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 地方の街では一生に一度、目にすることができるかどうかという皇家の紋章入りの馬車。

 しかし、その馬車も、トイセンの街ではずいぶんお馴染みになってきていたが、さすがに自分の店の前に止まると、店主は驚いた。

 転びそうになりながらも急いで店先に出て、息を切らしながら、ゆっくりと開かれる豪華な馬車の扉を信じられない思いで見つめる。

 そして降りてきた人物——この国の皇太子妃の姿を目にして、店主は慌てて膝をつき頭を下げた。


 この街に皇太子妃が滞在していることは知っていたが、所詮雲の上の存在。

 皇太子と街へ到着した時に、歓迎の出迎えに店主も足を運び、かなり遠くからその姿を見ることはできたが、まさかこんな間近に、しかも自分の店に来るとは思ってもいなかった。

 正直に言えば、あまりにも遠くから見たので、顔はわからなかったのだ。

 だが、馬車から降りてきた女性は可愛らしいが、間違いなく皇太子妃としての気品を纏っている。


「突然、お邪魔してごめんなさいね。驚かせてしまったようだけど、どうか立ち上がってくださらない? 私、ここで買い物をしたいの。だから色々と説明を聞きたいのだけど、いいかしら?」

「も、もも、もちろんでさっ、すっ!」


 いつものリリスとは違う、威厳ある態度に、店主はすっかり萎縮してしまっている。

 そこでリリスは、店主を落ち着かせようとにっこり笑った。

 その人好きのする笑顔には、たいていの者が魅了されてしまう。


「ここのお店で、うちの者が絵葉書を購入したらしいのだけれど、とても種類が豊富で、他のお土産の品も素敵なものばかりだったと聞いたの。確かに、本当に素敵な物ばかりね?」

「へ、はい! ありがとうございます!」


 店内を見回して楽しげに話す皇太子妃の言葉に、店主は膝を頭につけんばかりに腰を折った。

 確かに、皇太子夫妻がブンミニの町へ発つ前の滞在で、数人の騎士が店を訪れたことがあったのだ。

 あの時でさえ緊張したものだが、今はその比ではない。

 それでも皇太子と違って、皇太子妃は親しみやすさを感じる。

 うきうきした様子で商品を手に取っては、じっくり眺めている皇太子妃から少し距離を置いて、店主は逆に皇太子妃をじっくり観察した。


 本当にこの方が、あの〝紅の死神〟のお妃様なのだろうか、と。

 噂では、ブンミニの町で殿下の逆鱗に触れ、体調を崩されてこの街に静養に戻っていると聞いていたのだ。

 しかし、商品を手に取ったまま、若いお付きの女性とにこやかに話している姿からは、噂のようには思えない。

 二人を見守る護衛騎士の表情も柔らかい。


「ねえ、この絵葉書の絵はいったいどなたが描かれたの?」

「へ? ……あ、は、はい! その絵はあっしの——私の弟です!」

「まあ、そうなの? すごく綺麗なものばかりね? どれにしようか迷うわ……。ホッター山脈の山並みも素敵だし、このウスユキソウも捨てがたいし……。レセ、見て! このヤギの絵、フロイトのあの頑固ヤギを思い出さない?」

「本当ですね! でも、皇太子殿下にお送りになるのに、そのヤギの絵は……」

「あら、逆に面白いと思うわ。きっと殿下もお笑いになるわよ」

「ええ!? こ、皇太子殿下に送られるのですか!? 絵葉書を!?」


 自分から話しかけるなど、無礼なことはもちろんわかっていたが、店主は抑えられなかった。

 思わず上げた大声に、皇太子妃は怒ることなく、にっこり笑って頷いた。


「そうなの。体調もずいぶん良くなってきたから、殿下にそのことをお伝えしたくて。私が無理を言って、ここまで連れてきてもらったのに、体調を崩したばかりに迷惑をかけてしまったから。今もきっと心配してくださっていると思うわ。でも、どうせなら皇宮に戻るまで、この街の絵葉書で一日一枚、近況を伝えるのも面白いのではないかと思ったの。この趣向を、殿下もきっと喜んでくださるわ。洒落のわかる方だから」


 皇太子妃の言葉には、店主だけでなく、護衛騎士も驚いた。

 しかも、入口近くに立って答えた妃殿下の声は、予想外に大きかったらしい。

 皇太子妃を一目見ようと、店の外に集まっていた人々にも聞こえたらしく、どよめきが起こる。


 こうして、この皇太子妃騒動は配達所でも繰り広げられ、トイセンの街に瞬く間に広がった。

 どうやら皇太子は妃殿下に対して冷たい仕打ちをしたわけではないらしい。

 それどころか、かなり気遣い、心配しているようだと。


 そして翌日、皇太子妃のお付きの若い女性が護衛の騎士を連れて、配達所に現れた。

 驚く配達所の職員が受け取ったのは、昨日と同様の皇太子妃から皇太子への絵葉書。

 思わず読んでしまった内容は、また他愛のない日常――昨夜の宿屋の食事がとても美味しかった、というもの。


「おそらく明日も伺うことになると思います。妃殿下は、殿下に毎日の出来事をお伝えしたいらしくて……。それでは、よろしくお願いしますね?」

「は、はい……」


 唖然としてぼんやり答えた職員を残し、お付きの女性——レセは次に手芸店へと向かった。

 刺繍するハンカチは、昨日のお出かけでリリスが「殿下へのプレゼントにするわ」と、わざとらしく呟きながら購入していた。

 レセはその時のことを思い出して笑いをこらえ、それから女店主に問いかけた。


「シルクの刺繍糸で、青か緑など……男性的な色合いのものはあるかしら?」

「……男性的、ですか?」

「ええ、そうなの。妃殿下が皇宮に戻られるまでの間に、刺繍をされたいとおっしゃってね。できれば殿下に何かお贈りしたいとおっしゃっているの」

「こ、皇太子殿下にですか?」

「もちろんよ。あのお二人はまだ新婚でいらっしゃるもの。離れ離れになってしまわれて、妃殿下はとても寂しい思いをされているの。元々あまりお体が丈夫でいらっしゃらない妃殿下を、殿下もそれはもう心配なされて……。素敵なご夫婦だわ……って、ごめんなさい。少し喋りすぎてしまったわね」

「い、いえ! そんなことはございませんとも!」

「そう? それで、刺繍糸なんだけど……」

「あ、はい! こちらにございます!」


 こうして少々大げさに話したレセの言葉も、あっという間にトイセンの街に広がった。

 もちろん、この新しい噂はトイセンだけに留まらず、風のように帝国中に広まることになるのだった。




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