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皇太子妃の懐妊の報せは皇宮中を喜びに沸かせたが、同時にポリーの事件は暗い影を落としていた。
まさか皇太子妃付きのメイドが主人に毒を盛り、しかも殺されるなど、あってはならないことである。
いったいなぜこんなことに、と皆が怒りと不安を抱く中、再び噂が広がるようになっていた。
やはりこれは〝紅の死神〟の呪いなのだと。
「――信じられない。ここにきて、またそんな馬鹿げた噂が広がるなんて」
「まあ、これで明らかに噂を扇動している者がいると確かになりましたな」
「そうだけど……。でも普通に考えておかしいと思うでしょう? ポリーは誰か人の手によって殺されたのよ? それに、自分の子に害を為すような呪いなんてあるわけないじゃない」
フレドリックと話をしているうちに怒りを抑えられなくなったリリスは、吐き出すように呟いた。
あの事件から五日――皇太子妃懐妊と事件の公表から四日経った今、初めのショックが治まった皆は好きなように噂を始めているらしい。
最近は好意的な噂も流れるようになっていただけに、ジェスアルドに余計な痛手を与えてしまっているのではないかとリリスは悔しかった。
今回の事件はリリスたちだけでなく、多くの人たちに混乱をもたらしている。
ポリーの家族もそうだ。
真実を知らせれば悲しみとともに大きな衝撃を与えることは予想ができたが、だからといって嘘で誤魔化すことはできない。
そう考えて公表しようとしたリリスは、甘かったことを痛感した。
ポリーは未遂とはいえ、皇太子妃であるリリスに毒を盛ったのだからその罪は家族にまで及ぶ、とジェスアルドに告げられたのだ。
皇族の命を脅かした代償は大きいと世に周知させるためにも、厳しい処罰が必要になる。
最悪の場合は処刑されるだろうと教えられ、驚いたリリスは処罰の軽減を求めた。
どうやらジェスアルドは、リリスの反応を見越していたらしい。
結局は皇宮の事務官だったポリーの父親や兄、そして母親は名前を変え、辺境の地へと監視付きで送られることになった。
その手配に時間がかかると思われたが、アレッジオは一日で片付けてしまい、事件発覚の次の日には公表に至ったのである。
ただ、ポリーの家族は真実を知らされ、逃げるよりも償うことを求めたために、妃殿下の望みなのだとの説得が必要だったそうだ。
「ポリーのご家族は、無事に旅を続けているそうだけど……きちんと葬儀もできなかったんだもの。無念でしょうね……」
「リリス様。確かにポリーの家族には同情しますが、あまり肩入れされてはなりませんぞ。殿下もリリス様のお気持ちを優先してくださったからこそのご恩情であり、本来あってはならぬことなのですから」
「ええ、わかっているわ。たとえどんなに理不尽でも、国を――皇家を維持するためには必要なことはたくさんあるもの。だから心配しないで。ポリーのことは残念だけれど、怒ってもいるのよ。この子の命が脅かされたんだもの」
リリスはふっと息を吐いて、お腹を守るように両手を添えた。
罪を犯していない家族にまで重すぎる処罰が下るのは心苦しく、リリスはジェスアルドの心遣いに感謝していた。
だが、ポリーが騙され利用されてしまったことは気の毒ではあるが、だからといって全てを許せるわけではない。
お腹の子を一番に守れるのはリリスなのだ。
もちろん親しくしていたポリーが殺されてしまったことは悲しいが、裏切られた気持ちも大きかった。
「私……強くなるわ」
「リリス様は今でも十分お強いですぞ。リリス様の前向きさ、明るさは伝染いたしますからな。皆が将来に希望を抱き、明るく笑うことができます。ですから、信望者も多い」
「それは忠告してくれているの?」
「ふむ。余計なことかもしれませんが、マリスや奉仕院の事業に携わられたことで、リリス様の人気は高まるばかりです。それはリリス様の強みになりますが、強すぎる力はときに持て余してしまいますゆえ」
