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洗面具を持って寝室に戻ってきたテーナは、うろうろと歩き回るリリスを目にして、眉を寄せた。
「何をなさっているのです、リリス様? 檻に囚われた野生の狼のようですよ」
「失礼ね、別に羊を襲ったりなんてしないわよ」
新婚の夫を襲ったようなものではないかとテーナは思ったが、何も言わなかった。
もちろん、皇太子は羊のようにおとなしくはない。
それどころか、世間では〝紅の死神〟と恐れられている皇太子が、新婚の花嫁に夜這いをかけられるなど、誰に言っても信じてもらえないだろう。
テーナがそんなことを考えながら洗面具をサイドチェストに置くと、足を止めたリリスが勢い込んで迫ってきた。
「それより、テーナ! 私の月のものって、次はいつだった?」
「……リリス様は少し不順ですから、はっきりとはお答えできませんが、おそらく七日ほど後かと思います」
「そう……七日もあるのね……」
「いかがなさいましたか、リリス様? どこかお体の具合でも――」
「あ、違う違う! 大丈夫よ。そりゃ、まだ少し疲れは抜けていないけど、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
リリスの言葉に、体の不調を感じているのかと、テーナは急ぎ熱を測ろうとリリスへ手を差し出しかけた。
いつも少々では動じないテーナでも、リリスの体調不良には人一倍心配するのだ。
「その……赤ちゃんができたら、月のものってこないんでしょ? だから、いつ頃わかるのかなって思ったの」
「そういうことでしたか……」
テーナは安堵したのかほっと息を吐いた。
だがリリスにとっては心配事が他にある。
「でもね、もし、もしよ? 赤ちゃんができていたら、昨日お酒を飲みすぎてしまったのってまずかったんじゃないかしら? それにあの薬湯は? ベッドにダイブもしたのよ? 赤ちゃんに何かあったらどうしよう……」
「一応、あとで医師に確認はとりますが、おそらくこの時期ならたった一度、お酒を過ごされてしまったくらいなら大丈夫ではないでしょうか? 薬湯も当然、リリス様のお体のことを考えて煎じられたものですから大丈夫でしょう。ただし、適度の量ならともかく、昨夜のように過ごされるのは、もうなさらないでください。いいですね?」
「わ、わかっているわよ。私だって、もうあんなに気分の悪い思いはしたくないもの」
「それと、またベッドにダイブされたのですか? あれほどおやめくださいと申しておりますのに……。もちろん、今の時期でしたら御子に影響があるようなことはないでしょうが、そういう問題ではなく、妃殿下としての自覚を持って頂きたいと――」
「だって、昨日の私は傷心だったの! 殿下に振られてしまったんだもの!」
長々と始まったテーナのお説教を、リリスは勢いよく遮った。
その言葉にテーナは驚いたのか、一瞬口を閉じ、そして信じられないとばかりに問いかける。
「殿下に……振られたのですか?」
「そうよ。昨夜は……何もなさらず、お部屋にすぐに帰ってしまわれたの。お茶会で途中退席した話をお耳にされたみたいで……」
「それは、リリス様のお体を気遣ってくださっているのではないですか」
「でも、大丈夫だって言ったのに……。それにお願いのことを持ちだしたら、怒ったみたいだったし……。今日のお昼の私の態度だって、生意気だったわよね? もうこのお部屋にいらっしゃらないかもしれない……」
再びほっと息を吐いたテーナに、リリスは涙目になって訴えた。
こんなに弱気になるリリスはかなり珍しい。
テーナはその理由に何となく思い当ったが、口にはしなかった。
おそらくまだ生まれたばかりの感情だろうし、これはリリスが自分で気付かなければいけないのだ。
「……大丈夫ですよ、リリス様。殿方というのは、気分屋さんが多いんです。それに殿下が噂されるような方ではないと、今なら私でもわかります。殿下は本当に、リリス様のお体を気遣っていらっしゃるのですよ。ですから、ご心配には及びません」
「……うん、きっとそうね。……テーナ、いつもありがとう」
いつものようににっこり笑顔でテーナにお礼を言うと、とても優しい笑顔が返ってきた。
テーナのその笑顔だけで、リリスは元気になってしまう。
「テーナ、大好きよ!」
「はいはい、リリス様。でしたら、お顔を洗って、お元気になるために、しっかりお夕食を召し上がってください」
ぎゅっと抱きついてきたリリスに、今度は呆れのため息を吐いて、テーナはリリスの背中をぽんぽんと叩いた。
小さい頃から世話をしているリリスが、いつの間にか自分と変わらないほどの背丈になっている。
そのことに改めて気付いたテーナはこっそり苦笑して、リリスの支度を手伝ったのだった。




