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皇帝が無事にマチヌカンの議事堂に到着したとの知らせがあってから十数日。
出産予定を約一月後に控え、リリスはベルドマからとにかく歩くようにと厳命されていた。
そのため毎日午前と午後に皇宮内の庭を散策するのだが、その際にはジェスアルドも必ず付き合ってくれる。
「毎回お仕事を抜けられても大丈夫なのですか? 今はお忙しい時期でしょうし、ベルドマやテーナたちもいてくれますから、私の心配はいらないですよ?」
「仕事は今までと大して変わらないので大丈夫だ。むしろこれを機に、皆に振り分けることを覚えた。それに何より、私がリリスと一緒にいたいんだ」
「殿下……」
皇帝が留守にしている今、ジェスアルドはかなり忙しいはずである。
そのため心配したリリスは、思わぬ嬉しい言葉をもらって顔を赤くした。
人目がなければ抱きついたところだ。
リリスは力漲る両手の指をぐにぐにと折り曲げて解すと、ジェスアルドの腕に添えていただけの右手にぐっと力を入れて身を寄せた。
「リリス?」
「お言葉にいっぱい甘えることにしました!」
「……そうしてくれ」
リリスの歩調に合わせてゆっくり進みながら、ジェスアルドは微笑んだ。
途端に周囲からどよめきが上がる。
ここ最近、ジェスアルドの印象はかなりよくなっているのだが、笑顔は未だに珍しく皆に驚かれるのだ。
だが周囲の反応をよそに、リリスとジェスアルドは二人だけの世界である。
「殿下、見てください! 蕾ですよ!」
「ああ、もうすぐ春だな」
「このお庭がお花でいっぱいになる頃には、この子も生まれていますね」
「そうだな」
「きっと綺麗でしょうねえ」
「リリスほどではないがな」
「殿下はかっこいいですよね!」
などと、独り身の者が見れば、思わず悪態をつきたくなるほどの仲良しぶりである。
そして昔からジェスアルドをよく知っている者たちの間では、中身別人説まで流れ始めていた。
こんなふうに皆がのんびりできるのも、皇帝が留守でも実際にはそれほど仕事が増えてはいないためであった。
要するに、以前からジェスアルドをはじめとした若い世代に、皇帝や古参の政務官たちが仕事を押しつけていたからだ。
ただし、責任は増した。
ジェスアルドにとっても、今まで父である皇帝が全責任を負っていたものを引き受けなければならない。
そのため、やりがいはあるが正直なところ疲れてもいた。
それでもこうしてリリスと一緒に過ごす時間がジェスアルドを癒してくれる。
結局は父の思いどおりに進んでいるが、今はこれでいいのだとジェスアルドは受け入れていた。
(まさかこんなにも、人生が変わるとはな……)
ほんの一年前までは考えられないことだった。
その頃にはコンラードのことも、どうしようもないやつだと思いながらも許していた。
今でもまだ、心のどこかで本当にコンラードなのかと疑う気持ちもある。
しかし、その考えを父である皇帝に打ち明けると、肯定も否定もされなかった。
ただ従来ならばジェスアルドが臨んだであろう今回の交渉に、自ら赴くと告げたのだった。
それはリリスの出産が近いというだけでなく、これまでのジェスアルドのイメージを払拭しようとする狙いもあったらしい。
〝紅の死神〟はもう必要ないのだ。
これからは妻を気遣う夫として――人気の高い皇太子妃を労わることによって、呪われた皇太子のイメージを好転させようとしている。
全てが計算とまでは思わないが、やはり皇帝は抜け目がない。
「リリス、そろそろ戻ろうか? これ以上は体が冷える」
「そうですね。空模様もあまりよくありませんし……また雪になるかもしれませんね」
「ああ、そうだな」
二人して空を見上げ、徐々に広がる鈍色の空を眺めた。
そんな二人の間を一陣の風が吹き抜ける。
小さく震えたリリスをジェスアルドが抱き寄せ、二人は足早に部屋へと帰っていった。
その後、ジェスアルドは執務に戻り、リリスはテーナたちと暖炉の前で熱いお茶をゆっくり飲んだ。
すると、冷えた体も徐々に温まってくる。
それからテーナとレセに手伝ってもらって寝支度を整えると、ベッドに横になった。
「おやすみなさい、テーナ」
「おやすみなさいませ、リリス様」
最近はお腹の子に蹴られて起こされたりするので、熟睡ができず常に眠い。
よいしょ、と苦労して寝返りを打ったリリスは目を閉じると、あっという間に眠りに落ちた。
そして次に目を開けたときには、居心地のいいベッドの上ではなかった。
(……あれ? ここはどこ?)
