(閑話8-9)
とても言葉では言い尽くせない程の苦難と死線を乗り越えた果てに。私達は遂にかの恐るべき大山脈の、しかも今迄誰一人足を踏み入れた事の無いであろう広大無辺な未踏域を突破して遂に。本来の目的地であるアプリリスの町へと辿り着いた。
ところが辿り着いて早々に、私達は町の入口を守る守衛に見咎められた。
先日、同輩の行商人の一団と行き合った時もそうだったが、聞けばどうやら随分と酷い有様と化した私達の容姿が、彼等に見咎められた主な原因らしい。確かに余りに険し過ぎる山岳地を延々と歩き続けた事と、何よりカトゥーの手引きに拠り無数の魔物や獣共と血みどろの殺し合いを積み重ねた事で、以前私が蛮族から奪い取った上等な毛皮と着衣すら随分と汚れ、痛み切ってしまった。
とは言え、他の行商人の一団と揉めた事でこう成る事は凡そ予想していたので、私は事前に比較的身なりが人並に近いカトゥーに商人ユニオ・アーデムの認識票を預かって貰い、入町の交渉を託す事にした。
カトゥーはとても落ち着いた口調で、剣呑な態度の守衛達に私達の身なりや町に入る要件に関して説明をすると、次の瞬間。熟練の行商人である私をすら唸らせる絶妙な呼吸と流麗な所作で、彼等の内の一人の手中に何かを握らせた。
カトゥーが守衛に握らせたのは、恐らく金子の類であったのだろう。その結果、私達は難無く守衛の許可を得て、町の中へと足を踏み入れる事が出来た。
「カトゥー君。狩人なんて辞めて、商売人になりませんか?」
願わくば、これからも私と共に。
前を歩くそんなカトゥーの背中を見て我知らず、誘いの文句が口を付いた。後に続く、想いと共に。
しかしカトゥーは私に背を向けたまま軽く手を振って、私の提案、いや身勝手な願いを軽く退けた。
諦念と共に、私は小さく息を吐いた。カトゥーがそう応じる事は、とうに分かって居た。彼には彼の進む道が有り、また成し遂げたい大望が有るのだろう。彼の言の端から時折見え隠れする強固な気概から、其の事は容易に察しが付いた。しかしそれでも尚、私はもう一度だけ、諾否を問わずには居られ無かったのだ。
アプリリスの素朴な街並みは、嘗て私が辺境へと旅立つ際に訪れた時と殆ど変わって居ない様に思われた。しかしながら、静寂と白銀の精霊が力を増す季節だからだろうか。雪が降り積もった町中に人影は殆ど見られず、物音も人々の囁き声も耳に入らない情景は、酷く物寂しく見えた。
ともかく先ずは隊商団が見舞われた災禍の経緯と、私達の生存をユニオ・アーデムに報せねばならないだろう。私はカトゥーに代わって先頭に立つと、嘗ての記憶を頼りに此の町に在る筈の商人ユニオ・アーデムの支部へと歩を進めた。そして暫く歩き続けると、記憶と変わらぬ姿のユニオ・アーデムの壮健な建物が見えて来た。
固く閉ざされたユニオ・アーデムの門の前に辿り着いた私は、早速据え付けられた呼鐘を軽く打ち鳴らしてみた。すると石壁に開けられた覗き窓を覆う木板が外されて、壁の内側から一人の男が無遠慮に私達を睨み付けた。そして、無言のまま窓は直ぐに塞がれた。
馴れ初めの相手ならば、たとえ悪たれの童であろうと笑顔で遇せよ。我々商人ユニオ・アーデムには、そんな格言が有る。
怪しい風体の者を締め出す、その行為自体には何ら落ち度は無い。しかし商人ユニオ・アーデムの門を預かる者として、今の態度は実に頂けない。随分と未熟な若い門番に見えたが・・緩い頭蓋を一度くらい打ち据えて、己の身の程を分からせてやらねばならないだろう。思い立った私が、早速幾多の魔物を屠り去った愛用の木剣に手を伸ばすと、カトゥーが何故か慌てた様子で私の腕を抑えた。そして、
「おい、俺達はユニオ・アーデムの仲間だぞ。話も聞かずに締め出すとは どういう了見だ」
門に向かって一喝すると、軽快な身のこなしで石壁を攀じ登り、壁の向こう側へと姿を消した。そして間も無く、門はカトゥーの手で内側から開け放たれた。
商人ユニオ・アーデムの堅牢な建物の入口へと移動した私達は、扉を叩いて屋内の職員へと来訪の旨を呼び掛けてみた。すると正面の扉とは異なる建物の陰から、一人の武装した男が姿を見せた。どうやら先程とは別の守衛の模様だ。其の姿を検分すると、年齢もそして威を感じる所作も、先程の門番と比べて相当に熟達して見える。
そんな守衛とカトゥーが言葉を交わすも直ぐに危うい空気と成り掛けたので、私は機を見計らって二人の仲裁に入った。そして私達の立場と置かれた状況を訴え、加えて男に商人ユニオ・アーデムの認識票を提示すると、どうにか責任者へ取次いで貰う事が叶った。それにしても、先程の未熟な門番と言い、今し方たった独りで現れた守衛と言い、僻地の支部とは言え随分と警備が手薄に思える。町に人影が少ない事と何か関係が有るのだろうか。
私達が其の場で暫くの間待ち続けて居ると。前触れも無く扉が開かれ、中から一人の男が飛び出して来た。上等な生地の衣服に身を包んだ豊かな肉付きの男の姿は、記憶よりも豊満になり尚且つ幾分老けてはいたものの、私には見覚えが有った。
「おおっ!確かにモックさんだ。良かった。生きておられたんですね!」
