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 その夜、寝室に下がったリリスは、皇帝に伝えるべき事柄と交渉するべき事柄を頭の中で整理しながら、ジェスアルドの訪れを待っていた。

 だが気がつけば、かなり遅い時間になっている。

 先に寝るべきか、それとも待つべきかと悩んでいると、ちょうどジェスアルドが部屋に入ってきた。

 しかし、どことなく顔色が悪い。


「リリス、まだ起きていて大丈夫なのか?」

「はい。今朝はしっかり寝ましたから。私よりも、ジェドですよ。お顔の色があまりよくありません。お疲れならマッサージをしましょうか? お酒もありますよ? 特製飲料はすぐには用意できませんが、精油なら――」

「リリスがいい」


 疲労の色濃いジェスアルドを心配したリリスは、あれこれ提案しながら室内をうろうろし始めた。

 しかし、カモミールの精油を用意しようとして、リリスはジェスアルドに捕獲されてしまった。

 そしてぎゅっと抱き寄せられる。


「……お疲れですね」

「ああ」


 リリスもジェスアルドの背中に手を回して、ぽんぽんと軽く叩く。

 こんなふうに素直に弱みを見せられるのはとても嬉しい。

 二人とも立ったまましばらく無言で抱き合っていたが、やがてジェスアルドが大きく息を吐き出した。


「疲れが取れた」

「え?」

「もう大丈夫だ」

「ええ?」


 どう考えてもそれは無理がある。

 そう思ったリリスが見上げてみれば、ジェスアルドは微笑んでいた。

 しかも心なしか顔色が良くなっている気がする。


「超人ジェドですね!」

「何だ、それは?」

「こんなに早く疲れが取れるなんて、すごいってことです」


 やはり体力が違うのかと感心するリリスの言葉に、ジェスアルドは眉を上げた。


「それを言うなら、超人リリスだな」

「ええ? 私はしっかりたっぷり眠らないと、疲れは取れませんよ?」

「そうではない。リリスといれば、疲れが取れるんだ。だから、リリスのほうがすごいだろう?」

「本当ですか!? 初めて言われました! エアムお兄様には『リリスと話していると疲れる』ってよく言われてましたし、リーノと遊んだあとは母に『リリスが遊んでくれると、リーノは疲れてよく眠ってくれるから助かるわ』って言われてたんです。やっぱりジェドって変わってますね!」

「……おそらくな」


 喜ぶリリスの話を聞いて微妙な気持ちになったが、ジェスアルドには否定できなかった。

 常日頃から、リリスのことを変わっていると思っていたが、そんなリリスが好きだと思う自分も変わっているのだろう。

 今さらな自覚をしたものの、そんなことはどうでもよかった。

 ジェスアルドが抱きしめれば、すっぽりと収まってしまう小柄なこの体のどこにそんな力があるのだろうと思うくらい、リリスは生気に満ち溢れ、傍にいると元気を与えてくれる。

 腕の中の存在に癒やされ、もう一度大きく息を吐いたジェスアルドだったが、残念ながらリリスは器用に抜け出してしまった。


「そんなに大きく息を吐くなんて、やっぱりお疲れなんでしょう? もう休んだほうがいいです」

「……そうだな」


 もう少し抱きしめていたかったジェスアルドは、リリスの言葉に同意して、にやりと笑った。

 そして、リリスが身構える間もなく、抱き上げる。


「ジェド!?」

「疲れを取るためには、しっかり眠ることだな?」

「え? はい……?」

「では、私も今からリリスと遊べばよく眠れると思う」

「え? それ、ちが――」


 もう疲れているのだから、さらに疲れる必要はない。

 間違いを指摘しようとしたリリスは口をふさがれてしまって、言葉にならなかった。

 そのままベッドへと横たえられ、ジェスアルドが覆いかぶさり再びキスをする。


「……遊びなんですか?」

「何が?」

「その……キスとか……」

「キスとか?」


 ジェスアルドを見上げて、少し拗ねたように問いかければ、問い返されてしまう。

 リリスは目を伏せ、顔を赤くして答えた。

 それなのにジェスアルドはさらに追い詰める。


「キ、キスとか……その先?」


 遊びと言われてちょっと傷ついたリリスは、ジェスアルドに否定してほしかっただけなのだ。

 それがどうしてこんなことにと混乱しながら答えたリリスの唇に、ジェスアルドはまた軽くキスをした。

 そしてにやりと笑う。


(……意地悪な笑顔だ!)


