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どこかでぼそぼそと低い話し声が聞こえてくる。
はっと意識を取り戻したリリスは、自分が真っ暗な闇の中いることに気付いた。
そこでこれが夢なのだと――現実夢だと理解して冷静になる。
何かに閉じ込められているわけではないが、ここはあまり好ましい場所ではないようだ。
(とりあえずこの場所と誰がいるのか確認しないと……)
そう考えてリリスは声のするほうへふわりふわりと向かうのだが、なかなか近づけない。
それどころかどんどん離れていくようで、気持ちばかりが焦って追いつくことができなかった。
(ああ、もう! 夢ってこういうところが不便よね……)
望む場所へ瞬時に移動することもできれば、思うように動くことができないときもある。
リリスは苛々する気持ちを抑え、自分がなぜ今このような夢を見ているのかと考えた。
(ひょっとして、ポリーに関係しているんじゃ……)
眠る前の出来事を思い出したリリスは、話し声の一人がポリーかもしれないと確かめたくて、さらに急ごうとした。
しかし、足を前に動かしてもゆっくりとしか進まない。
ただ水の音がかすかに聞こえることから、近くに川か何かが流れていることだけはわかった。
(声だけでも聞こえればいいんだけど……)
先ほどの話し声もすでに聞こえず、本当にこのまま進んでもいいのだろうかと不安になったリリスだったが、ぼんやりとした明かりが見えたことでひとまず安堵した。
そして徐々に明かりに近づいていくと、暗闇の中に浮かび上がる二つのシルエットの一人がポリーだとわかる。
ポリーは誰かと話しているようだが、もう一人は陰になっていてよく見えない。
(あともう少し……)
リリスが動かない足を前へ前へと進めてようやく追いつけると思った瞬間、ナイフがきらりと光に反射して、リリスは悲鳴に近い声を上げた。
「ポリー!」
反射的に飛び起きたリリスは、激しく息を切らしていた。
目を閉じても今見た光景は消えない。
「……リリス?」
膝を抱え、目を閉じたリリスの耳に聞こえたのは、囁くようなジェスアルドの声。
はっと顔を上げたリリスは、心配して気遣うジェスアルドがすぐ傍にいることに気付いた。
ジェスアルドはリリスの異変を感じてすでに起きていたらしい。
「ジェド……」
起こしてしまった謝罪も何もかも飛ばして、リリスはジェスアルドに抱きついた。
ジェスアルトはそんなリリスを優しく抱きとめる。
「ポリーが、ポリーが……」
「リリス、つらいなら言う必要はない。忘れてしまえばいいんだ」
見た夢の内容を泣きながら訴えるリリスを、ジェスアルドは抱きしめて宥めるように背中を撫でた。
それでも伝えなければ、とリリスは続けようとした。
「でも、ポリーが……」
「まだ……生きていたのか?」
「……わ、わかりません。ですがナイフで刺されて……川に……いえ、用水路かもしれませんが、流れのある水の中に落とされてしまったようです」
「そうか……。つらいな、リリス。見たくもないものを見せられて……」
徐々に落ち着きを取り戻したリリスの心に、ジェスアルドの優しい言葉が沁みる。
そこでふとジェスアルドの言葉に違和感を覚え、リリスは顔を上げた。
「ジェドは……ポリーが、こ、殺されるかもしれないと……わかっていたんですか?」
「――ああ、口を封じられるだろうとの予想はできた。すまない、リリス」
リリスの流れる涙をジェドはサイドチェストの上にあったタオルで優しく拭いてくれる。
そのことさえリリスは気付いていないようだ。
それだけショックが大きいのだろうと感じたジェスアルドは、思わず謝罪の言葉を口にしていた。
「リリスがフロイトから出ることがなければ、こんな苦労をすることはなかっただろうに、本当にすまない。私と結婚したばかりに――!?」
うなされているリリスを助けることもできない自分への悔しさから出てきたジェスアルドの言葉は、いきなり両頬を挟まれたことによって途切れた。
勢いがよすぎて叩かれたかのような音がするほどで、ジェスアルドが驚き見下ろすと、リリスは緑色の瞳を怒りに煌めかせていた。
「私と結婚したことを後悔しないでください! 私の力のことでジェドが苦しまないでください! じゃないと私、頑張れないです……」
「リリス……」
リリスは強い口調で訴えたものの、すぐに力をなくしていく。
ジェスアルドはリリスまで消えてしまいそうで思わず抱きしめた腕に力を入れ、はっと気づいてすぐに力を緩めた。
異変はないかと慌ててリリスを窺うが、幸いなことに無事らしい。
ほっと安堵したジェスアルドは、もう謝罪を口にするのはやめにして今の気持ちを素直に言葉にした。
「私はリリスと結婚したことで後悔はしない。ただ無力な自分が悔しかったんだ。だからどうか、リリスは頑張らないでくれ。自分のことを一番に考えて、無理をしないでほしい」
「じゃあ……頑張らないように頑張ります」
ジェスアルドの言葉に答えたリリスにいつもの元気はない。
腕の中を見下ろせば、赤くなった目をこすっていた。
現実夢を見たあとは酷く疲れると聞いていたジェスアルドは、リリスの手を摑むと自身の大きな手でリリスの両目を覆った。
「……ジェド?」
「リリス、まだ夜も明けていない時間だ。もう一度眠ったほうがいい」
「ですが――」
「何も心配はいらない。大丈夫だ、リリス」
「……はい」
片手でリリスの目を覆ったまま、もう一方の手で体を支えて横たわる。
リリスは抵抗することなく素直に横になると、ジェスアルドの手に手を重ねた。
「ジェドの手は大きくて温かくて、すごく安心できます。だから、真っ暗でも怖くありません」
「そうか……」
ここまで自分に信頼を寄せてくれるリリスが愛おしくて、ジェスアルドはまともな言葉を返すことはできなかった。
ただ胸が締め付けられるような痛みにぐっと歯を食いしばる。
しかし、リリスはもう眠ってしまったのか、重ねられていた手から力が抜け、小さく寝息を立て始めた。
リリスの目を覆っていた手をそっと離したジェスアルドは、しばらく穏やかな寝顔を見つめていたが、静かにベッドから抜け出すとリリス側の居間へ向かった。
そこには予想どおり、すでにテーナが控えていた。
「いつもこんなに早いのか?」
「いいえ、殿下。昨晩のリリス様はとても大きなショックを受けていらっしゃいましたので、レセと交代で控えておりました」
「きついな」
ジェスアルドの問いに、挨拶をすることもなくテーナは粛々と答えた。
しかし、続いたジェスアルドの呟きには目を瞬く。
「目の前で苦しんでいるというのに、何もできない。ただ見ていることしかできないなど」
「……」
ジェスアルドの真意を聞いて、テーナは何も言わず深く頭を下げた。
テーナ自身、何度も何度も悔しい思いをしてきたことなのだ。
それをこうしてリリスの夫となったジェスアルドが理解し、同じ気持ちでいてくれる。
テーナにとって、それは大きな喜びでもあった。
「すまないが、私はしばらく離れるので、その間リリスについていてくれないか?」
「――かしこまりました」
寝室へ振り返りながら言うジェスアルドは、本当ならば少しでもリリスから目を離したくはないのだろう。
それでも優先させなければならないことはある。
テーナにとってリリスに付き添うことは言われるまでもなく当然ではあったが、ジェスアルドの気遣いに感動さえ覚えていた。
だが態度に出すことはなく寝室に入ると、一度リリスの様子を窺ってから自室に戻るジェスアルドを、再度頭を下げて見送ったのだった。




