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結局、ダリアからの手紙の返事が届かないままに、いよいよフロイト王国から使節団が訪れる日がやって来てしまった。
最初に行われる皇帝への謁見には、リリスも皇太子妃として臨席することになっており、珍しくリリスは緊張していた。
皇太子妃として正式に公の場に出るのは、結婚式後に行われた祝宴以来である。
「リリス様、ご心配には及びませんわ。バーティン公爵夫人をはじめとした夫人方をお味方につけていらっしゃるのですもの。いつものように猫をかぶってくだされば上手くやり過ごせます」
「さようでございますとも。リリス様は政務官の方たちはもちろん、下働きの者たちにまで人気がおありですからね。リリス様のお陰で、皇太子殿下から呪いが発散されなくなったと」
「ちょっと、何それ? 呪いが発散って……」
「リリス様、お顔をしかめられてはお化粧が崩れてしまいます」
テーナもレセも緊張を解そうとしてくれるのはありがたいが、内容が酷い。
思わず突っ込んだリリスに、テーナがしれっと注意してくるので慌てて表情を戻す。
猫をかぶるのはいつものことなのでいいとして、呪いの発散とはいったいどんなものかと、噂する者たちを問い詰めたい。
しかし、今はそれどころではなかった。
「だって、緊張しないでいられる? もうすぐ来るのよ、あの人たちが。皇太子妃なんて柄じゃないのに、絶対に笑われるわ」
「確かに、リリス様のご心配もわかります。ですが、あの方たちも、皇帝陛下や皇太子殿下の御前でお笑いになることはないでしょうから、覚悟をお決めになってくださいませ。大丈夫です。笑われるのは、後ほどですから」
「ちっとも慰めになってないわよ、テーナ」
リリスはため息交じりに文句を言って、ドレスがしわにならないようにそっと椅子に腰を下ろした。
初恋相手のアルノーに顔を合せるのも、気まずくないと言えば嘘になる。
ただアルノーの前ではたいていおとなしくしていたので、エアーラス帝国皇太子妃として対面してもそこまで恥ずかしくはない。
問題はオラスとセザールだ。
「あー、嫌だなあ。会いたくないなあ。いっそのこと、病弱設定で――」
「リリス様。そのようなことをなさっては、この国の方々に心配をおかけしてしまうどころか、不安を抱かせてしまいます。何より、長老と将軍にはしっかり見抜かれてしまうでしょうから意味がありません。それ以上に〝逃げた〟と思われかねませんが?」
「あり得ない! 嫌よ、逃げたなんて!」
「はい。では時間のようでございます」
珍しく駄々をこねだしたリリスの言葉を遮り、テーナは優しく諭した。――ようでいて、挑発した。
途端にリリスは負けるもんかとばかりに両手を握り締めて立ち上がる。
そこへちょうど使いの者がやってきたらしい。
上手く乗せられたリリスは、表情を穏やかなものに変え、楚々とした動作でテーナの後に続いた。
レセはその後ろを歩きながら、上手くリリスを扱うテーナに改めて尊敬の念を抱いていた。
今回の使節団の中で、リリスの秘密を知るのは三人――アルノーとオラスとセザールだ。
フロイト王城で働く者たちはテーナのようにオラスを長老と、セザールを将軍と親愛を込めて呼んでいる。
リリスも二人のことは大好きなのだが、生まれた時からこの国に嫁ぐ寸前までの全てのこと――要するに本性を知られているため、正直に言えば恥ずかしいのだ。
リリスの本性――病弱設定に隠れてした様々な悪戯を思い出す。
小さい頃はセザールにお尻を何度もぶたれたし、オラスにはお仕置きとばかりにたくさんの課題を出された。
課題をサボれば、さらに多くの課題が出され、終わるまで軟禁されて。
はっきり言って、両親よりも厳しかった。
しかし、両親と同じように甘かったのも事実だ。
リリスの夢のことを知った二人もまた、子供の戯言と片付けることなく、一緒になって色々と試してくれたのだから。
幼い頃の数々の出来事を思い出したリリスは、自然と微笑んでいた。
