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カラス編 1

 とうに正午は過ぎていて、昼というには遅い時間。

 真理はわらしと向かい合って、仲良く冷や麦をすすっていた。

 しかし、ちゅるちゅると美味しそうに麺をすする、わらしとは対照的に真理の箸は止まりがちだ。

 どうにもベランダの様子が気になって仕方がないのだ。

 窓を閉めきっても遮断しきれない、騒ぎ声。

 閉めきりのカーテン越しに透けて見える、黒山の人だかり、ならぬ、カラスだかり。

 真理は「はあ~」とため息をつくと、とうとう箸を置いてしまった。

「ああっ、もう我慢ならん!」

 ここのところ、いつもこうなのだ。

 カラスが大勢押しかけてきて、カアカアカアカアと、うるさいったらありゃしない。

 そろそろ近所から苦情が来るだろう。

 これまで見て見ぬふりをしてきたが、今日こそは注意せねばと、真理は勢いよく窓を開けた。

「うるさーい!」

 しかし、効果はゼロ。

 いや、ゼロどころか、逆効果だった。

 真理が顔を出した一瞬は静まり返ったが、一拍分の間を置いて、ベランダはこれまで以上の大騒ぎになってしまった。

「いや、だからちょっと静かに。ちょっと、頼むから……」

 真理の声も、掻き消されてしまうほど。

 カラスたちが何を言っているのか、さっぱりわからないが、まるでアイドルを前にしたファンのような興奮状態だ。

 そんなカオスなベランダで真理が途方に暮れていると、上空から心強い味方が駆けつけてきてくれた。

 騒ぎを聞きつけたのだろう、空から急降下してきたのは、カラスのカア吉だった。

「これは一体何の騒ぎですカアー!」

 唯一、話の通じる相手の登場に、真理はホッと胸を撫で下ろした。

「助かったよ、カア吉。何とかしてくれよ、この騒ぎを」

 真理に頼りにされて、カア吉もまんざらでもない様子。

 ベランダをひと睨みすると、羽を腰に当て説教を始めた。

「誰が騒いでいるのかと思ったら、隣町のカラスたちじゃないですカア」

 そうか、新参者のカラスだったか、と真理はようやく合点がいった。

 おかしいと思ったのだ。

 カア吉がベランダのルールを作ってからは、迷惑をかけられることもなく、真理の生活は至って平和だったのだ。

 どうやらこれまでの事情を知らない隣町の連中が、今、騒動を起こしているということらしい。

 でも、カア吉が来てくれたからにはもう安心だ。

「あなた方。このベランダには大勢で押しかけてはいけない、というルールがあるのをご存知ですカア?」

 ふんぞり返って講釈を垂れ始めたカア吉は、しかし、あっという間に取り囲まれて、猛反論をくらってしまう。

「はあ? 誰がそんなルールを作ったかって、そんなの、私が作ったに決まっているじゃないですカア。はあ? なんでそれを俺たちが守らなくちゃいけないのかですって? そんなの、こちらの旦那に迷惑がかかるからですよ! えっ、私がこちらの旦那を独り占めしようとしてる? 何をバカアな! って、ちょっと、そこのあなた! 偉そうに、とはなんですカア、偉そうにとは!」


 ――なんか……、さっきよりもうるさくなってないか?