 たまに見せるジェスアルドのこの笑顔はたいてい意地悪の前兆である。

 思わず逃げようと体をずらすリリスをジェスアルドは両手で捉え、耳元に唇を近づけ囁いた。


「その先とは、こういうことだろう?」


 言いながら、大きな手がゆっくりとリリスの両脇をすべり上がっていく。

 金縛りにあったように動けなくなってしまったリリスは、楽しそうに輝く紅い瞳をただ見つめていた。

 すると――。


「え? あっ、やっ……っだめ! ジェ、ジェドやめて! ……っ!」


 リリスはジェスアルドの手から逃れようともがくのだが、巧みな動きがそれを許さない。


「ジェド、お願い! 許してっ、こ、降参! 降参です!」


 息を切らしながら必死に降参の合図に逞しい肩を叩くと、ジェスアルドはようやく動きを止めて体を起こした。

 体重をかけられているわけではないのに、リリスの両足はしっかりと挟み込まれて逃げられない。

 リリスは涙目になってジェスアルドを睨みつけた。


「く、くすぐるなんて卑怯です!」

「卑怯?」

「だって、こういう……遊びならちゃんと言ってくれないと! しかも最初からジェドに有利な体勢すぎます!」

「そうか……。では、次はリリスが上になればいい」

「え?」


 リリスの訴えにすんなり納得したジェスアルドは、あっという間に体勢を入れ替えてしまった。

 何が何だかわからないうちに、リリスは仰向けになったジェスアルドの上に乗っている。

 慌てて起き上がったリリスは、ジェスアルドに馬乗りになった形になってしまった。


「さあ、遠慮なく好きにしてくれ」

「……では、いきます」


 もう考えることを放棄したリリスは、この状況を楽しむことにした。

 真っ白な枕に短く広がるさらさらな赤い髪に、余裕を湛えて輝く紅い瞳。

 好きにできるなら思う存分に仕返しをと、リリスは両手の指を解すように開いて閉じてと繰り返し、にんまり笑った。


 それから、ジェスアルドの薄手の夜衣の上から両脇をくすぐる。

 しかし、何の反応もない。

 むむっと眉を寄せて、リリスは両手の指を立ててゆっくりとすべらせてお腹にたどり着く。

 リーノが一番にくすがったがるお腹をさわさわと撫でたのだが、やはりジェスアルドは平気そうだ。

 意地になったリリスはジェスアルドから下りて、膝や足の裏までくすぐったのに何もならなかった。


「ジェド! どうして笑わないんですか!?」

「平気だからな」

「え?」

「いわゆる慣れだな。幼い頃に散々と父にくすぐられたせいか、今では平気になってしまった」

「陛下が……」


 またまた予想外な皇帝の話を聞いて、ぽつりと呟いたリリスだったが、はっと我に返った。

 それなら、最初からこの勝負は目に見えていたのだ。――いつから勝負が始まったのかはわからないが。


「ジェド! これはイカサマです!」

「イカサマでも何でも、勝つためには手段を選ばない。戦利品が魅力的ならなおさらだ」

「戦利品?」

「遊びでも、勝てばご褒美は必要だろう?」

「ですが、いつ始まったのかわからない勝負なんて……。エアーラス帝国の皇太子殿下は卑怯です」

「それでも負けは負けだろう? エアーラス帝国の皇太子妃殿下は往生際が悪い」


 リリスは反論しようとしてやめた。

 楽しそうなジェスアルドを見ていると、怒る気になれないのだ。

 だが最後の悪あがきとばかりに、リリスはジェスアルドの上に飛び乗るように勢いよく抱きついた。

 わざとらしくジェスアルドが呻く。


「仕方ありませんね。今回は負けを認めましょう。それで、戦利品は何ですか? ジェドは何が欲しいんですか?」

「もちろんリリスだ」

「ええ? それはすでにジェドのものですけど?」

「だが、リリスとの時間が圧倒的に少ない。だから明日、リリスが目覚めたら、一緒に朝食をとることを要求する」

「それだけですか?」


 何を要求されるのかと思えば、リリスにとっては願ったりな内容である。

 ジェスアルドのためなら早起きも辞さない。

 不満そうにしながらも、緑色の瞳を輝かせるリリスの頬に手を添え、ジェスアルドが先手を打つ。


「もちろん無理には起きなくていい。リリスの用意が整ったとの知らせを受けたら私がリリスの部屋に訪れるつもりだ」

「ですが、それではジェドのお仕事に支障をきたしてしまいます」

「心配ない。私がちょっとくらい仕事を抜けたって、この国は滅んだりしない」


 明日の午前中、いつでも自由がきくようにと先ほどまで仕事をしていたのだ。

 なぜか余計な仕事まで回ってきて遅くなったのは誤算だったが。

 ジェスアルドはわずかに体を起こしてリリスの額にキスをすると、細い体を支えたまま横向きになった。

 しかし、腕を解くことはなく、リリスを離したりはしない。


「リリス、今は南の庭園の……何とかと言う花が満開で美しいらしい。だから、朝食が終わったあとは一緒に散策に行かないか?」

「行きます!」


 ジェスアルドの提案にリリスは即答した。

 公務などではなく、ジェスアルドと初めて個人的に室内以外で一緒に過ごすことができるのだから当然である。

 引き籠りがちな皇太子妃と〝紅の死神〟である皇太子が一緒に庭を散策して花を愛でるなど、きっと皇宮内は大騒ぎになるだろう。

 そこまで考えて、リリスは柔らかに微笑むジェスアルドを軽く睨んだ。


「皇宮内の人たちをからかって遊ぶつもりですね?」

「それは心外だな。私はただリリスと一緒に過ごしたいだけなのに」

「わかりました。そのお気持ちは疑いません。ですが、ジェド。女性を誘うのに『何とかと言う花』は台無しですよ。次からは気をつけてください」

「かしこまりました、奥様」


 笑いを堪えて、生真面目に注意したリリスの言葉に、ジェスアルドもまた生真面目に答えた。

 だが結局、我慢できなくなったリリスが笑いだすと、一緒になってジェスアルドも笑う。

 そして二人は笑い疲れたせいか、その夜はいつも以上にぐっすりと眠ったのだった。




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