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リリスは何度かうとうとしたものの、ちょっとした物音でびくりとしては起きるということを繰り返し、寝不足のまま朝を迎えていた。
あれから固いパンだけの夕食を女性が運んできたきり何もない。
壁が厚いのか上着を着てシーツにくるまっていれば寒さは凌げることは幸いだった。
リリスはシーツの上に座ったまま壁にもたれ、大きく息を吐いた。
(私が攫われてから三日……)
きっと皆は限界にきているだろう。
どうにか無事であることを伝えたいが、天窓と鍵のかかった扉以外に外との接点がない。
となれば、後は動く接点――世話係の女性だった。
「ねえ、あなたはなぜコンラードに協力しているの?」
「利害関係が一致していたからね。あの人はあんたが邪魔。あたしはあんたが必要」
女性が過去形で話していることに気付いて、リリスは口を閉ざした。
だが女性はかまわず続ける。
「まったく貧乏くじを引いたよ。欲なんて出さずに洗濯女として真面目に働いとけばよかったんだ。足を洗ったつもりが、洗えなかったなんて皮肉だよね。フォンタエに行く間、あんたの世話をするだけだって、それで金は山分けだって乗せられてさ。人目を忍んでここまで毎日来るのももう限界なんだよ」
そうぼやきながら徐々に近づいてくる女性を見て、リリスは立ち上がった。
昨日までは薬の影響か体を動かすのも苦労したが、今朝は比較的動ける。
相手は妊婦だと油断しているだろう。
今なら扉の鍵もかかっていない。
隙を突いて部屋から飛び出し、逆に女性を閉じ込めてしまおうかと考えたとき、女性はひょいと屈んで足元の湯たんぽを触った。
「ああ、まだ温かいね。今日はそれほど冷え込まないようだから、大丈夫だろう。夕方には新しいのを持ってくるよ」
予想外の言葉にリリスが呆気に取られていると、女性はさっさと出ていってしまった。
女性はリリスが邪魔になり、てっきり殺すつもりなんだと思っていたのだ。
力が抜けたリリスはへなへなと座り込み、そのまま横になった。
考えすぎだったのだろうかと、先ほどの女性の言葉をリリスは思い出す。
コンラードはリリスを邪魔に思っていると言っていたが、それでは本人の言動と一致しない。
だが、フォンタエ側には帝位に執着していると思わせていたのだろうか。
以前、夢で見たコリーナ妃を殺す簡単な方法があると言っていたのがコンラードだとすれば、相手はコンラード派だろうか、フォンタエの密偵だろうかとリリスは考えた。
(私を皇宮内に隠すなら、密偵よりもコンラード派の人のほうがうまくやれるでしょうけど、かなりのリスクよね。あのメイドの人も女性も密偵なんだから、やっぱりフォンタエ主導ってことかな。それにしたって、ジェドとコンラードは年齢もほとんど変わらないんだから、後継者っていうのもおかしな話よね。コンラード派の人たちなんてもっと年上なのに、何歳まで生きるつもりなのよ)
リリスは温くなった湯たんぽを抱え、目を閉じた。
緊張が解けたために眠くなってきたのだ。
先ほどまでポコポコ動いていたお腹の子も今はおとなしい。
きっと眠ったのだろうと思い、リリスも一緒に眠ることにした。
そして次に意識したときには現実夢の中にいた。
どうやらリリスがいる尖塔の階下らしい。
ここは使用人たちの棟に隣接しているので、リリスは見学していない場所だった。
上階は物置になっており、リリスがいる部屋への階段などはどこにもなく、下から三階までは使用人たちの部屋になっている。
リリスはお腹を無意識に撫でながら、ふわふわと外に出た。
お腹は膨らんでいなくても、小さな鼓動はしっかり感じられるから不思議だ。
そこで、先ほどの女性が何人かとおしゃべりをしながら洗濯をしている姿を見つけた。
話題はやはりリリスのことらしい。