恥ずかしい気もするが、やはり二人に会えるのはとても嬉しい。
二人はリリスにとって、本当の祖父のような存在なのだ。
そして謁見の間の控室に入ったリリスは、すでに控えていたジェスアルドを目にして、さらに笑みを深めた。
「殿下、お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「いいや、私も今来たところだ。それに陛下はまだなのだから、心配はいらない」
リリスが部屋に入った途端、控えの間にいた侍従たちはほっとしたようだった。
どうやらジェスアルドの存在に緊張していたらしい。
そして、その後のリリスとジェスアルドの和やかな会話に目を丸くしている。
驚いていないのは、テーナとレセ、ジェスアルド付きの秘書官くらいだろう。
リリスはその様子に相変わらずだなと思いつつ、フリオはどうしたのだろうと問いかけようとして、ジェスアルドに先を越されてしまった。
「それで、何か面白いことでもあったのか?」
「はい?」
「部屋に入ってきたとき、笑っていただろう? 何か来る途中で面白いものでも見たのかと……」
「あ、ええ。単に昔のことを思い出していたんです」
「昔のこと?」
部屋に入ってきたリリスを見た途端、ジェスアルドはすぐにリリスの笑顔に気付いた。
それが皇太子妃としてのものではなく、楽しいときに浮かべるものだと。
それで気になってつい訊いてしまったが、これではまるで独占欲の強い夫のようで、ジェスアルドの質問は最後まで続かなかった。
しかし、リリスは気にした様子もなくにこやかに答える。
それが昔のことと聞いて、ジェスアルドの心は穏やかではいられなかった。
リリスはもうすぐ会えるアルノーのことを言っているのだ。
ところが、いつもの如くリリスの返答は予想を裏切った。
「はい。今回の使節団の一員であるオラスとセザールは……」
リリスは言いかけて、侍従たちの存在を思い出した。
そのため、ジェスアルドに近づき声を潜めて続ける。
「二人も私の秘密を知っているとは、以前お伝えいたしましたが、それ以外のこともたくさん知っているんです」
「それ以外のこと?」
「はい。それはもう、眠り姫とはほど遠い悪戯の数々を」
「そうか……」
リリスが悪戯というからには、本気の悪戯なんだろうなと、ジェスアルドは思いつつ答えた。
そんな会話の聞こえない侍従たちは、先ほど以上に目を丸くし、口をぽかんと開けている。
ぴったりとくっつくようにジェスアルドの隣に立つリリスと、耳を寄せるジェスアルドの姿は、信じていなかった最近の噂通りに思えてしまう。
そして、驚くあまり酷い失態をしてしまった。
皇帝が入ってきたことに気付かなかったのだ。
「ジェス、アマリリス、秘密の話か? ずいぶん仲が良いな」
「……陛下がいらっしゃるまで、少々退屈しておりましたから」
「時間厳守も必要だが、多少は待たせたほうが偉い人物に思えるだろう? しかも忙しい時間を割いてやっていると思わせられる」
「陛下はいい加減に、その残念な発言をお控えください」
皆が皇帝の登場に深く頭を下げるなか、リリスも軽く腰を落として挨拶をしたが、親子の会話には笑わずにはいられなかった。
小さな笑い声に二人の注目がリリスに移る。
「これは失礼した。可愛い娘を放って可愛くない息子と話をするなど、大失態。アマリリス、今日は顔色も良いな」
「はい、おかげさまで。皆様、とてもよくしてくださいますから、ここでの暮らしにすっかり馴染んでしまいました」
「……それはよかった。では、行こうか?」
「はい」
今までのジェスアルドなら、人目のある場所で父にあのような言葉を向けることなどなかった。
そんな自分に驚き、父とリリスの会話に口を挟むこともできない。
ただ心配しなくても、リリスは皇帝に臆することなく、皆の前ではっきりと宣言したのだ。
故郷に未練はないと。
皇帝の言葉を合図にジェスアルドはリリスに腕を差し出した。
その腕にためらいなく手を添えるリリスを見て、皇帝は満足そうに笑むと、謁見の間へ続く扉へ颯爽と向かったのだった。