「余計なんかじゃないわ。ありがとう、フウ先生。心に刻んでおくわね」
あっさりしたやり取りだったが、その実は真剣だった。
ポリーの家族は表向き投獄されていることになっているのだが、その処遇について批判する者がいないどころか、妃殿下の御心の安寧のためにと処刑を求める者までいるそうなのだ。
もちろん、そんなことを妃殿下は望まれないとの声もある。
しかし、ポリーの実家は石が投げ込まれるなどの被害が相次ぎ、今は警備の者が交代で見張っているらしい。
甘いと言われるかもしれないが、やはりポリーの家族を先に辺境へ送ってよかったと、リリスは安堵の息を吐いて立ち上がった。
そろそろ時間だろう。
ちょうどそこにレセがやってきて、ジェスアルドの来訪が告げられる。
リリスは気持ちを切り替えて喜びに顔を輝かせた。
今日はいよいよ模様替えの終わった部屋へ戻るのだ。
「リリス、大丈夫か?」
「はい、殿下。ばっちりです!」
「……そうか」
明るく答えたリリスに、ジェスアルドもかすかに笑って頷いた。
フレドリックやテーナは一歩下がって二人を温かく見守っている。
この五日間、リリスはショックを受けて寝込んでいたことになっているが、久しぶりに部屋から出てジェスアルドと仲睦まじく元気な姿を見せれば、馬鹿げた噂も少しは収まるだろう。
「では、行こうか?」
「はい」
ジェスアルドの腕に手を添えてリリスが部屋の外へ出ると、必要以上に多い護衛と皇太子妃を一目見ようと集まっている人たちで廊下は溢れていた。
さすがにリリスも多くの人が遠巻きながらいることに目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべて手を振る。
途端に、わっと歓声が沸いた。
「殿下……」
「どうした?」
リリスが小声で呼びかければ、ジェスアルドが心配して急ぎ耳を寄せてくる。
そこでリリスは内緒話をするように口を片手で覆い、ぽつりと囁いた。
「好き」
「――っ!?」
驚いたジェスアルドは勢いよく顔を上げ、信じられないとばかりにリリスを見た。
その顔はかすかに赤い。
傍目にはあまり変化の見られないジェスアルドを残念に思いながら、リリスはにっこり笑った。
「……からかったのか?」
「もちろん本気ですよ。でも、これで仲の良さを見せつけることができましたね」
リリスの返答に、ジェスアルドは一瞬言葉を失い、次いで噴き出した。
その姿は遠巻きにしていた人たちにもさすがに見えたらしく、どよめきが広がる。
ジェスアルドの腕に手を添えて歩きながら、リリスは満足げに微笑んだ。
「今日はこのくらいで勘弁してあげましょう」
自室に到着したところでリリスが小さく宣言すると、ジェスアルドは再び噴き出した。
「殿下、もう笑わなくても大丈夫ですよ?」
「……そうだな」
部屋に入ってもまだ笑うジェスアルドに、リリスは首を傾げた。
これから重要な話をしなければならないのだからと、ジェスアルドは咳払いをして緩む頬を引き締める。
そんなやり取りを部屋に待機していたアレッジオはニヤニヤしながら見ていた。
「アレッジオ、顔が緩んでいるぞ」
「おや、失礼」
「今回も色々とありがとう、アレッジオ」
「いえいえ、妃殿下にそのようにおっしゃっていただけるなど、恐縮です」
ジェスアルドの言葉にはしれっと答えたアレッジオも、リリスには目尻を下げて答えた。
その様子にジェスアルドは顔をしかめたが、幸いにしてこの場にはそれぐらいで恐れる者はいない。
リリスは希望通りに模様替えの終わった室内をさっと見回すと、新しく運び込まれたソファを皆に勧め、自らも腰を下ろした。
「それで、何か大切なお話があるのですね?」
「――ああ」
話があるとリリスに前もって伝えていたわけではないので、ジェスアルドはあっさり促されたことに驚きながらも頷いた。
そしてここ五日でわかったことについて、リリスに説明を始めた。




