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「……何だ、これは?」
「あ、こんばんは」
「……ああ」
ジェスアルドは約束したのだからと、自分に言い聞かせてリリスの寝室へのドアを開け、目にしたものに驚いた。
そして思わず口にした問いかけは、にっこり笑顔とともに挨拶として返ってくる。
また微妙な返事しかできなかったジェスアルドだったが、リリスは気にしていないのか、最初の問いかけに答えた。
「これはバラの花びらです。ジェドがいらしてくださるので、歓迎の気持ちを表したいと思いまして」
「……」
バラの花びらなのは見ればわかる。
その花びらが大量にベッドに上に撒かれているからこそ驚いたのだが、ジェスアルドはどう反応すればいいのかわからなかった。
歓迎されていることに喜ぶべきなのか。そもそも、歓迎されることなのか。さらには、この歓迎の仕方に突っ込むべきなのか。
「あ、心配しないでください。この花びらは花が終わる前に切り取ってしまうものを庭師さんにお願いして頂いたものなので大丈夫です。あの素敵なお庭を荒らしたりはしていませんから」
思い悩んで黙り込むジェスアルドを誤解して、リリスは慌てて弁解した。
そういう問題ではないのだが、寝室にはバラの香りに満ちていて、ジェスアルドはなんだか頭がくらくらしてきていた。
もう深く考えるのはよそう。
ジェスアルドはそう自分に言い聞かせた。
「えっと、お酒を飲まれますか? 色々と揃えて……もらっているので、お好きなのをおっしゃってください。あと、ハーブ水もあります。これは私のお気に入りなんです。ぐっすり快眠、寝起きもすっきりですよ」
「いや……大丈夫だ」
いそいそと世話を焼こうとするリリスに答えて、ジェスアルドは寝室へ足を踏み入れ、そのままベッドに腰を下ろした。
途端にバラの香りがまたふわりと広がる。
ジェスアルドはベッドに散る花びらの中でいくつかあるバラの花そのものを摘まみ上げた。
こんなに間近で花を見たのは、子供の頃――まだ母が生きていた頃以来だ。
「あの、お気に召しませんでしたか? テーナには――侍女には、男性の中には花を好まない方もいると忠告されたのですが……」
「別に……花は嫌いじゃない」
「本当に?」
「ああ」
「それは安心しました! やはり私たちは新婚ですから、華やかにしようと思ったんです! それで、花びら占いをしながら、侍女たちと一枚一枚取ったんですよ。まるでフロイトでの作業みたいで楽しかったです」
「……作業?」
「ええ、フロイト製のバラの精油は有名なんですが、ご存じないですか? あとバラ水やポプリ……とにかく、バラはフロイトの名産なんです」
「そうか……」
一応の知識として、フロイト王国の名産品の中に高価なバラの精油が含まれていることは知っていたが、ジェスアルドは王女がその作業に加わっていることが驚きだった。
もう何もかもがジェスアルドの常識と違う。
だが、一つだけわかったことがある。
リリスは緊張しているのだ。
そう思うと、ジェスアルドはリリスのおかしな言動にも納得した。
「リリス」
「はい!」
「少し、話をしよう」
「は、はい……」
ぽんぽんと隣を叩くと、リリスは頬を赤らめてちょこんと座った。
一昨日とは逆の立場だが、その様子が可愛いと思えてしまうジェスアルドは、かなり毒されてきているのかもしれない。何の毒かはわからないが。
「その……当初の私のあなたに対する態度は酷かった。それを謝りたいと思う」
「はい、許します」
「いや、まだ謝罪はしていないが……」
「謝罪は言葉じゃないです。気持ちですから」
にっこり笑って答えるリリスにつられて、思わずジェスアルドもかすかに笑った。
途端にリリスの顔がさらに輝く。
「やっぱりジェドの笑った顔は素敵ですね!」
「……あなたは本当に変わっているな」
「ええ? ジェドもそう思いますか? よく言われるんですよね。でもなかなか治せなくて……すみません」
「――謝る必要はない。ただ少し……そう思っただけだ」
今の今まで笑っていたリリスの顔から笑顔が消え、しょんぼりとする姿に、ジェスアルドは急いで気にしていないと伝えた。
嘘も方便である。
すると、リリスはほっとしたようにまた笑った。
これほどにはっきりと喜怒哀楽を表すなど、確かに権謀術数の渦巻く皇宮では〝得難き宝〟なのかもしれない。
ジェスアルドはリリスの兄であるエアム王子の言葉を思い出しながら、だからこそ言わなければならないことを口にした。
「リリス」
「はい」
「約束してほしいことがある」
「何でしょう?」
「……この先、もし嫌なことがあったり、つらいことがあれば、我慢しないでくれ。何も耐える必要はない。ここに、この国に留まることができなければ、フロイトに帰ってもいい。だから、絶対に無理をしないでくれ」
「ジェド、それは――」
「頼むから約束してくれ」
ジェドの言葉にリリスは息を呑んだ。
数日前に交わされた同盟にも、お互いの国益にも多大な影響を及ぼすその言葉に、リリスは抗議しかけたが、切実な表情のジェスアルドに遮られて続けられなかった。
「……わかりました。約束します」
要するに、我慢も無理もしなければいいのだ。
正直なところ、ジェスアルドがそこまで言うのがなぜなのか、気にはなったが、それはそれ。
また今度考えようと、リリスはそのことは脇に置いて、ほっとした様子のジェスアルドに勢いよく抱きついた。
ふいをつかれたせいか、ジェスアルドはそのままベッドに横になる。
「飲み物はいらないんですよね?」
「ああ」
「無事に約束もしましたし、話し合いも終わりですよね?」
「……ああ」
「では、夜はこれからですね?」
「…………ああ」
ベッドに花びらが舞い、リリスに質問攻めにされる中、ジェスアルドは状況を整理しようとした。
これはひょっとしなくても、押し倒されている気がする。
そしてリリスを見れば、にこにこと楽しそうに笑っている。
先ほどまでの緊張はどこへ行った? と思ったが、ジェスアルドは諦めた。
確かに、夜はまだまだこれからなのだ。
ジェスアルドは瞬く間に体勢を変え、驚くリリス見下ろして、ぽかんとあいた唇に唇を重ねた。
そしてつくづく、花びらは邪魔だなと思ったのだった。




