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「ジェド、今日もお疲れ様でした!」
「ああ……」
ジェスアルドはリリスの寝室に入るなり、元気よく労いの言葉をかけられて微笑んだ。
確かにいつもより多くの仕事をこなしたので、少しの疲れはある。
だがリリスにこうして迎えられると、不思議と疲れが消えていくのだ。
それよりも、リリスのほうが疲れているのではないかと心配になった。
「リリスも疲れただろう?」
「そうでもないですよ? お昼寝をたっぷりしましたから」
「ならいいが……」
リリスはいそいそと飲み物を用意してくれている。
おそらく何かの効果がある怪しげなお茶だろう。
酒類は晩餐会で飲んだので、気を利かせてくれているらしい。
ジェスアルドはリリスからカップを受け取ると、長椅子に並んで座り、よくわからないお茶を一口飲んだ。
それから、そっとカップを置いてリリスをじっと見つめる。
「……どうかしましたか?」
「今晩、アルノー・ボットに対して無理に笑っていなかったか? 何かあったのではないかと思ったのだが、あまりに席が遠すぎた」
リリスはジェスアルドの言葉を聞いて驚いた。
あれだけ席が遠かったのに、微妙なリリスの笑顔に気付いてくれたのだ。
それであの時、目を細めていたのかと理解する。
要するにリリスを心配してくれていたのだろう。
「ジェドは今日のお昼、アルノーと話をしたんですよね?」
「――ああ。いくつかの報告を受け、フォンタエ王国に対する懸案事項について話し合った」
「では、使節団の代表としてのアルノーをどう評価されますか?」
「そうだな……簡単に言えば、有能だが未熟といったところか……。頭の回転も速く、自国に対する忠誠心も篤く、熱意もある。ただ少々……」
「頑固? 融通が利かない? 理想が高すぎる?」
言い淀んだジェスアルドの言葉を、リリスは補った。
すると、ジェスアルドは驚いたようだったが、次いで笑い始める。
「容赦ないな」
「私が今晩、アルノーと接していて受けた印象ですから。以前はもっとユーモアがあって楽しい人だったんですけどね……」
「……それで、あの作り笑いだったのか?」
リリスが困ったようにため息を吐くと、ジェスアルドが苦笑交じりに問いかける。
ジェスアルドに隠すべきことでもないと判断して、リリスはダリアとのことを話した。
簡単な説明だったが、ジェスアルドはすぐに全てを察したようだ。
「なるほどな。それで彼にはどこか焦りが感じられたのか。だがそれもオラス殿が上手く抑え、さり気なく助けていたので、特に問題もなく話し合いは進められた。彼もそんなオラス殿に反感を持つでもなく、年長者として立てているように見えたな。だから我々としては、アルノー・ボットが代表であることも、使節団の他の者たちが比較的若いことも、全て後進の育成を兼ねているのだと判断し、受け入れている。今後もフロイト王国との同盟を続けるために必要なことだからな。マチヌカンではフォンタエ王国の者たちと相対する機会もあると思えば、その前に友好国である我が国で弁舌の仕方をある程度学び、慣れたほうがよいだろう」
ジェスアルドの言葉に、リリスは安堵するとともに深く感謝した。
同時に、帝国の狡猾さに気付く。
これほどの寛大さが弱小国へ恩義を抱かせ、忠誠心を抱かせるのだろうとリリスは感心しながら、自分の見解を述べた。
「私、ダリアのことでアルノーを励まそうかと思ったんですが、私が口を挟む問題ではないと気付いてやめました。使節団の代表として悪影響を及ぼしているのなら必要かもしれませんが、オラスたちがいるので大丈夫だと判断したんです。どうやら正解だったようですね」
にっこり笑うリリスを目にしたジェスアルドは、一番に油断ならない人物が誰かを悟った。
本当にリリスが味方でよかったと思う。
「アルノーの私情は抜きにしても、エアーラス帝国の方たちにフロイトのことをご理解いただいて助かります。フロイト王国は今までどちらかというと閉鎖的で受け身だったので、こうして積極的に外交に出ることがなかったんです。本当に何から何まで、ありがとうございます」
「……それは我が国にとっても利があってのことだから、リリスが気にする必要はない。ただ……本当に妹姫のことは大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。ダリアは思い込んだら突っ走ってしまう悪い癖があるんですけど、周囲の助言にはきちんと耳を傾けますし、しばらく会えないことで冷静になると思います」
「そうか……」
やはり姉妹は似るのだなと思ったことを、ジェスアルドは賢明にも口にしなかった。
そんなジェスアルドに気付いた様子もなく、リリスは続ける。
「アルノーは初恋の相手だと以前お伝えしましたが、今はもう弟のような感覚でした。やはり妹の――ダリアの婚約者だと思うからですかね? 年上なのに不思議です」
