。正直に申しまして、私は妃殿下を侮っておりました。その非礼を今、お詫びいたします。申し訳ございませんでした」
「ええ?」
わけがわからず、リリスは困惑の声を上げた。
突然のハンスの行動に、レセもエドガーも同様に戸惑っている。
三人が呆気に取られて見下ろしている中で、ハンスは跪いたまま顔を上げて苦笑した。
「私の身上書に記載はなかったですか? そもそも私が家を出たのは、とある貴族の家への婿入りを嫌ってだと」
「そうなの?」
「はい。殿下も、そこまではご存じなかったようですね。きっと父がもみ消したのでしょう。ただでさえ不肖の息子として両親からは嫌われていましたが、とんだ恥さらしだと、家を出る時には酷く罵られましたから」
「そんな……」
「いえ、それはお互い様なので、別に両親を責めはしません。当時の私は上流階級とやらが嫌で仕方なかったのです。しかも、私の婚約者とされていた令嬢は、それはもう我が儘で癇癪が酷く、召使に手を上げることもしばしば。私も幾度となく叩かれましたよ」
「え? まさか……」
「私の知る高貴な身とされる女性はそのような者ばかりでしてね。母も召使には冷たかった。私はどうしても、そういう世界には馴染めず……。それでも、あの令嬢と結婚するのは嫌だと両親に訴えたのですが、『お前のような役にも立たない三男に、これほどの良縁はない。たとえ殴られようが虐げられようが、無事に嫡男が生まれるまでは耐えろ』とはねつけられてしまいました。それで、家を出たのです」
「そうだったの……」
ハンスの打ち明け話を聞いて、リリスはようやく納得した。
たとえ十数年を市井で過ごしたとしても、立ち居振る舞いで身分はそれとなくわかるものだが、ハンスにはそれがない。
ハンスにとっては、過去こそが本物の黒歴史なのだろう。
「それなら、なぜ急に態度を改めたの? 私はあなたにとって嫌いな階級の人間よ?」
「先ほども申しましたが、私はお会いする前から、妃殿下のことを決めつけてしまっていました。きっと我が儘な王女様が暇つぶしにこの事業に口を出されるのだろうと。ただわからなかったのは、それを許された殿下のお考えでした。私にとって殿下は、世間で噂されるような冷酷非道な方ではない。この国の発展を見ていれば、自ずとわかることですからね。ですから、その理由を知りたくて、妃殿下には初対面から失礼な態度を取ってしまいました。そして、妃殿下のことを知るたびに、私の考えは間違っていたのだと気付いたのです。貴族階級の女性を一括りにして、見下していた自分こそが傲慢なのだと。皆が皆、同じであるわけはないのに。レセさんも、単純に私に興味がないから無視するのであって、陶工である私を見下しての態度ではありませんよね?」
「え? わ、私は……」
急に話を振られたレセは慌てて言葉を詰まらせた。
そんなレセを見て優しく微笑むハンスは、紳士そのものだ。
「よくわかったわ、ハンス。では、もう立ってくださらない? 今は私とレセ、エドガーとあなたしかいないのだから、あなたはあなたでいいのよ」
そう答えたリリスは屈むと、跪くハンスの手を取り、立ち上がらせた。
そのまま目線の高くなったハンスを見上げて悪戯っぽく笑う。
「私だって、本当は畏まられるのも、命令するのも好きじゃないの。でも、それが私の立場だから。とはいえ、ただそれを享受するだけのつもりはないわ。私は私だもの。私の望みはみんなが幸せになること。もちろん世界中の全ての人を幸せになんて高望みはしない。それでも、手の届く範囲だけでも幸せにしたい、幸せになってほしいの。この事業はそのための一歩なのよ。私が役に立てることなんだもの。だからエドガーも、人の目がない時はそんなに畏まらないでね」
「いえ、それは……」
「まあ、無理にとは言わないけれど。——というわけで、二人とも一応の疑問は解決したってことでいいかしら?」
「……そうっすね」
「——はい」
答えたハンスは、苦笑しながらもいつものような口調に戻っている。
そしてエドガーは少々ためらいながらも、リリスの問いに頷いた。
「では、トイセンの新しい特産品を作るために、ひいてはブンミニの町をまた活性化させるために、次は本焼きに入りましょう。ハンス、お願いね?」
「了解っす」
ようやくいつもの調子に戻り、リリスは明日もまた来ると約束してその場を後にした。
そして待機していた騎士たちと宿へ戻ると、別件で同伴できなかったフレドリックに今日の出来事を話して聞かせた。
「ふむ。それは惜しいことをしました。私もその場に居合わせたかったですのお」
「そうね、私もフウ先生がいてくれれば、もっと楽しかったと思うわ。だから明日は絶対一緒に行きましょうね! それで、フウ先生はどうだったの? ご友人と久しぶりにお会いしていたのでしょう?」
「かなり久しぶりだったのは間違いありませんが、友人ではなくただの知人です。もう二十年ほど会っていませんでしたが、まさかここまで訪ねてくるとは思いませんでしたよ。どうやら皇宮にいる弟子に会って、私の所在を知ったそうです。ですが、残念なほどに変わっておりませんでしたなあ」
「あら、変わっていないことが残念なの?」
「はい。まったくもって残念ですぞ」
はっきり頷くフレドリックに、リリスはくすくす笑った。
フレドリックは誰に対しても容赦がない。
「でもやっぱりフウ先生の……知人ね? 皇宮に出入りできるような方だなんて」
「あやつは昔から口が達者で、狡猾でしたからな。どうやら上手く取り入って、今はフォンタエ王国の官職に就いているようです」
「フォンタエの?」
「ええ。このたびの皇帝陛下、ならびに皇太子殿下との会談に臨んだ使節団の一人だったようですな。それで他の団員と帰国せずに、わざわざこの老いぼれに会うためだけに、遠回りしてトイセンに立ち寄ったと、こちらの迷惑も顧みずに言っておりましたわい。まあ、明日には発つそうですから、清々しますな」
やれやれとため息を吐いてフレドリックはぼやいているが、まんざらでもなかったのではないかと、リリスは思った。
昔の知人に会えば、懐かしい思い出もあるだろう。
フレドリックがリリスの部屋を辞した後は、早めの夕食をとってベッドに横になったのだが、すぐに眠りに落ちてしまった。
やはりかなり疲れていたのだろう。
しかし、次に目を覚ましたのは、かなり早い時間であった。




