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「……暴動?」
言葉としては知っているが、実際に初めて耳にしたリリスは、意味が呑み込めずただ繰り返した。
何か言わなければと、せめて何か考えなければと思うのだが、様々な単語だけがぐるぐると頭の中を回るだけ。
それでも心配そうなジェスアルドを目にして、しっかりしなければと気持ちを立て直した。
「怪我人は……被害はどれほどなのですか?」
「幸いすぐに鎮圧したので街に被害はないようだ。ただ警備兵には負傷者が出ている。また暴動を起こした者たちにも」
「……原因は?」
声が震えそうになるのを必死に抑え、リリスは問いかけた。
そんなリリスを励ますように、ジェスアルドは握った手にかすかに力を入れる。
「奉仕院から退院させられた者、希望した焼き物の仕事に加われなかった者たちが不満を爆発させた――となっているが、実際のところはただの難癖だ。やつらは働く気もないのにトイセンで楽に暮らせると集まってきただけの破落戸だ」
「ですが……」
「リリス、気にするなというのは無理だと思うが、本当に気に病む必要はない。やつらに関しては前もって情報を得ていた。奉仕院の責任者であるヘルゲからも報告を受けている。予想より早く行動を起こされたのは確かに痛いが、どうにか対応することもできた。問題は今回の出来事がもうすでに広まり始めていることだ」
「まさか……」
詳しい話を聞いていたリリスははっと息を呑んだ。
今回の暴動はリリスの発案した事業に原因があると、落ち込みかけていたが、それも吹き飛ぶほどの衝撃だった。
そんなリリスの考えを肯定するように、ジェスアルドは頷く。
「今回、裏で糸を引いているのはフォンタエ王国だろう。そしてもちろん協力者がいる」
帝国の北西に位置するトイセン、南東の元ルータス王国の地。
この両極にある二つの土地から同時に流れる不穏な噂はすぐに国中に蔓延るだろう。
また多くの兵の投入は、安堵とともに不安を煽る。
「これはまだ極秘だが、フォンタエは戦の準備を進めているらしい。ただ単に脅しなのか本気なのかは調査中だが、どちらにしろ民は動揺するだろうな」
「もし、フォンタエが……たとえばマチヌカンに侵攻したとすれば、どうなるのですか?」
北西地域と南東地域に兵力を分散している今、北東地域と隣接する商業都市マチヌカンへ力を割けるのだろうかと、リリスは心配になっていた。
そもそもマチヌカンは独立都市であり、本来は干渉するべきではない。
ただし要請があれば同盟国として支援することはできる。
だがそれも、国内情勢が不安定な現状ではエアーラスの民に歓迎されないだろう。
「マチヌカンについてはこれからの交渉次第としか言えない。今現在同盟関係にあるとはいえ、なかには反エアーラスの者たちもいるからな。彼らの主張としては、マチヌカンはエアーラスの同盟国ではなく、支配下にあるのだそうだ。そんな彼らがフォンタエに与するのか反発するのかで我々の動きも変わる」
「そうですか……」
「リリス、今回の件は噂ではなく先に私の口から話しておきたかったんだが、心配事ばかりですまない」
「ありがとうございます、殿下。ですが、私に謝罪は必要はありません。私は殿下を信じていますから」
今度はリリスが励ますように笑えば、ジェスアルドも柔らかく微笑んだ。
この笑顔を皆が目にしたならきっと〝紅の死神〟などといった馬鹿げた二つ名も消えるだろう。
「……むしろ天使」
「うん?」
「い、いえ。何でもないです」
「そうか?」
思わず呟いてしまったリリスだったが、ジェスアルドに聞こえなくて幸いだった。
今はさすがにそれどころではない。
ただ心の中で〝暁の天使〟もいいなと思ったことは内緒である。
それからしばらくしてジェスアルドが執務に戻ると、リリスは先ほどの話をテーナやレセに伝えた。
おそらくすぐに皇宮内にも広がるだろうが、心配する必要はないと。
その後はテーナもレセもどんな噂を耳にしても余裕を見せていたために、皇宮内の皆も安心したらしい。
皇太子妃の侍女である二人が落ち着いているのだから大丈夫なのだろうと、やがて国内情勢を不安視する声は小さくなっていったのだった。
* * *
そうして季節は移り、桶に張った水が毎朝凍るようになった頃――。
リリスは自室の窓から中庭に舞い始めた雪を見ていた。
「今頃フロイトでは雪かきが大変でしょうね……」
