23話
どれくらいそうしていただろう。
このままずっと泣き止まないのではないかと、さすがの真理も心配になってきた頃、腕の中のつぐみがぐすん、ぐすんと鼻をすすり始めた。
それは、涙が止まってきた証拠だった。
「どうしよ……、ひどい顔になっちゃった」
ひどい鼻声だが、自分の顔の心配をするくらいには復活したようで、真理もひと安心だ。
「私、パンダ目になってない?」
胸の辺りで見上げる顔は目と鼻が真っ赤になってはいるものの、ひどい化粧崩れは起こしてない。
元々ごく薄いメイクだったことが幸いしたようだ。
「大丈夫だよ」
真理はそう言って、目尻にまだ溜まっていた涙のしずくを親指で優しく拭ってやった。
普段の真理なら、こんな気障ったらしいことはしない。
絶対にしない。
雨の降りしきる境内に二人きりというシチュエーションが、真理から気恥ずかしさを捨てさせていたのかもしれない。
そんな甘ったるい空気に辟易したのか、天は唐突に猛威を振るった。
それまで空のてっぺんでゴロゴロと鳴るばかりだった雷を、地面めがけて落っことしたのだ。
ピカッと光ってから、一、二、三と数える間もない程の早業だった。
足の裏に地響きを感じる程の衝撃に、真理とつぐみは「ひぃっ!」と竦みあがった。
「お、お、お、落ちたのか?」
「うん、すごい音だった!」
二人は「怖かった~」と声を揃えると、再び、ひしと抱き合った。
二人共、屋外でこれほどの雷雨に遭遇したことがない。
身を隠す場所がないというだけで、ひどく心細く、頼りない。
自然の前では、人間などちっぽけな存在なのだと、二人は身を持って知った。
そんな二人を嘲笑うように、天はそれから何度も稲光を走らせては、二人を恐怖に震え上がらせたのだった。
しかし、雷なんて、そうそう何個も落ちるものではない。
何度もピカリと光ったが、その後、ドンガラガッシャーンと落雷することはなかった。
猛獣が喉を鳴らしているようなゴロゴロゴロという不穏な音も、やがて小さくなっていき……。
「大分、遠のいたんじゃないか?」
真理は怖ろしくて見上げることができなかった空に、ちらりと目をやった。
「うん、雨も小降りになってきたみたい」
つぐみも恐る恐るといった様子で、空を見上げている。
それから、二人は同時に「ほうっ」と息を吐いた。
知らず知らず、体が強張っていたようだ。
緊張していた体が徐々に緩んでいくと、それと共に別の感情が二人を襲った。
猛烈な羞恥心だ。
不意に、自分たちの体勢の不自然さに気づいたのだ。
――うわわわっ、何を普通に抱き合ってんだ、俺!
「な、な、な、なんか、ごめん!」
「こ、こ、こ、こっちこそ、ごめんなさい!」
同時に体ひとつ分、飛び退いてポッカリ二人分の空間ができる。
それがまたちょっと不自然で、二人はわけもわからず謝り合った。
「あのー、そのー、なんだ、ここに雷が落ちなくて良かったよな」
気まずいときに沈黙は、余計にいけない。
真理は当たり障りのないことを、ひたすら喋り続けた。
「神社を直撃したんじゃないかと思ったよ。音も凄かったし」
つぐみも平静を装おうとしているのか、真っ赤な顔で「うん、うん」と頷いている。
しかし、真理が「いやあ、本当に良かったよ。あそこの大きな木に落ちなくてさ」と、この境内で一番の巨木を指差すと、それまで乙女のようにしおらしく俯いていた、つぐみが急に真顔になった。
「え? あれはご神木だよ? 樹齢五百年だよ?」
雷もそこまで罰当たりじゃないでしょと、つぐみに真顔で反論されて、真理は目を白黒させてしまう。
「ず、随分詳しいんだなあ」
確か、この神社には始めて来たのではなかったか。
真理が不思議に思っていると、つぐみは少し体裁が悪そうに肩を竦めた。
「雨が降り出す前、暇だったから境内の立て看板を片っ端から熟読してたんだ」
待ち合わせの時間も場所も変更になって、駅前にいられなくなった、つぐみは神社で一人、暇を持て余していたのだろう。
おかげで、この通り。
すっかりこの神社について、詳しくなってしまったのだ。
「先生、なんで烏ノ森神社っていうか知ってる? 江戸時代の昔から、カラスがいっぱいいたからなんだよ」