 残念ながら、カア吉は火に油を注ぎに来ただけのようだ。

 真理は痛み出したこめかみを揉みながら、ベランダからこっそり退散することにした。

 とはいえ、このまま部屋にいてもストレスは溜まる一方だ。

 ――わらしを連れて、散歩にでも行くか……。

 散歩を思いついたのは、現実逃避したいという気持ちが半分、しかし、もう半分は別に理由があった。

「おーい、わらしー、散歩に行くぞー」

 わらしはちょうど最後の麺を、ちゅるちゅるとすすったところだった。

 食べ終わったのならちょうどよかった、というのは真理の理屈だ。

 基本的に外に出るのが嫌いなわらしは、食後は部屋でごろりとする予定でいたのだった。

「えー、さんぽー?」

「おう、食後の運動を兼ねて、な」

「えー」

「ほら、肩車してやるから」

 肩車と聞いた途端、わらしはぴょこんと立ち上がった。

「肩車? ふ~ん、じゃあ、行ってもいいよ」

 その現金な態度には、真理も苦笑いだ。

「わーい、散歩だー、肩車だー」

 スニーカーを履くために玄関にしゃがみ込んだ真理の背中を、わらしが「よいしょ、よいしょ」とよじ登る。

「いいか、落っこちるなよ?」

 よいしょ、と立ち上がった真理の後方では、カア吉の金切り声がまだ続いていた。

「旦那に取り入って、オオガラス様に口利きしてもらうつもりだろう、ですって!? よくもまあ、そんなバカアらしいことを思いつきますねっ!」

 それは、玄関ドアを閉める寸前まで、ずっと続いていたのだった。




「いいか、わらし。川底にもちゃんと目を凝らすんだぞ」

「はーい」

 わらしを肩車して、真理は川沿いの道を歩いていた。

 川は、あの大雨の日の荒れ狂いようが嘘のように穏やかだ。

 道路の際まで迫っていた水面も、今や遥か下。

 フェンスから覗きこまなければならないくらいだ。

 実は、そのための肩車でもあった。

 肩車されていれば、小さなわらしでも川面を見ることができる。

 今日、散歩に出たのはカラスたちの騒動から逃れるための他に、あの日の落とし物を探すという目的が実はあったのだ。

 あの日、真理たちはこの川でたくさんの物を失くした。

 真理のスニーカー、わらしの下駄に巾着袋。

 それらは、もう諦めた。

 命と引き換えなら安いものだ。

 だけど、諦めきれないものが一つある。

 河原のカツラだ。

 大分元気が出てきたように見える河原だが、それでもまだ仕事復帰はしていない。

 彼は頭頂部の皿のことを、気にしているのだ。

 カツラさえあれば、また以前のように元気に仕事に行ける筈なのだ。

「いいか、河原さんのカツラが見つけたら教えるんだぞ。黒くてフサフサしてるから、すぐわかるだろ」

「はーい」

 水量が減った今、どこかに引っかかっていてくれれば、見つかる可能性は大だ。

 それには、一人で探すよりも二人の方がいいと思ったのだ。

 二つの目より、四つの目だ。

 すると、早速わらしが「あっ! 黒いフサフサ!」と指を差した。

「えっ、もう見つけたのか、どこだ、どこだ?」

 期待して振り向けば、なんのことはない、息を切らして追いかけてくるカア吉ではないか。

 真理はわらしの指をペシッと叩いた。

「コラ、真面目に探しなさい」

「えー、だって、あれも黒いフサフサだよ!」

「あんなのが河原さんの頭の上にのっかってたら、おかしいだろ?」

「えー、おかしくないよー、かわいいよー」

 想像して、クスッと笑ってしまった自分が悔しくて、真理はコホンと咳払いした。

「可愛いとか、そういう問題じゃあない!」

「じゃあ、どーいう問題?」

 やいやい言い合いながらも、真理は歩みを止めない。

 だから、ようやく追いついたカア吉はフェンスの上をぴょんぴょん飛び跳ねながら、ついて行かなければならなかった。

「旦那、ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございませんでした」

 心なしか、顔が疲れて見える。

「どうだったー? 話はついたのか?」

「大勢で押しかけると旦那が迷惑するということを一から説明して、何とかわかってもらいました、はい。それで、えーと……、旦那に面会できるカラスは一日に七羽まで、ということになりましたので……ご了承ください」

 最後の方が聞き取りにくいほど小声になったのは、「今までより多いじゃないか!」と、つっこまれるのがわかっているからだろう。

「隣町のカラスが五羽、我々が二羽。これが妥協点でした……」

 そっちは今まで散々会いに来ていたんだからズルイ、と隣町のカラスたちにゴネられた結果だ。

 わかって下さいと泣きつかれて、真理もつい恨み節で返したくなってしまう。

「そもそも、なんだって、よそのカラスまで、うちに来るようになっちゃったんだよ」

「それは仕方ないですよ、旦那。オオガラス様は私たちにとって、雲の上のお方。そのお方に気に入られた人間がいるという噂が広まるのなんて、あっという間ですよ。今じゃ、旦那の顔を拝めばご利益がある、なーんてことまで、言われているくらいです。そのうち、もっと遠くからもカラスが押し寄せてきますよ」

「怖ろしいこと、言うなよな」

 げんなり顔の真理とは裏腹に、「わたちもオオガラス様に会いたかったなー」と、わらしはのん気なものだ。

 あれから、わらしを連れて神社に参拝したが、オオガラス様は姿を現してはくださらなかった。

 あの日は、本当に特別だったのだ。

「私がもっと上手く仕切れればいいのですが、エージェント気取りと、やっかむ輩もいますから……」

「エージェントって、なあに?」

 わらしの質問には答えずに、真理は「へえ」と顎を擦った。

「へえ、カラスの世界にも嫌な奴はいるんだなあ」

 真理が感心したように呟くと、カア吉は「そりゃあ、いますよ」と息巻いた。

「たとえば、隣町にカア太郎というのがいるんですけどね、これがまた強つくばりで、本当にイヤミなカラスなんですよ!」

 これが呼び水となったのか、カア吉はもう止まらない。

「あちこちから拾ってきたお宝やエサをを独り占めして貯めこんでいて、それをひけらかしてくるんですよ。この間も、来年の巣作りにお誂え向きのものを拾ったーって自慢するから、見に行ったんです。確かにね、それはそれはステキな敷物でしたよ。色はカラスの濡れ羽色。手触りはフサフサで心地良く、大きさはと言えば、巣に敷き詰めるのにちょうどのピッタリサイズ! でも、もう一回触らせてくれと頼んでも、もう触らせてくれないんです。見せびらかすだけ見せびらかして! なんてケチなカラスでしょう! こんな奴が顔役なのですから、隣町のカラスが皆、我が強くて、自分勝手なのも当然ですよ!」

 憤懣やる方ないといった様子のカア吉には悪いが、真理は途中からほとんど聞いていなかった。

 カア吉の愚痴なんて、まともにつき合っていられか、が真理の本音だ。

 しかし、適当に「はいはい」と受け流す真理とは対照的に、「ふむふむ」と何を感心しているのか、

わらしは熱心に耳を傾けていた。

「その黒いフサフサ、どこで拾ったのかなあ。わたちたちも黒いフサフサを探してるの。そこに行ったら、いっぱい落ちてるのかなあ、ねえ、真理?」

「えっ、黒いフサフサが何だって!?」

 真理はそこでようやく足を止め、まともに話を聞く気になったのだった。

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