ちらりと耳に入ったのは、もう妃殿下は生きていないのではないかということ。
もちろん話の内容は気になったが、それ以上にジェスアルドのことが心配でリリスは執務棟へと向かった。
幸いなことにリリスはすぐにジェスアルドの執務室へ移動することができた。
しかし、椅子に座っていたジェスアルドの顔は疲労の色濃く、リリスの胸は痛んだ。
周囲にはフリオやサイラスなどの主だった者たちもいるが、皆も沈痛な面持ちでその心情が窺える。
三日経っても手掛かり一つ見つからないことで、最悪の事態を想定しているのかもしれない。
だがきっと誰もそれを口にできないのだろう。
『――国境警備は当然のことながら、各港にも厳しい検問の指示を出しております。ですが、ご懐妊中の妃殿下を連れて逃げるなど至難の業。やはり皇宮、もしくは帝都内に潜んでいる可能性が大きいかと思われます』
『皇宮内は何度も調査しております。使用人部屋や倉庫、物置まで全て。抜け道もサイラス殿が調査されたのでしょう? やはり皇宮の外に出たのではないでしょうか?』
『しかし、妃殿下が攫われてから殿下が門を閉鎖するまでの間に抜け出すのは不可能に近い。抜け道も未だに使用された形跡はなく、通路に繋がる出入口付近にはそれとなく兵を配置しています。ですから私は、皇宮内にとどまっていると考えるのが妥当だと思っております』
サイラスとフリオの言葉から、まだ皆が諦めていないことがわかってリリスは嬉しかった。
ただ捜索範囲が広大なために手こずっているのだ。
どうにか自分が皇宮内に――尖塔にいることを伝えられないかと、リリスは執務机に肘をついて俯いているジェスアルドの前に進み出た。
そして手を振る。
『ジェド! おーい! 気付いて、ここだよー!』
飛び跳ねてみたりもしたが、ジェスアルドは俯いたまま。
以前、現実夢の中のリリスに気付いてくれたのだからと、一生懸命踊ってみる。
そこでふとあのときは気配を消そうとしていたことを思い出し、壁に張り付いた。
しばらくしてジェスアルドが顔を上げ、リリスの胸が高鳴る。
目が合ったのだ。
リリスは両腕を上げて頭上で両手を合わせ、尖塔の真似をした。
『……』
『殿下? いかがなさいましたか?』
『いや……』
顔を上げてリリスをじっと見つめるジェスアルドに、フリオが問いかけた。
発言していたサイラスも訝しげにリリスのほうを見る。
尖塔の形をしたままリリスは緊張したが、ジェスアルドは何もなかったようにフリオたちに向き直った。
(ダメか……)
がっかりしたリリスは腕を下ろし、その場から離れようとした。
目が覚めないうちにテーナやレセたちの様子も見てこようと思ったのだ。
そのとき、ジェスアルドが再びリリスのほうへ向いた。
『リリスは――妃はまだ皇宮内にいる』
『何か手がかりが摑めたのですか!?』
『いや、ただの勘だ』
『勘……』
『で、ですが、殿下の勘はよく当たります!』
ジェスアルドがわかってくれたことが嬉しくて、リリスは飛び跳ねた。
サイラスは一瞬喜び、次いで戸惑ったが、フリオが励ますように補足する。
リリスはさらに詳しく伝えられないかともう一度腕を上げようとして、お腹の痛みに目が覚めた。
「――っいた!」
どうやらお腹の子が目を覚ましたらしい。
お腹を元気よく蹴られて、その痛みにリリスは苦笑した。
「こら、あんまり暴れないの」
お腹を撫でながら言い聞かせると、途端におとなしくなる。
何てよい子なのだろうと思ったとき、カチャリと小さな音がしてリリスは身構えた。
誰かが入ってくる。
そのことをお腹の子は伝えたかったのかもと考え、急ぎ体を起こした。
「よく眠れましたか、妃殿下?」
「……まあまあよ」
どこか歪んだ笑みを浮かべるコンラードに、リリスは警戒しながら答えた。
コンラードは手に剣を持っていたのだ。