私を見定めた男は破願して此方に駆け寄ると、両腕を開いて私に抱き付いた。私も男の抱擁に応じて、その柔らかい身体を固く抱き締めた。
男の顔を見た私の脳裏に、懐かしい記憶が呼び起こされた。彼の名はアシモ。此の町の商人ユニオ・アーデムの職員だ。そして、私とは旧知の仲である。
嘗て私がアプリリスの町に滞在した当時、彼は未だ此の町に赴任したばかりの若き新参者であった。慣れぬ職務と人員不足に悲鳴を上げる様子を見かねた私は、暇を見付けては彼の仕事を手助けしたものだ。また、組織の上層部に言いたい放題悪態を付きながら、手持ちの金子が底を付くまで共に飲み明かしたのも懐かしい思い出だ。
アシモとひとしきり再会を喜び合った後。私達は彼にユニオ・アーデムの洗い場に案内された。商人ユニオ・アーデムに立ち寄った行商人達は、旅の穢れを此処で洗い落とすのだ。早々に案内してくれた彼の心遣いはとても有難い。しかも身を清めるにあたり、私達にギルドの世話役まで付けてくれた。但し、幾ら体を清めても、着衣が今の状態では殆ど意味が無い。そこで、洗い場に移動する前にアシモに相談を持ち掛けて、私達に清潔な古着を手配して貰うよう承諾を取り付けておいた。
洗い場の設備は、私の記憶よりも随分と立派になっていた。建物の前で淑女である樽嬢と別れた私とカトゥーは、衣服を脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿と成った。私は己の全身に刻まれた生々しい傷跡と、そして短期間にも拘らず異常に鍛え上げられ、尚且つ垢が積りに積もった肉体を目の当たりにして怯える世話役を宥めて落ち着かせた。
その後、世話役が井戸から汲んでくれた水で身体を洗い流し、泥を肌に塗った後、垢擦りで身体に堆積した垢を削ぎ落とした。外傷を治療する為にカトゥーにある程度身体を洗浄して貰って居たにも拘らず、擦っても擦っても擦っても垢は際限なく肌から零れ落ちた。やがて水を幾度と無く汲み続けた世話役は疲労困憊で動けなくなり、洗い場は清掃しないと使い物にならない程に汚れ切ってしまった。だが根気強く洗い続けたお陰で、私達の体は漸く人並みの姿を取り戻す事が出来た。
身を清めた後は、仕上として肌に薄く香油を塗り込む。だが、カトゥーは顔を顰めて、香油を塗る事を拒絶した。どうやら彼は、此の香りが余り好みでは無い様子だ。仕上げの後は、世話役に差し出された新たな衣服を身に纏う。更にその後は、カトゥーが自らの装備を洗浄する様子を見物した。最初は世話役と私も洗浄を手伝おうと申し出たのだが、彼に丁重に断られてしまった。
こうして身体の垢を落として身なりを整えると、漸く自分があの苛酷な別世界から人族の営みの中へと帰還した事を実感する。まるで久方振りに野生の獣から知性を備えた人へと立ち戻った様な、永い眠りから目が覚めた様な清々しい心持だ。しかし、私と同じく身を清めたカトゥーは、何処と無く不機嫌な様子だったのだが。
洗い場を後にした私達が改めてユニオ・アーデムの建物内に案内されると、駐在する職員の皆が集まって私達の無事を大層喜び、次々と労いの言葉を掛けてくれた。そして其の中には、アシモ以外にも嘗て私と面識の有った職員も居て。彼等は一見するとすっかり痩せこけて見える私の姿に涙し、アシモと同様互いに固く抱き合って再会を喜び合った。
その後、建屋の客間に案内された私達は、再びアシモと顔を合わせて互いの情報の擦り合わせを行う事に成った。嘗ては少々頼り無い新任職員であったアシモであったが、今ではアプリリスの商人ユニオ・アーデム支部長の地位にまで上り詰め、その地位に相応しい落ち着きと貫禄が備わっていた。
彼の顔には幾つもの深い皺が刻まれているが、実年齢は見た目よりずっと若い筈だ。恐ろしい大山脈への門戸とでも言うべき此の町の商人ユニオ・アーデムを統括する、アシモの責任者としての長年の労苦が偲ばれた。
そんなアシモの口から、私達が逸れた後の隊商団本隊の悲惨な顛末が語られた。結局、辛うじて最後まで生き延びたのは、100人近く居た構成員の内僅か4名。10人挑んでその内3人は命を落とすと噂される大山脈越えであっても、此れ程の惨劇は近年類を見ないのだそうだ。しかも今回の惨事は危険に満ちた地底の大迷宮では無く、比較的安全な筈の商人の道の途上で起きた出来事である。沈痛な面持ちで悲劇の仔細を語るアシモの口からは、幾度となく重い溜息が漏れた。
もし以前の私であれば、今の話を聞いて酷く怯え、取り乱してしまったかもしれない。しかし私は隊商団を襲った悲劇と其の末路を、自分でも驚く程冷静に受け止める事が出来た。大山脈で幾度と無く生死の際を潜り抜けたからだろうか。それとも私達が踏み越えて来たあの場所が、隊商団のソレよりも桁違いに苛酷であったと確信出来るからだろうか。
だが見苦しく狼狽する事は無くとも、心中に憐憫の情が溢れる事に変わりは無い。私は天高く聳えるあの山領の彼方へ消えていったユニオ・アーデムの同輩達に、暫しの間心の底からの哀悼と祈りを捧げた。




