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次の日の昼前、リリスたちが滞在している上級宿に現れたのは、工場の監督官――責任者をしているエドガー・フリードリッヒという中年の男だった。
部屋に入ってきたフリードリッヒは、むっつりとした表情をしていたが、視線だけはこっそりあちこちにさまよわせている。
「はじめまして、フリードリッヒさん。私、アマリリス・エアーラスと申します」
「はあ、どうも」
「おい! 皇太子妃殿下に対して、その口の利き方は何だ!」
リリスが挨拶すると、返ってきた適当な挨拶。
それに怒りをあらわにしたのは、リリスの護衛騎士の一人だった。
騎士の中でも近衛隊に所属している彼らは、皇家に絶対的な忠誠を誓っている。
(当然と言えば、当然よね。うん、フリードリッヒさんの態度は私が皇太子妃でなくても失礼だもの)
リリスはフリードリッヒに腹を立てることなく、もちろん騎士を窘めることもなく、ちらりとジェスアルドを窺った。
ジェスアルドは冷めた表情をしているが、なんとなくリリスには、この状況を楽しんでいるように見える。
そして、普通の者ならば恐れ怯えるであろうジェスアルドを目にしても、フリードリッヒは平然としていた。
(なかなかいい感じね。噂通りってところなのかしら? それとも、ただ虚勢を張っているだけなのかしらね?)
リリスは今まで何度も頑固親父には対面してきた。
フロイトで新しいことを始めるにあたって、一定数の反発はいつもあったのだ。
あの頃のことを思い出して、リリスはフリードリッヒをじっくり観察した。
年齢は五十歳前後で、服装は持っている中でおそらく一番上等であろうものを着てきたようだ。
指の爪は短く切ってあるけれど、すっかり入り込んでしまった汚れは取れておらず、がさついてたこのある職人らしい立派な手。
しわの寄った顔には反発心が浮かんでいるものの、どことなく落ち着きがない。
おそらく身体検査もあっただろうから、危険な物は持っていないだろう。
ジェスアルドが帯剣していることも確認して、リリスは再び口を開いた。
「殿下、できればこの方に色々と焼き物のことを伺いたいのですが……」
淑女らしく殿下にお願いするふりをしながら、騎士たちに出ていってもらいたいと、暗に伝えると、ジェスアルドはすぐにその意を汲んでくれた。
「お前たちはしばらくドアの外で待っていろ」
「――かしこまりました」
一切の説明もなかったが、騎士たちは素直にジェスアルドの命令に従って部屋から出ていく。
さすがだなと感心しながらも、リリスはフリードリッヒに向き直った。
すると、フリードリッヒは警戒してリリスを見返す。
「フリードリッヒさん、どうぞ座ってください。長くなると思いますので」
応接ソファの向かいを勧めると、フリードリッヒはソファと自分の姿を見比べて首を横に振った。
「この綺麗な椅子を汚すわけにはいきませんので、立ったままでいいです。あと、あっしのことはエドガーと呼んでください。フリードリッヒさんなんて、気持ち悪くてむずむずするでさ」
「そうですか。では、エドガー。これは命令です。ソファに座りなさい。あなたとはじっくり話をしたいの。立っていられると、こちらがむずむずするわ」
リリスらしくない物言いに、ジェスアルドは驚いたようだが何も言わなかった。
そしてエドガーが渋々座ると、すでに腰を下ろしていたリリスは満足そうに頷いた。
隣に座るジェスアルドは剣帯から剣を外し、足の間に立てて持っているので、エドガーを威嚇しているように見える。
実際、エドガーもちらりと剣を見て、ごくりと唾を飲んだ。
(なるほど。ジェドが人を見る目があるっていうのも納得。素直にさせるために、脅すのはどうかと思うけど……)
ジェスアルドのたった一つの動作で、エドガーのだいたいの性格もつかめた。
どうやら反骨精神はあるものの、そこまで頑ななわけではなく、命は惜しいらしい。
(うん、むしろ命は大切にしないとね。自分だけのためでなく、家族や友人のためにも)
フロイトでも最初の頃は、リリスの提案も昔ながらの製法を守る者たちには受け入れられず、さらには意固地になりすぎてリリスの父である国王にさえ反発する者がいたのだ。
その者はドレアム国王の計らいで極刑になることはなかったが、一定期間投獄されることになってしまった。
国家の秩序を守るために仕方ないとはいえ、あの時はリリスも落ち込んだ。
それから結果を出すごとに、国王の打ち出す改革案はすんなり受け入れられるようになっていったが、リリスも国王たちもあの事件を教訓にして、新しい提案をする時には相手を見て話し方を変えている。
「それで、今日こうして呼び出したのは――」
「工場の赤字はあっしが悪いんじゃねえ、です。だからって、工員たちが悪いわけでもねえんです。あっしらはちゃんと決められた数をきっちり不足なく作ってんだ。粗悪品だってねえ。それなのに赤字になったのは、船が嵐に遭ったのと、シヤナだか何だか知らねえが、それが流行って、あっしらのストーンウェアが売れなくなったせいだ」
