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その夜――。
ジェスアルドはリリスの部屋とを繋ぐドアを見つめながら、悩んでいた。
特に目的もないのに訪れるのは迷惑だろう。
だが、昨夜あのような別れ方をしてしまったために、何となく気持ちが落ち着かないのだ。
あの時、もっと詳しく話を聞けばよかったと後悔したのは、部屋に戻ってからだった。
やはり部屋へ訪れ、トイセンでのシヤナ作成についての詳細を訊こうかとして、ジェスアルドは足を止めた。
こんな夜遅い時間にする話ではなく、もうすでにリリスは寝ているかもしれない。
そこまで考えたが、ジェスアルドは再びリリスの部屋へと向かった。
もしまだ起きていれば、今日の出来事など、何気ない話だけでもすればいいのではないかと思ったのだ。
そして、そっとリリスの寝室のドアを開け、ジェスアルドは知らず落胆した。
あれだけ悩んでいたのが虚しくなるほどに、リリスはぐっすり眠っていたのだ。
枕元の明かりはつけたまま、サイドチェストには筆記具が置かれている。
ジェスアルドがそっと部屋へ足を踏み入れても、リリスは起きる気配がない。
ちょっとした罪悪感に襲われながら、ジェスアルドは枕元に立って、じっとリリスを見つめた。
彼女を妃に迎えてから、ジェスアルドの生活は大きく変わってしまった。
初めは面倒なだけの荷物を抱えてしまったぐらいにしか思わず、関わらずにいれば今まで通りの生活を送れると考えていたのだ。
それが今ではすっかり振り回されている。
そしてふと、自分が寝顔を見ていることにリリスが気付いたら驚き不快になるだろうと思い、ジェスアルドは急ぎ自分の部屋に戻ろうと踵を返した。
が――。
「ジェド」
呼びかけられ、足を止めたジェスアルドは振り向いた。
「――すまない、起こしてしまった……」
しかし、ジェスアルドの謝罪は途切れた。
リリスは目を閉じたままで、どうやら寝言だったらしい。
ほっと息を吐いたジェスアルドは、またリリスの寝顔を見つめた。
初めて顔を合せた頃、あえて避けていたのは情を移したくなかったからだ。
それでも、緑色の瞳は印象的で惹きつけられてしまった。
今、その瞳は隠れてしまっているが、長いまつ毛といい、小さな鼻といい、可愛いと思える。
それによく動く唇。
いつも笑っている印象のリリスだが、最近はその笑顔の違いも少しだがわかるようになってきた。
昨夜のリリスの笑顔は確実に怒っていた。
しかし、何がそんなに怒らせてしまったのかがわからない。
ジェスアルドはあの時のことを思い出して眉を寄せたが、逆に眠っているはずのリリスは嬉しそうに微笑んだ。
夢の中でまで笑っているんだなと感心しながら、部屋へ戻ろうとしたところで、リリスの表情が一変した。
苦しそうに顔をしかめ、歯をくいしばっている。
かすかにうめくような声も聞こえた。
ジェスアルドは心配になり、起こすべきかと迷い、そしてやはり声をかけようとした瞬間、リリスはかっと目を見開き叫んだ。
「――んな、無茶なっ!」
ジェスアルドはびくりとして伸ばしかけた手を止め、固まった。
今まで数々の戦場を生き抜いてきたが、ここまで肝を冷やしたことはなかったかもしれない。
速い鼓動をどうにか鎮めようと深呼吸するジェスアルドと同様に、深く息を吐きながらリリスは起き上がった。
「……リリス、大丈夫か?」
「ジェド!? ど、どど、どう、どうっ……大丈夫です!」
当然だが、リリスはジェスアルドがいることに驚いたらしい。
少々挙動不審ながら問いかけに答え、きょろきょろと周囲を見回した。
「ここは、あなたの寝室だ。その、私があなたの部屋に来たんだが……」
「それは……あ、ひょっとしてうるさかったですか? すみません。たまに夢を見て、叫んだりしてしまうから……」
「いや……その……本当に大丈夫なのか? うなされていたようだが……」
ジェスアルドが部屋に来たのは叫び声を聞いたからではない。
その後ろめたさから、あやふやな言い方になってしまったが、心配しているのは本当だった。
すると、リリスはちょっとだけ考え、それから気まずそうに笑った。