「そうですねぇ。このクリアナでは、めったに積もらないそうですから、安心いたしました」
懐かしさに思わず呟いたリリスだったが、テーナの返答には首を傾げた。
「あら、少し寂しくない? 前は好きなだけ雪にダイブできていたのに」
「ですから安心なのでございます。リリス様をお止めする必要がございませんので」
「失礼ね! いくら私だってしないわよ! ……今年は」
何が安心なのかとリリスは問いかけたものの、余計なことまで言ってしまい墓穴を掘ったようだ。
大きく頷いたテーナに反論したリリスの言葉は、結局は反論になっていない。
「そういえば、お部屋にいらっしゃらないと急ぎお探しすると、お城正面の雪かきをなさっていたこともございましたしねぇ」
「ああ、そうでした! いつの間にあのような服装に着替えられたのか、むしろどうやって手に入れられたのかと驚きました」
「あれは……いつも大変そうだなって思っていたから手伝いたかったのよ。でも病弱な私が雪かきなんてさせてもらえないと思って、変装したの」
「病弱でいらっしゃらなくても姫君が雪かきなどと、皆が止めます」
テーナの思い出話はリリスにとっては忘れてほしいことだったのだが、嬉しそうにレセまで加わった。
言い訳めいたことを口にしても、メイドの一人に服を借りたことまでは弁解のしようがない。
ため息交じりのテーナの言葉を聞いて、リリスは誤魔化すようにすっかり大きくなったお腹を撫でた。
「今のは、お母さんの子供の頃の話ですからねー。でもいつか、雪の中に一緒にダイブしましょうねー」
「リリス様……」
胎教にいいのか悪いのかわからない内容にテーナとレセは何も言えなかったが、リリスはぱっと顔を輝かせた。
「今、お腹を蹴ったわ! この子も雪で遊びたいのね!」
「まあ! それは楽しみでございますね」
お腹の子の話になると、テーナもレセも顔を綻ばせた。
出産まであと二ヶ月弱。
妊娠の初期に起きた事件は暗い影を落としはしたが、バーティン公爵邸で働き始めたばかりの下男がフォンタエ王国の密偵だったとわかってからは、ひとまずここまで何事もなく過ごすことができていた。
もちろんその密偵が一種の生贄のような存在であることは関係者の誰もがわかっている。
また小柄なリリスに対してお腹が大きいことなど心配は尽きないが、それでもいつも前向きなリリスに皆が励まされていた。
「陛下はそろそろマチヌカンの議事堂に到着されたかしら」
「そうですねえ……。あちらはフロイトほどではないにしても、積もるそうですが……」
リリスの言葉に答えたテーナとレセも、窓の外を眺めた。
雪はまだ降っているが、地に舞い落ちるたびに儚く消えていく。
フロイトでは今頃はリリスの腰ほどまでに積もっているはずだ。
「雪が酷くないといいわね」
出発時に皇帝一行を見送ったときには馬車だったが、ひょっとして途中で馬そりに乗り換えるのだろうかと考え、大丈夫だろうと結論を出した。
マチヌカン地域の雪はこれから本格的に降るはずで、今なら馬車でも足を取られることはないだろう。
予定ではそのまま春まで滞在して、ゆっくり反エアーラス派を説得していくのだ。
今回、皇帝自ら赴くことには当然の如く反発はあった。
これは交渉ではなく侵略だ、と反対派からの抗議文を無視して強引に推し進めたところは、帝国を築き上げた当時のままである。
己の信念を曲げないことは為政者として偉大ではあるが、ときに暴君となりかねない。
だが皇帝には、昔からの臣下と皇太子であるジェスアルドの忠言に従うだけの度量もあるため、今日の帝国の発展があるのだ。
おそらく春までに反エアーラス派の者たちも皇帝に賛同することになるだろう。
しかし、リリスたちにとって何よりの重大事は一団にコンラードが同行していることだった。
コンラードを交渉の席に着かせることによって、動きを封じるつもりなのだ。
(コンラードが皇宮にいないことはひとまず安心だけど、その後はどうするんだろう……)
結局、コンラードについては何の証拠もないままだった。
しかもポリーの事件以来、リリスにまったく接触しようともしない。
警戒しているためか、されているためかはわからないが、だからといって勘違いだったとはやはり思えなかった。
(こういうときこそ、夢を見ることができればいいのに……)
今までこんなに未来を不安に思うことなどなかった。
だがそれもきっと、リリスにしか守れない存在がいるからこそだろう。
リリスはお腹を優しく撫でながら、雪を落とす鈍色の空を見上げていた。