久しぶりの現実夢の中かと思ったが、体の重さや寒さで現実だと気付いた。
急いで体を起こそうとするが、お腹より何より腕さえも重くて上手く動かせない。
「え……ど、して……?」
思わず呟いたリリスだったが、喉が痛み、声がかすれる。
状況を把握しようとするが、頭もずきずきと痛み、考えることさえつらかった。
ひどく寒いがどうしても眠くて目を閉じる。
途端に眠りに落ちたリリスには信じられないことが起きていた。
生まれて初めて、眠っている自分を見下ろしていたのだ。
(うそ……。え? 私、よね? でもきちんと部屋で寝ている……ってことはいつの私?)
模様替え後の寝室でテーナはベッドから少し離れた場所で本を読んでいる。
リリスのお腹は上掛けの上からでも大きく膨らんでおり、夜衣は先ほど着たものと同じだった。
(ひょっとして……)
時間感覚は乱れてしまっているが、とにかく自分の記憶がはっきりしているお昼寝のときではないのかと思ったとき、ジェスアルドの寝室と繋がる扉が小さくノックされた。
リリスは気付いた様子もなくぐっすり眠っているが、テーナは本を置いて急ぎ扉へと向かう。
『だめ! テーナ、待って!』
嫌な予感にぞくっと体が震え、慌てて止めようとしたが声が届くことはなかった。
それでもテーナは相手を確かめようと小声で問いかけた瞬間――。
勢いよく開いた扉にテーナは押され、よろめきながらも声を上げようとして口を塞がれた。
『テーナ!』
リリスは急ぎ近寄ろうとしたが、体が重くて動かない。
体から力が抜けたようにずるりと倒れるテーナを、メイドの姿をした女性が受け止める。
そのままテーナは抱き上げられ、座っていた椅子に戻されてしまった。
メイドの動きは訓練された者のようだが、リリスにも見覚えがある女性なのだ。
(え? どうして? どういうこと?)
必死に考えるのだが、頭がうまく働かない。
そのままメイドはベッドに足音を立てずに歩み寄ると、手に持った布で眠っているリリスの口を塞いだ。
リリスは抵抗することなく眠り続ける。
どうにかリリスがテーナに近づくと、呼吸をしているのがわかりほっと胸を撫で下ろした。
その間にメイドはリリスを薄手の上掛けでくるんで抱き上げる。
『ちょっと! 乱暴にしないで! お腹の子に何かあったら――!』
メイドに抗議したリリスは、はっとお腹に手を当て見下ろした。
夢の中の自分のお腹は膨らんでいない。
ただ不思議とお腹の子の鼓動は感じられ、リリスは大きく安堵の息を吐いた。
(よかった……)
涙が込み上げてきたが、実際に流れることはない。
メイドは開いたままの扉からジェスアルドの寝室に入り、シーツを運ぶカートにリリスを乗せ、その上にぐしゃぐしゃのシーツをかぶせた。
どうやらシーツ交換に見せかけて入り込んだらしいが、ジェスアルドの寝室は従僕のデニスしか入れないはずである。
それでもシーツを運ぶくらいはメイドがするのかもしれない。
(デニスはどこに……?)
居間や控室などを捜したが見当たらない。
ジェスアルドの部屋から離れることはそうそうないはずなのにと考えているうちに、メイドはカートを押して部屋から出ていった。
衛兵に軽く会釈をしてそのまま廊下を進む。
『止めて! あのカートに私が乗っているの!』
リリスが衛兵に必死に訴えても当然伝わらない。
どうすればいいのかわからずパニックになったリリスは自分を抱きしめ叫んだ。
『ジェド、助けて!』
しかし、無情にも現実夢はそこで途切れてしまったのだった。