「本当に大丈夫です。ご心配をおかけしてしまって、すみません。あの、私……先ほども言いましたが、よく夢を見て叫んだり暴れたりするんですが、もしそんな私に気付いても絶対に起こさないでください。その、夢の途中で起きてしまうと……消化不良でどうにも気分が悪くなってしまうので……。お願いします」
「……わかった」
リリスの不自然な説明にも、ジェスアルドは了承して頷いた。
今はもう〝リリスだから〟で納得できてしまう。
ほっとしたように笑うリリスに、ジェスアルドもかすかに笑い返し、それから気になっていたことを口にした。
「……ところで、先ほどはどんな夢を見ていたんだ?」
「え?」
ジェスアルドにこの婚姻で一番心配していたことを納得してもらったと、安堵していたリリスは、この質問に焦った。
本気で興味を持っているのか、ジェスアルドはベッドに軽く腰掛ける。
リリスは適当に誤魔化すべきかとちょっとだけ迷い、今回は本当に夢だったのだからと、正直に話すことにした。
「新婚旅行で、ジェドに海に連れて行ってもらったんです」
「いや、海に行く予定は――」
「夢ですから」
「ああ、そうだったな」
リリスの言葉にジェスアルドが真面目に答えようとしたので、すかさず突っ込む。
すぐに話の趣旨を思い出したのか、ジェスアルドは笑った。
最近のジェスアルドは自然に笑うようになっている。
それが嬉しくて、リリスはそのまま素直に話を続けた。
「それで、とても大きな船に乗って、さあ出航ってなった時にジェドが『これで漕いで進めてくれ』って、私にオールを渡してくれたんです。でもジェドと私以外誰もいないし、オールは一本しかないし、いつの間にかジェドは陸上で私に手を振っているし……。それでも頑張って漕ごうとしたんですけど、オールが海面に届かなくて苦労しました」
「それは……大変だったな」
「はい」
やれやれとため息を吐いたリリスを、ジェスアルドは労ってくれた。
最初は、これは未来の夢なのかと、リリスは心躍らせたのだ。
海も大きな船も現実夢で見たことがあったので、すぐにわかった。
しかし、オールを渡されたくらいからおかしいと感じ始め、本物の夢だと気付き、どうにか目覚めた時にはジェスアルドがいたのでかなり驚いたのだった。
実のところ、まだ夢かと思ったくらいだ。
「では、今度はもっと楽しい夢を見ることができるといいな」
そう言って、ジェスアルドは立ち上がった。
リリスはそんなジェスアルドの上着の裾を思わず掴んだ。
「あの! えっと……昨夜はごめんなさい」
「うん?」
「すごく生意気な言い方をしてしまいました。ジェドには私の我が儘で迷惑ばかりかけているのに」
「いや……迷惑に思ったことは一度もない。ただ少し驚いただけだ。私には自分では気づかず、人を不快にさせてしまうことがよくある。そのせいであなたを怒らせてしまったのだろう」
「いいえ、そんなことは…ないです。ちょっとイライラしていただけで……」
すぐに否定しかけて、昨夜の無神経発言を思い出したリリスは、ぎこちなく答えてしまった。
ジェスアルドは小さく笑って、自分の裾を掴んだままのリリスの手を握る。
「お互い、不完全な人間ということだな。だが、それで当たり前なのだろう。だからまた、私が何か不快にさせてしまったなら、気にせず怒ってくれてかまわないんだ。そのような相手は、あなたぐらいしかいないのだから」
「で、では、私のことも怒ってください。私、よく考えずに発言したり、行動してしまう癖があるので。フロイトではしょっちゅうお母様に怒られていましたし……」
「それなら、やはりお互い様ということだな」
ジェスアルドの表情があまりに優しくて、繋いだ手から伝わる熱がリリスの心まで熱くする。
そのせいで余計なことまで言ってしまった。
ジェスアルドはくすくす笑いながら答えて、リリスの手に軽く口づけた。
「おやすみ、リリス。素敵な夢を」
「お、おやすみなさい!」
今度こそ部屋へと戻るジェスアルドを、リリスは真っ赤になって見送った。
これではまるで憧れの恋人同士みたいだ。
わけがわからなくなったリリスは、勢いよくお布団にくるまって、じたばたと悶えたのだった。




