65
「殿下……」
「どうした?」
「その、妃殿下から……絵葉書が届いております」
「絵葉書?」
朝食の席にいたジェスアルドの許に、デニスが盆を持って現れた。
しかし、座っているジェスアルドからは盆に何が載せられているのかは見えない。
それほどに小さな——薄いものなのだ。
デニスが言うには絵葉書なのだから、当然だが。
ジェスアルドは盆に載せられた絵葉書を手に取り、眉を寄せた。
葉書の半分は宛名と差出人の名前。
宛名は簡単に【帝都クレリナ 皇宮 皇太子殿下 ジェスアルド・エアーラス様】とある。
これでここまで届いたことが驚きだが、おそらく差出人の名前と印章のお陰だろう。
差出人名は【トイセン滞在中 皇太子妃 アマリリス・エアーラス】とあり、朱色の印章が押してある。
そして半分には明るい文章が綴られていた。
【殿下、お元気ですか? 私はお陰さまでずいぶん体力も回復いたしました。もう少しこのトイセンに滞在すれば、皇宮にも戻れると思います。私が無理を申しましたばかりに、ご心配をおかけしたことを心苦しく思います。申し訳ありませんでした。皇宮に戻り、殿下にお会いできることを楽しみにしております】
その文面を読んだジェスアルドは葉書を裏返した。
すると、綺麗なホッター山脈の山並みが描かれた絵の上に、また文章が綴られている。
【こちらではストーンウェアの制作過程を見ることができ、意外と楽しく過ごすことができております。しかも、熟練の陶工に手伝ってもらい、私流の焼き物も作るという体験までさせていただいております。それをお土産にできる日を心待ちにしております】
色々と含まれた内容に、ジェスアルドはにやりとした。
しかも、絵葉書で送られてきたことを思うと、ついには声を出して笑った。
途端にデニスが目を見開く。
「で、殿下?」
「いや、すまない。あまりにも……妃殿下らしくてな」
そう答えたジェスアルドだったが、驚いたのはデニスだけではなかった。
ちょうど食器を下げようとしていた給仕の青年も思わず皿を落としそうになったほどだったのだ。
こっそりジェスアルドを窺っても怒っている様子はない。
青年はこの大事件をあとで仕事仲間たちに教えなければと、変な使命に燃えていた。
そこに、ノックもなしに入ってきたコンラードの表情を見て、ジェスアルドは小さくため息を吐いた。
「珍しく早いな、コンラード」
「ああ、昨晩はここに泊まったからね」
不機嫌な表情を変え、片目をつぶってにやりと笑うコンラードに、それ以上は聞かなかった。
間違いなく一人で眠ったわけではないはずだ。
断りもなく、ジェスアルドの向かいに座ったコンラードは、テーブルの上に置かれた絵葉書を目にして、再び顔をしかめた。
「それが例の絵葉書だね?」
「例の?」
「もう皇宮中が大騒ぎだよ。朝一番で一般の配達人が書簡受取人に渡した書簡の中に、妃殿下から殿下への絵葉書が紛れていたって」
「ああ、それは確かに騒ぎになるだろうな」
「そんな呑気に答えている場合じゃないよ。妃殿下はいったい何を考えているんだろう? まさかフロイトでは貴族たちも一般の配達人を使っていたわけじゃないよね? しかも、こんな内容が丸見えになる葉書だなんて」
「別に、見られて困るような内容ではないからな」
つらつらと自分の意見を述べるコンラードに、いつもは黙っているジェスアルドが答えた。
その珍しさにコンラードは驚いたようだったが、すぐに呆れのため息を吐く。
「内容の問題じゃなくて、立場の問題だよ。このエアーラス帝国の皇太子妃ともあろう方が、一般の配達人を使って、しかも葉書で皇太子に手紙を送るなんて、あり得ないよ。しかも内容はただの近況報告!」
「なんだ、もう内容も知っているのか」
「知っているも何も、皇宮中の噂だよ!」
話しているうちに興奮してきたのか、コンラードは声を荒らげた。
だが、ジェスアルドは落ち着いたまま苦笑を洩らす。
「相変わらず、早いな」
「感心している場合じゃないよ! ジェスは今すぐ早馬を出して、こんなことはしないようにと、妃殿下に伝えるべきだね!」
「いや……これは、妃殿下流のお遊びだ。彼女は少し変わったところがあるからな。お遊びに、そう目くじらを立てることもないだろう」
「彼女が変わっていることは、僕だってよく知っているよ。だけど、これは少しって問題じゃないと思うね。ジェスの威厳を保つためにも、やっぱり妃殿下には注意すべきだよ。そもそもどうして周りの者は止めなかったんだ。責任者はいったい誰だ? まったく……」
ジェスアルドの態度に、コンラードも自分が興奮しすぎていたことに気付いたらしい。
つとめて落ち着いた声で話そうと、ゆっくりした口調に変わったが、ジェスアルドがかすかに眉を寄せたことには気付かなかった。
そしてこれ以上、ジェスアルドに言っても埒が明かないと思ったのか、ぶつぶつ言いながら、去っていく。
その背を見送って、ジェスアルドはため息を吐き、デニスはほっと胸を撫で下ろした。
しかし、この件はこれで終わらなかった。
翌日も皇太子妃から皇太子へと絵葉書が届いたのだ。
さらには、その翌日も翌々日も。
また、新たに流れ始めた、トイセン発の噂が皇宮の者たちを戸惑わせていた。
皇太子夫妻はとても仲が良く、体力回復のために離れ離れで過ごさなくてはならない寂しさを、妃殿下は毎日絵葉書を送ることで紛らわしているらしい、と。
ジェスアルドはそんな噂さえも気にせず、いつものように無表情で日々を過ごしていたが、一度だけ返事を書いた。
もちろん、ジェスアルドに仕える信頼のおける者に託し、封書で。
それでもどこから漏れたのか、皇太子が返書を送ったことはすぐに広まり、その内容も勝手に推測されていた。
きっと、妃殿下を心配し、気遣う文面がびっしり書かれているのだろう、と。
ただリリスからの絵葉書に、ジェスアルドもさすがに頭を抱えたくなった内容が一つあった。
【今朝、早くに目が覚めて空を見上げると、紅く光る星を見つけました。まるで殿下の瞳のように美しい輝きで、私は〝暁の星辰〟とその星を呼ぶことにしました】と、書いてあったのだ。
どうやら、リリスはあの二つ名のことを諦めていないらしい。
皇宮内でも〝暁の星辰〟の話は広がり、それを聞いた皇帝は予想通り大笑いした。
さらには実物を見せてほしいとまで言いだしたらしい。当然、ジェスアルドは断固拒否したそうだが。
コンラードなどの一部の者たちは、〝紅の死神〟が与える恐怖が薄れてしまうと、不機嫌になっていたものの、皇帝は気にしていないようだった。
こうして、リリスから届く絵葉書が二十枚を超えた頃、皇宮からは皇帝陛下の勅使がトイセン方面へ向けて出発したのだった。




