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「妃殿下、そのままゆっくりその場に腰を下ろしてくださいませ。――あなたは殿下をお呼びして。そちらのあなたは妃殿下の侍女たちに妃殿下のご出産が始まると伝えに行って。あと皆さん、ひとまずこの場から離れて」
ベルドマは固まってしまったリリスを座るように促すと、騎士たちにそれぞれ指示を出し始めた。
そしてリリスが腰を下ろすよりも早くジェスアルドが駆けつける。
「リリス、どうした!?」
「殿下、お子様がもうお生まれになろうとなさっております」
「子が……」
ジェスアルドは何のことかわからないというように呟いたが、すぐに気を取り直したらしい。
そっとリリスに近づきながらベルドマに問いかける。
「それで、私は何をすればいい?」
「ここは狭いですが、妃殿下をお抱きになって下りることができますか? お怪我をされていらっしゃいますが、他の方に代わっていただいたほうがいいなら――」
「いや、大丈夫だ」
リリスは急に襲ってきた痛みに声を出すこともできず、階段に座り込んでいた。
ベルドマは持っていた大きな鞄を開き白い布を取り出すと、一度振り向いて誰もいないことを確認してリリスの足の間に手を入れ、次いで布を当てる。
その頃には痛みが和らぎ、リリスは浅く呼吸をしながら状況を理解しようとしていた。
「ベルドマ……まだ予定日まで……ひと月あるのよ?」
「どうやらお子様は待ってはくださらないようですね」
「で、でも……赤ちゃんは、大丈夫なの?」
「……今はお生みになることだけをお考えください」
「そんっ――」
これから出産になると知って動揺したリリスだったが、再び痛みに襲われ声を詰まらせた。
「妃殿下、焦らずゆっくりと息を吐き出してくださいませ。そのほうが痛みを逃せます」
「ベルドマ、このような状態で抱き上げても大丈夫なのか?」
「一度痛みが引きますから、そのときにお願いいたします」
リリスは二人の会話も耳に入らず、必死に息を吐き出していた。
前もって呼吸法を聞いてはいたが、まだ練習もちゃんとしていないのだ。
ただもう痛くて、呼吸法などと悠長なことをやっていられそうにない。
「も、むり……」
「妃殿下、しっかりなさってください。意識なされば、痛みの合間がおわかりになるでしょう?」
「わかっても、痛いものは痛いもの……」
うじうじと弱音を吐きだしたリリスを見て、今は痛みが引いていると判断したベルドマはジェスアルドに抱き上げるよう目配せして数段下りた。
ジェスアルドはリリスを跨ぐように移動してそっと抱き上げる。
普段ならジェスアルドの怪我を気遣うリリスだが、今はそれどころではなかった。
再び痛みが襲ってきたのだ。
呻きだしたリリスに、声を出さずにうろたえていたジェスアルドはさらにうろたえた。
「殿下、無理なお願いをしますが、できるだけ揺らさずに急いでください。どうやらお産が早く進行しているようですので、この狭い空間を出なければなりません」
ジェスアルドは頷くだけで応えた。
声を出してはリリスの体に障るのではないかと怖かったのだ。
急ぎ階段を下りて最上階と思われていたかつての見張り部屋である倉庫に出た。
そこで騎士の一人がジェスアルドの怪我を心配して交代しようと申し出てきたが断る。
次に先ほどよりは幅のある階段を慎重に下りてようやく一階に辿り着き、ジェスアルドがほっと息を吐いたとき、リリスが叫んだ。
「ダメ! もう出そう!」
「ベルドマ、どうすればいい!?」
痛みの間隔からも先ほどの内診からもリリスの自室までは間に合いそうにないと判断したベルドマは、遠巻きに見ていた使用人女性たちに声をかけた。
「誰か部屋を提供して。あとお湯と清潔な布をたくさん用意してちょうだい」
