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 最近ではとっくに眠っている時間になっても、リリスは長椅子に座ったままジェスアルドを待っていた。

 いつもなら眠くて我慢できないはずだが、興奮しているために眠くならないのだ。

 早くジェスアルドに妊娠したかもしれないことを伝えたい。

 そのことばかりに気を取られているリリスは、読もうと思って開いた本を一頁もめくることなく座っていた。


 もちろん体が冷えないように夜衣の上にローブを着て、足元には膝掛をかけている。

 季節はまだ夏なのだが、夜はずいぶん涼しくなってきていた。

 テーナやレセたちと計算した結果、もし本当に妊娠していれば、生まれるのは次の春先だろう。


(お裁縫は苦手だから、産着を縫うのは無理だけど、春先なら寒い日もあるだろうし、上掛けや帽子を編むのもいいわよね……)


 幸せ気分でリリスが色々妄想していると扉が静かに開き、ジェスアルドが入ってきた。

 途端にリリスは顔を輝かせ、ジェスアルドは目を見開く。

 リリスがまだ起きていたことに驚いたらしい。


「ジェド!」

「リリス、まだ起きていて大丈夫なのか?」


 最近は日中でも部屋から出ることなく、夜もぐっすり眠っているリリスのことを心配していたジェスアルドは、リリスの様子を窺いながら問いかけた。

 リリスはジェスアルドに心配かけていたことを申し訳なく思いながらも、立ち上がってジェスアルドにそっと抱きついた。

 これから伝える嬉しい知らせのことを考えると、つい顔がにやけてしまう。


「ジェド、心配をかけてしまって申し訳ありませんでした。でも大丈夫です。ここのところ、いつも以上に眠かったのは病気ではなくて……。私、妊娠したみたいです!」


 リリスは満面の笑みを浮かべて、ジェスアルドの反応を待った。

 ジェスアルドはリリスの衝撃発言に呆然としている。

 これは予想の範囲内であり、きっと次に喜びの言葉をくれるか笑ってくれるとリリスは思っていた。

 しかし――。


「私の子なのか?」


 はっと息を呑んだのは発言した本人で、リリスは笑みを消してジェスアルドからぱっと離れた。

 ジェスアルドが自分の失言に気付いたときには、もう手遅れだったのだ。


「リリス――っ」

「ジェドの馬鹿ー!」


 リリスからの罵声とともに、飛んできたのは右手。

 避けようと思えば避けられたが、ジェスアルドは甘んじてその右手を左頬に受けた。

 ぱしんっと乾いた音が響き、耳の奥がじんと痛んでほんの一瞬めまいがしたかと思うと、次にリリスの左拳が腹へと突き刺ささる。

 リリスの小さな拳ではまさしく突き刺さると表現するべきで、これも本当は避けられたのだが、ジェスアルドはまともに受け止めた。


 この小さな体のどこにそんな力があったのかと思うほどには威力がある。

 しかも平手打ちだけではなく、二段構えで怒りをぶつけてくるところがリリスらしい。

 そんなどうでもいいことを考えていたジェスアルドだが、怒りを込めて睨みつけてくるリリスの緑色の瞳が涙で濡れていることに気付いて我に返った。


 自分がどれだけ最低な発言をしたのか、どれだけリリスを傷つけてしまったのか、取り消してしまうことはできない。

 ジェスアルドはどうすれば償うことができるのかもわからないままに、小さく震えるリリスを抱き寄せた。


「すまない、リリス。本当にすまない。リリスが妊娠しているのなら、もちろん私の子だ。絶対に、間違いなく、私の子なんだ」

「じゃあ、どうして……」

「リリスを疑ったわけではない。言い訳にもならないが、驚きのあまり気がつけば最低なことを口にしていた」


 ジェスアルドはなぜ自分があのように馬鹿な失言をしてしまったのかはわかっていた。

 妊娠と聞いて、過去の忌まわしい記憶がよみがえってしまったのだ。

 自分の愚かさでリリスを傷つけ悲しませてしまったのだから、きちんと説明しなければならない。

 今まで逃げていた過去と向き合うことになっても、これ以上リリスに隠しておくのは卑怯だろう。

 そう決意したジェスアルドは優しくリリスを抱き上げ、長椅子にそっと座らせた。

 そして、落ちていた膝掛を拾い上げて、リリスの膝にかける。


「……ジェド?」


 そのままジェスアルドはリリスの足元に膝をつくとリリスの手を取り、怪我をしていないか調べ始めた。

 幸いにして、リリスの両手も手首も異常はないようだ。

 ほっと安堵したジェスアルドは、不安そうに揺れる緑色の瞳を見上げた。


「リリス、私はリリスが妊娠しているのなら、とても嬉しい。リリスと一緒にこの喜びを分かち合いたい」

「ほ、本当に?」

「当然だ。だが私の先ほどの発言は許せるものではない。もちろん許してほしいとも思わない。それでも……まだ私が傍にいてもいいだろうか?」

「もちろんです! だ、だって、人間って驚くと、思ってもいないことを口にしたりしますよね? だから……ジェドが喜んでくれると嬉しいです。傍にいてほしいです……」


 ジェスアルドの苦しげな問いかけに、リリスはすぐさま笑顔になって答えた。

 しかし、その笑みも声も次第に頼りなくなっていく。

 今の自分にそんな資格はないと思いつつも、ジェスアルドはリリスの隣に座って力を入れないように抱きしめた。

 すると、リリスはジェスアルドの背中に腕を回してぎゅっとしがみつく。


「リリス、体はきつくないか? 無理をせずに休んだほうがいいなら、遠慮せずに言ってくれ」

「大丈夫です。ジェドはとっても温かくて、安心できて、大好きですから!」


 大丈夫の根拠に〝大好き〟は当てはまらないと思ったが、ジェスアルドは何も言わずにリリスを抱きしめる腕に少しだけ力を加えた。

 こうして抱き合えば、温かくて安心できるのは自分のほうだ。

 あれほどに最低な言葉を発した自分に対しても、これほどの優しさをくれるリリスに、ジェスアルドは大好きなどという言葉では足りないほどの愛を抱いていた。


「なるべく早く信頼できる産婆に診てもらおう。それから警備をさらに強化して、子供部屋も用意して、乳母も探さなければならないな。他には何が必要だろうか?」

「……ジェド、そんなに急がなくても大丈夫ですよ。本当に妊娠しているのか、それは早く確認してもらいたいですけど……。警備は十分ですし、子供部屋候補はたくさんありますし、乳母に関しては……また話し合いましょう」


 喜びと焦りの交じったジェスアルドの言葉に、リリスはくすくす笑いながら答えた。 

 ジェスアルドはこの笑い声を聞いているだけで、幸せな気分になれるのだ。

 だから、できればこのまま幸せに浸っていたかった。

 自分が犯したあの過ちを告白すれば、もう二度とこの笑い声は聞けなくなるかもしれないのだから。

 それでも、打ち明けなければならない。

 ジェスアルドは怯みそうになる弱い自分をどうにか抑えつけた。


「リリス……」

「はい?」

「もし本当に、体に無理がないようなら、話しておきたいことがある」

「何でしょう?」

「この喜びに水を差すようだが……コリーナのことだ」


 リリスはジェスアルドの口からコリーナの名前を聞いて、体をこわばらせた。

 その気配を察したのかジェスアルドがためらいを見せる。

 そこでリリスは勇気を出すためにすっと息を吸った。

 聞きたいが、聞きたくない。

 そんな気持ちを押しのけて、リリスは顔を上げて微笑んだ。


「聞かせてください。ジェドがかまわないのなら……私は聞きたいです」




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