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「おかしい……こんなはずじゃなかったのに……」
旅の目的地であるトイセンを前にして、リリスは呟いた。
ゆっくり進む馬車の中で、テーナが訝しげな視線を向ける。
「だって、新婚旅行なのよ!? なのになのに、ずううっっと殿下とは別々に移動。お部屋ももちろん別々。食事まで別々ってどういうことなの!?」
「それはこれが新婚旅行という名目だけの視察だからだと思いますが」
「冷静に答えないで! そんなことはわかっているわよ!」
テーナの返答に鼻息荒く言い返し、むっつりしたリリスは腕も足も組んで座席の柔らかな背面にどすんと背を押し付けた。
その淑女らしからぬ態度にレセは目を逸らし、テーナは注意しようとしてやめた。
リリスの不満もわからないでもないのだ。
皇宮を出発してから今まで、まるで結婚前の皇宮までの旅のように、ジェスアルドはリリスを避けている。
ここまで六日、そろそろリリスが爆発するだろうと、テーナは思っていた。
ということは今夜、おそらくリリスは暴走するだろう。
だがテーナも、ジェスアルドの態度には少々腹を立てていたので、同情はしなかった。
そして、その夜――。
テーナの予想は的中していた。
宿泊のために立ち寄ったとある領主館では、二人の部屋は扉一枚で繋がっている。
そのため、周囲の者には幸いなことに、寝衣姿でうろうろする皇太子妃を目撃することにはならなかった。
しかし、当然ではあるが、寝衣姿で腕を組んで堂々と立つリリスの怒りを、ジェスアルドは受け止めなければならなかった。
「どういうことか、説明してください」
「何の説明だ?」
「ジェド、これは新婚旅行です。なのに、どうして私を避けるんですか? 私たちが仲良くしていないと意味がないじゃないですか」
「別に避けてなど……忙しかったんだ」
どうにか誤魔化そうとしたが、ずばりリリスに問われて、ジェスアルドはあまりにも苦しい言い訳をした。
が、もちろん通じるはずはない。
「そんな下手な嘘を吐いたって無駄です。それじゃ、一歳のリーノでもわかりますよ! ちゃんと説明してください!」
さすがに一歳児にはわからないだろうとの突っ込みは、怒りを煽るだけなので控えた。
そしてジェスアルドは仕方なく、事実を告げることにした。
「リリス、あなたはフロイト王国から嫁いできた王女として、民はとても関心を持ち、あなたが馬車から笑顔で手を振れば、皆は喜びに顔を輝かせ歓迎している。だが、私が傍にいれば民は恐れ、あなたまで嫌悪されてしまうことになるかもしれない。だから私は――」
「はぁあ? 何を言っているんですか。私は、フロイト王国からこの国のジェスアルド皇太子殿下――ジェドに嫁いできた皇太子妃なんです! もうフロイトの王女なんかじゃありません! 皆はジェドの妻である私を歓迎してくれているんです!」
怒りに任せて言い募るリリスは、片足でどんどんと床に踏みつけている。
この姿を見て、いったい何人の者が、リリスをエアーラス帝国皇太子妃だと信じるだろうか。
ずいぶんリリスの奇行に慣れてきたジェスアルドだったが、まだまだだったらしい。
何も返せずにいるジェスアルドに、リリスは怒りを発散させて少し落ち着いたのか、大きくため息を吐いて続けた。
「ジェドって負の方向で自意識過剰ですよね。いい加減にその考え方は改めたほうがいいと思います。以前、約束した通り、今の私はジェドに不快にさせられたから怒ってるんです。で、ジェドは今の私を不快に思いますか?」
「……いや、不快というか……正直に言えば、やはりあなたはおかしいのではないかと思っている」
「やはり? やはりって、私のことをおかしいって思っていたんですか!? 変わっているとは言われましたけど……って、あれ? 一緒かな? とにかく、私をおかしいと思ってるんですね……」
「それは……」
「別にいいです、否定しなくて。変わっているかもとか、おかしいかもとか、少しは自覚はしていますから。でも、不快に思っていないのなら、私の好きにさせて頂きます。というわけで、もう今日はジェドから離れません。一緒に寝ますから!」
「……は?」
傷付けてしまったとジェスアルドが後悔しているうちに、立ち直ったらしいリリスはずかずかと歩いてベッドに入った。
そして立ちすくんだままのジェスアルドを見て、宣言する。
「以前も言いましたが、私は眠っていても、うなされて叫んだり暴れたりします。でも絶対に! 起こさないでくださいね。あと、その場合の責任は取れませんから」
「責任?」
「うるさくて眠れなかったとか、暴れて殴られたとかの苦情は受け付けません。大事なところを蹴ってしまったって、知りませんからね!」
「大事なところ?」
「詳しくは言えません! 私は淑女ですから!」
兄が二人いるリリスは、男の子同士の取っ組み合いのけんかをよく見ていた。だから弱点だって知っている。
だがそれは子供の頃の話。
そのことを知らないジェスアルドは、それでももう何も言わなかった。さらに無駄な抵抗もやめた。
正直に言えば、この六日間――いや、もっと、リリスが恋しかったのだ。
このぽんぽんと臆面もなく物を言う、よく笑う存在が。
ジェスアルドはベッドに腰かけ、そしてちょっとむくれているリリスにキスをした。
それから少し離れて見下ろせば、にっこり笑顔が返ってくる。
これは本当にご機嫌な時の笑顔だ。
ジェスアルドはこの笑顔にすっかり降参して、もう一度、今度は深くキスをした。
そしてこの夜、二人は初めて朝まで一緒に過ごすことになったのだった。