その指示にすぐに動き出したのは年配の女性たちだった。
三人の女性が尖塔の外へ駆け出し、一人の女性がジェスアルドの近くの扉を開ける。
そして、いくつか並んだ質素なベッドの中で、周囲で身動きするのに一番よさそうな場所を選んですり切れたシーツをはがした。
ベルドマはその隣のベッドの上に鞄を置いて開く。
ジェスアルドが苦しむリリスを抱いたまま呆然として立っていると、別の女性二人が部屋へと駆け込んできて、上質なシーツを広げて何枚も重ねていった。
訓練された騎士たち顔負けの――むしろこの状況においては騎士たちは何もできないが、女性たちは見事な連携で分娩台を準備したのだ。
そういえばこの尖塔の一階は昔は武器庫だったが、今は使用人部屋の他に倉庫として使われていたなと、大量の清潔なシーツを見ながらジェスアルドはどうでもいいことを考えていた。
「殿下、妃殿下をこちらに」
「あ、ああ」
促されてようやく我に返ったジェスアルドはリリスを下ろそうとして、そこで初めてかなりの力で服を摑まれていたことに気付いた。
ベルドマがその指を一本一本外していく。
「妃殿下、お力を抜いてください。今は痛みがないはずですよ?」
なぜそのようなことがわかるのか、ジェスアルドは改めてベルドマを尊敬した。
この間も、女性たちはたらいを用意したり、さっそくお湯を運んできたりと忙しなく動いている。
「ジェドの馬鹿! 痛いっ! ジェドの馬鹿!」
何もすることができず突っ立っているだけだったジェスアルドは、リリスの叫びを聞いてさらに無力感に苛まれた。
それでもシーツの上でさまようリリスの手を握る。
「殿下、もう間もなくお生まれになりますので、外でお待ちいただいたほうが……」
「もし邪魔でなければ、こうしていたい」
「――かしこまりました。では、妃殿下を励ましてさしあげてください」
もちろんそのつもりだったが、ジェスアルドが答えることはできなかった。
小さな体のどこにこんな力があるのだというほどに強い力で手を握られたのだ。
そのとき、テーナとレセが勢いよく部屋へと入ってきた。
二人とも今までにないほど髪を振り乱し、息を切らしている。
「リリス様!」
「――テーナ、レセ……」
二人の声を聞いた途端、リリスの体から心なしか力が抜けた。
ほっとするリリスと同様に、ジェスアルドもほっと息を吐く。
この二人の侍女とリリスの間には目に見えるのではないかというほどの絆がある。
寂しい気もするが、積み重ねた年月が違うのだから仕方ないだろう。
いつか二人に負けないほどの絆を結びたいと、そのためにもリリスが無事に出産を終えられるようにとジェスアルドは祈った。
テーナとレセはジェスアルドとは反対側の枕元に屈んでリリスの手を握る。
普段なら礼儀を欠くことはないのだが、今はリリスしか見えていないようだ。
「テーナ……お母様が……」
「王妃様がいかがなさいましたか?」
「ごっ、五人も産んだなんて、信じられない……」
「……さようでございますか。では、リリス様は六人を目指されてはいかがですか?」
「むーりーいいぃぃ!」
「はい、妃殿下。その調子でいきんでくださいませ」
「リリス様なら大丈夫ですよ!」
テーナとレセが来てから一気に雰囲気が変わった。
相変わらず握る手の力は強いが、明らかにリリスがリラックスしているのがわかる。
「リリスがこのように苦しむのなら、この子だけでいい」
「それはダメ! ジェドの子はいっぱいほしいぃぃ!」
「はい、頭が出てまいりましたよ」
ジェスアルドにとっては心からの言葉だったが、リリスに力いっぱい否定されてしまった。
そして――。
「ジェド、大好きぃぃ!」
という盛大な告白と同時に、元気な産声が上がった。
母子二人の声は尖塔の外にまで響き渡り、心配して集まっていた者たちを安堵と喜びに沸き立たせたのだった。