「私には兄弟がいないから、そのあたりのことはよくわからないな……。そもそも、先ほどは彼のことを偉そうに評したが、本当は私が言える立場でもない。私もまだまだ若造だからな」
「ジェドでもそう思うんですか?」
「それは当然だ。父上やアレッジオ、他の大臣たちと話していると己の未熟さを痛感してしまう。今回、オラス殿と話していても色々と勉強になった。きっとフレドリック殿にも未熟者として見られているのだろうな」
「未熟者でいうなら、私も負けませんよ。私なんてまだ卵から孵ってもいない、ひよっこ未満なんですから」
なぜか胸を張って未熟者自慢をするリリスに、ジェスアルドは笑った。
オラスもセザールも、そしてフレドリックも、ジェスアルドに対してはかなり厳しい視線を向けてくる。
それだけリリスは皆に愛され、大切にされているのだ。
もちろんそれもリリスを知った今では当然だと思えた。
それなのに、ジェスアルドの許へ嫁ぐことを許してくれたフロイト国王をはじめとした王国の者たちには感謝しかない。
エアム王子には、あの時の態度を謝罪しなければならないなと考えていたジェスアルドの耳に、リリスの明るい声が聞こえた。
「そういえば、今日は晩餐会の前に料理人のセブに久しぶりに会って、すごく嬉しい知らせも聞きました。ジェド、セブがこの皇宮に残ることを許してくださって、ありがとうございます!」
「いや、むしろ礼を言うのはこちらだろう。彼はまだ若いのに〝フロイトの謎〟の一部である料理の調理法を全て習得しているそうだな。しかもまだ発表されていない、リリス発案の新しい料理の調理法まで習得していると聞いた。本当に、ドレアム国王の懐の深さには頭の下がる思いだ」
リリスの秘密をジェスアルドや皇帝が知った今、料理人の中にも秘密を知る者は必要だったが、かなり厳選しなければならなかった。
口が堅く、柔軟性があり、経験のある者。
それらの問題は、セブが派遣されてくることによって解決されたのだ。
本来なら国外に出すなど考えられないほどの重要人物であるにもかかわらず。
「〝プリン〟のことを言っているのなら、私の発案ではなく、やっぱり夢で見たものなのですけどね。他のお料理と同じように。それをセブの師匠であるジェフがちゃんと形にしてくれたからこそ、今のフロイトの発展があるんです。あと、セブのことなんですけど……」
「何かあるのか?」
いつもの如く謙遜したリリスは、セブについて何か言おうとしてためらった。
ジェスアルドはアルノーからセブを紹介されたときに、若いことに驚きはしたが、まだ他に何かあるのかと訝しんだ。
ちょっとした嫉妬まで湧いてくる。
ところが、リリスからは予想外の言葉が返ってきた。
「いえ、何かあるわけではないのですが……。セブは若く見えますが、今年で三十歳になるんです」
「……私より年上なのか?」
「はい。でも私よりも若く見えますよね?」
「そう、かもな……」
女性の年齢については微妙な話題だと、さすがのジェスアルドも知っていたので、返事にためらいが出てしまったが、リリスに気にした様子は見られないのでほっとする。
それでも、まさかあの料理人が自分より年上ということには、ジェスアルドも驚いていた。
考えてみれば、さすがにフロイト王も十代の若者にそこまでの重要機密を託すわけはないかと納得する。
「わかってはいたが、やはり人を見かけで判断してはいけないな」
「その意見には本当に同感です」
「リリスは、見かけで判断することはないのだろうな」
「え? ありますよ? 無責任な噂では判断しないようにしていますけど」
「だが、私を目にしても怯えることはなかったのだろう?」
ブルーメの街で初めて顔を合せたときのリリスの反応は、淑女らしくするためで怯えていたわけではないと、ジェスアルドは後に聞いていた。
そのため、自嘲ぎみに呟いた自分の言葉にリリスが力強く同意したのも当然だと思ったのだが違うらしい。
「だって、ジェドはかっこいいじゃないですか。だからこそ、私はこの結婚をただの政略としてではなく、本物にしたいと気合を入れたんです。それでどうやったらジェドを落とせるか、色々と本を読んで、小悪魔になる方法などを勉強したのですが、ちっとも効果はありませんでした」
「……すまなかった」
「謝罪はいらないですよ。ジェドが警戒するのは仕方ないですし、やっぱり下手な小細工をするよりも、正直に体当たり勝負するのが一番だとわかりましたから」
「……」
ジェスアルドはリリスの言葉のどこに突っ込めばいいのか、もはやわからなかった。
ただ、少し前まで嫉妬を感じていたアルノーに対して、今は同情してしまっている。
妹姫がどれだけリリスに似ているのかは判断できないが、自分と同じように、きっとアルノーは振り回されているのだろう。
だがそれもまた幸せであることは間違いない。
小さな体で大きな幸せを与えてくれるリリスを抱き上げて、ジェスアルドはベッドへ向かったのだった。