「そのことについてはひとまず置いて、とりあえずお茶を飲んではどうかしら? 落ち着くと思うわ」
話を最後まで聞かず、腰を半ば浮かして訴えるエドガーに、リリスは優しい笑みを向けた。
ジェスアルドが今までに何度も見た皇太子妃としての笑顔だ。
そして、リリスの言葉を合図にしたように、タイミングよくテーナがお茶を運んできた。
そちらに視線を向けたエドガーは、飛び出るほどに目を大きく見開いた。
「シヤナを見るのは初めてかしら?」
「へ、へい……」
テーナが手際よくお茶を淹れている間も、目の前にカップが置かれてからも、エドガーは憑かれたように白く透き通るような茶器を見つめていた。
「どうぞ」
「し、しかし……あっしの手では、壊してしまうかも……」
「あら、その心配はないわ。持てばわかると思うけれど、とても丈夫なのよ」
リリスに促されたエドガーは、ずっと黙ったままのジェスアルドをちらりと窺い、恐る恐るカップを手に持った。
そのままお茶を飲むのではなく、目の高さまでカップを持ち上げて光にかざし、それから中を覗き込み、もう一方の手でカップの表面をなぞりと、忙しなくシヤナを観察している。
さらにはソーサーまで持ち上げ眺めまわし、次にはカップをそっと短い爪先で叩いた。
すると、キーンという音が響く。
その間、リリスもジェスアルドも黙ってお茶を飲んでいた。
エドガーは二人の存在さえも忘れているようだ。
ある程度時間が経過したところで、リリスはカップを置き、改めてエドガーに話しかけた。
「さて、では話を戻すけれど、あなたはそのシヤナを見てどう思った? あ、お茶は遠慮せず飲んでね。もう冷めてしまっているかもしれないけれど」
リリスの問いかけに答えようとして、エドガーは勧められた通りにお茶を飲んだ。一気に。
そして、ふうっと大きく息を吐いて顔を上げる。
そのこげ茶色の目はきらきらと輝いていた。
「あっしは自分らの作るストーンウェアに誇りを持っています。だからストーンウェアを貶すわけじゃない。だが正直……これは、すごい。同じ焼き物とは思えないくらいだ。ガラスじゃないのかって疑ってみたが、やはり焼き物だ。どうしたらこんなに薄く、丈夫に、そしてこんなに真っ白になるのか……。素地はいったいどんな土でできているんですかね? それに釉薬も上等のものを使わなきゃ、こんなふうには焼きあがらない。釉薬の調合具合も気になるが、でもやっぱり素地だ……」
そう言いながらもどうしても気になるのか、エドガーはカップから手も視線も離そうとしない。
その様子に、リリスは安堵した。
ジェスアルドが紹介してくれたのだから、陶工としての腕は確かなのだろう。
その彼がストーンウェアに拘るあまり、シヤナを拒絶してしまっては元も子もない。
だがこの様子なら、シヤナを作ることに協力してくれるはずだ。
そこからは簡単にリリスは計画を説明した。
エドガーはかなり驚いた様子だったが、その目はやはり興奮に輝いている。
あまり時間を取るわけにもいかないので、詳細はまた後日ということで、話を切り上げることにした。
すると、今までほとんど黙っていたジェスアルドが口を開いた。
「わかっているとは思うが、今の話はまだ計画段階でしかなく、誰にも話してはならぬ。家族にもだ。もし秘密が漏れるようなことがあれば、そなたの命の保証はない。当然、秘密を漏らした相手もだ」
「ひっ、もも、もちろんでさ!」
顔を真っ青にして立ち上がったエドガーは深く頭を下げた。
リリスはそんな彼に変わらない優しい笑みを浮かべて言い添える。
「心配しなくても、それほど長い時間のことではないわ。ただ今回の面会は工場の赤字について、監督官であるあなたに事情を聴いたことになっているから、他のみんなには話を合わせてね」
「へ、へい……」
「先に販売責任者や財務担当者、またコート男爵とも面会している。そなたはこの後、その者たちから何を聴かれたか、何を話したかと問い詰められるだろう。その時は、事実のままに話したつもりだが、よく覚えていないとでも答えればいい。わかったな?」
「へい!」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。きっとあなたならできるわ。ありがとう、エドガー。これからよろしくね」
「はあ……」
エドガーはリリスの言葉にほっと気を緩め、そしてふらふらしながら出ていった。
その後ろ姿を見つめながら、ジェスアルドは父である皇帝がなぜリリスを強引に自分に娶らせたのかを悟った。
無意識ではあったが、今のやり取りは父と自分が諸侯たちを操る時によく使う手である。
「とってもいい人が見つかりましたね。ジェド、ありがとうございます!」
「いや……」
満足そうににっこり笑うリリスに、ジェスアルドは返す言葉がなかった。
この先、きっとリリスはジェスアルドにとって、この国にとって、なくてはならない存在になる。
それを考えると、高揚感と罪悪感とで複雑な心境だった。




