24話
武田家の大事なお嬢さんをただ送り返すのではなく、元の元気な状態に戻して返せたことで、真理はひとつ、肩の荷をおろした。
しかし、これで全ての問題が片付きました、というわけにはいかない。
雨が上がっても、川の水位がそう簡単には下がらないのと同様に、真理にもまだ問題が残されていた。
――わらしの奴……、待ちくたびれてるだろうな……。
真理は駅から踵を返し、川沿いの道を足早に歩いていた。
つぐみはよそ様の家の子供で、何かあったら大変だ。
だから、当然のように彼女の安全を優先したが、わらしを心配してなかったわけではない。
つぐみの件が片付いた今、真理の頭を占めるのは、すぐに戻ると言い残し、部屋に置いてきた、わらしのことだった。
河原が一緒に留守番してくれているのだから、それほど寂しい思いはしてないだろう。
そうは思っても、早く帰って、顔を見て、真理は安心したかった。
しかし、それと同時に、帰ったら、祭りが中止になったことを告げねばならない。
横目で確認するまでもなく、濁流は未だ衰えを知らず、今にも浸水しそうな勢いだ。
――この川がこんな、氾濫寸前にまでなるなんてなあ。
普段、この道を歩くとき、ここに川があることを真理は意識したこともなかった。
コンクリートで岸を固められ、底の方で行く当てもなさそうに淀んだ水は、フェンスを覗きこまなければ見えないほどで、とても川と呼べるような代物ではなかったからだ。
それが今では、コンクリートの護岸から零れ出さんばかりの勢いなのだ。
――これじゃあ、祭りが中止になるのも仕方がないよな。
納得する一方で、真理はわらしのことを考える。
――でも、あいつは、がっかりするだろうなあ……。
浴衣を着こんで、わらしの準備は万端だ。
真理の帰りを今か、今かと待っている筈だ。
星の欠片をいっぱい浮かべた大きな瞳に見上げられて、「早く行こうよお」とせがまれたら、何と答えればよいのだろう。
その美しい夜空のような瞳に雲がかかる様を想像して、真理は頭をぶるぶると振った。
ずぶ濡れの犬がよくするように、辺りに水しぶきを飛び散らせてから、真理は「はあ~」とため息を吐いた。
――なんか美味いもんでも買って帰るか。
思いつくのは、この程度のこと。
それが慰めになるのか、どうか。
それでも、少しでもわらしが元気になってくれたら……。
そう考えてから、「ああ、そうだ」と真理はひらめいた。
――傘を買っていってやろう!
最近になって、真理の傘がワンタッチで開くことを知ったらしく、何の変哲もない真っ黒なそれはわらしのお気に入りとなっていた。
真理がそれを知ったのは、先日、バイトから帰った日のこと。
玄関ドアを開けたところ、わらしが部屋の中で傘をシュバッ、シュバッと開いたり閉じたりして遊んでいたのだ。
雨が降った翌日だったら、大惨事となっただろう。
『こらー、部屋の中で傘で遊ぶんじゃない!』
そのときはきつく叱りつけ、当然のように傘を没収したのだが……。
しょんぼり顔を笑顔にできるのなら、傘で遊ぶくらいどうということはないではないか。
――赤い傘が良いだろうな。あっ、ついでにカッパと長靴も買ってやろう。
今日は思いっきり甘やかしてやろうと決めて、あれやこれやと思いを巡らせていた真理は、ふと川向こうに目を留めた。
対岸を珍妙な取り合わせの二人組が歩いていた。
「えっ、えっ、えっ!? わらし!?」
河原に手を引かれた、わらしがそこにいたのだ。
あちらも同時に、真理に気がついたようだった。
「あー、真理がいたー!」
手を引かれているのとは反対の方の手を、わらしはぶんぶんと大きく振リ上げた。
その手には、真理の黒い長傘が握られていた。
先日、叱った際に『傘というのは、雨の日に差すものだ』と何度も言い聞かせたことを思い出す。
「ああ、そうか……。俺を心配して、迎えに出てきてくれたのか……」
真理が出かけるとすぐ大雨になり、雷まで鳴り出した。
わらしは傘も持たずに出かけた真理のことが心配で、いてもたってもいられなかったのだ。
「バカわらし……。まだ警報は解除されてないのに、外を出歩いたら危ないだろうが……」
わらしはまだまだ子供で、世話を焼くのも心配するのも、全部自分の役目と真理は思い込んでいた。
だけど、真理がわらしを心配するように、わらしだって、真理のことを心配していたのだ。
そんなことは当たり前のことかもしれないが、その当たり前のことが真理の胸にじわじわと温かく染みこんでいく。
向こう岸では河原が眉尻を下げながら、ペコペコと頭を下げている。
その顔は『すみません。部屋で待ってようと言ったんですが』とでも言っているようだった。
真理からしたら、『こちらこそ、お手数をおかけして、すみません』という気持ちだったので、ペコリと頭を下げ返す。
大人二人がペコペコし合っている間に、わらしは河原の手を離れて駆け出していた。
「真理―、真理―!」
川を挟んでいなければ、カラコロと軽やかな下駄の音が聞こえてきただろう。
「真理―、傘を持って来てあげたよー!」
もうとっくに雨は上がったというのに、わらしは傘を振り回して得意げだ。
ちょうど橋にさしかかったところで、傘をシュバッと広げて見せたのは、褒めてもらいたかったからだろう。
そのとき、びゅうと風が吹きつけて、おかっぱ頭を掻き乱した。
古くて小さい、この橋は欄干が低いので有名だった。
とはいえ、子供がまたげるほど低いわけではない。
しかし、真理の黒傘は風をはらみ、それを軽く飛び越えてしまう。
下に、わらしをぶら下げたまま。
たんぽぽの綿毛のように小さな体がふわりと宙に浮きあがる、その瞬間、世界はスローモーションになった。
「わ……、わらし―っ!!」
真理が叫べたのは、濁流が腕を伸ばし、傘ごと小さな体を掻っ攫っていった後だった。
あまりのことに、フェンスにしがみついたまま、真理は茫然とするしかない。
しかし、河原は違った。
ひらりとフェンスを飛び越えると、次の瞬間には轟々と流れる川へとダイブしていた。
そうだった。
河原はカッパではないか。
濁流に乗って、河原が小さなおかっぱ頭を追いかける。
それが水面から沈み込む、その寸前で、河原はキャッチすることに成功した。
「やった!」
フェンス伝いに追いかけながら、真理は思わずガッツポーズをしていた。
しかし……。
「……ん?」
どうも河原の様子がおかしい。
おかっぱ頭を抱えたまま、浮かんでは沈み、沈んでは浮かび。
細い腕は濁流を掻き分けているというよりは、もがき苦しんでいるように見える。
「まさか河原さん……? おいおいおいおい、溺れてるのかっ!?」
真理が慌てて駆け出すが、人の足では限界がある。
河原とわらし、二つのおかっぱ頭はみるみるうちに遠く流されていってしまった。