「へえ~」
唐突に始まった、トリビア大会は、雨宿りの時間潰しにもってこいだった。
それより何より、気まずさを払しょくできたのが真理にとってありがたかった。
「昔も今も、あのご神木はカラスのねぐらなんだって」
「なるほどね」
どうやらここは、カア吉やベランダに遊びに来ていたカラスたちのホームグラウンドらしい。
葉が生い茂る木の枝に、今もカラスが雨を避けようと身を縮めているのだろうかと真理は目を凝らしたが、雨でけぶってよく見えなかった。
「だから、この神社は神使もカラスなんだよ」
「シンシ?」
「もう、何も知らないんだから! 神様の使いのこと!」
全て立て看板からの受け売りだったが、つぐみは「呆れた」と頬を膨らませている。
「ああ、使いね、使い」
「そ。ここの神使は『大ガラス様』と呼ばれて、地元の人たちに親しまれてるの」
真理は乏しい想像力で、『大ガラス様』とやらを頭の中で思い描いた。
カア吉たちを束ねる、一回り大きなカラスの姿が思い浮かんだ。
――ふむ。カラスの大親分みたいなもんか。
大親分というのとは、またちょっと違うのだが、真理は自分の解釈に勝手に納得していた。
「へえ、こっちに越してきて、もう何年も経ってるけど、知らなかったなあ」
暫し感心してから、真理はハッとなった。
大事なことを忘れていることに、気がついたのだ。
「そういえば、つぐみちゃん、もう参拝は済ませた?」
「あっ、まだしてない!」
「雨宿りさせてもらっておいて、俺たち、罰当たりじゃないか?」
真理はそう言って、尻ポケットを探った。
この前、コンビニで買い物をした際、ねじ込んだ釣銭がそのまま残っていた。
「はい。お賽銭は、これを使って」
手のひらに硬貨を広げると、つぐみは五円玉を一枚、選んだ。
真理は奮発して百円玉だ。
しかし、二人とも正しい作法を知らないので、参拝は自己流だ。
特につぐみは、威勢よく鈴を鳴らして、「ご縁がありますよーに」と願い事を大声で叫んでしまう始末。
そんなつぐみに苦笑しながら、真理は隣でひっそりとこうべを垂れた。
――えーと……、神様、大ガラス様、ご挨拶が遅れてすみません。部屋にいる座敷わらし共々、この土地のカラスたちにはいつもお世話になってます。これからも、どうぞ仲良くさせてやってください。それから、俺たち二人をどうぞ温かく見守ってください。
これでは願い事というより、子供の友達の親への挨拶だ。
しかし、何はともあれ、これでスッキリした。
真理は大きく息を吐き、ゆっくりと目を開けた。
「なに、なに? すごい長かったね。先生はなんてお願いしたの?」
「お願いっていうか、引っ越しの挨拶ってところかな。遅くなったけど」
「えー、何それー! たった五円ぽっちで恋愛の願掛けしちゃった私が、すごく図々しい奴みたいじゃん!」
ブーブー文句を言う、つぐみが可笑しくて笑っているうちに、雨はだいぶ小降りになっていた。
「今のうちに帰った方がいいかもな」
雨が止んでも河川氾濫の警報は、すぐには解かれそうにない。
それに、いくら夏とはいえ、いつまでも濡れたままでいるのも良くないだろう。
真理はつぐみを駅まで送ることにした。
本当は家まで送り届けるつもりでいたのだが、つぐみに「向こうの駅で、ひたきが待ってるからいいよ」と断られてしまったのだ。
これから帰る、と、つぐみが家に連絡を入れたら、ひたきが駅まで迎えに行くと言ってきかなかったらしい。
「もうっ、皆、大騒ぎし過ぎで、やんなっちゃう」
ぶつぶつ文句を言ってはいるが、逆の立場だったら、きっと、つぐみもそうしただろう。
武田家の子供たちの絆の強さは、一人っ子の真理にはキラキラと眩しく映る。
ぶんぶんと大きく手を振りながら、改札をくぐる、つぐみを真理は目を細めて見送った。
「先生ー、今日はありがと―!」
多分、ホームの階段を上るところなのだろう。
姿は見えないが、つぐみの大きな、大きな声が改札口にいる真理の元にしっかり届いた。
元気が戻って何よりだ。
真理は緩む頬もそのままに、踵を返したのだった。




