第210話
モジャと別れ、当面の居候先である商人ギルドへと舞い戻った俺は、調理場の竈番や職員のアシモ氏を始め、ギルドの各関係者へお礼と出立の報告を兼ねた挨拶回りをした。毎日遠慮無くギルド提供のタダ飯をかっ喰らうせいか、連中から日増しに険しい視線を向けられて居たとは言え、お世話になった事には変わり無いからな。但し、俺にガン飛ばしてくる門番の何とか言う奴は除く。奴には何一つ世話になって無いし。
挨拶回りを済ませたら、整理し直した旅荷の数々を入念にチェックする。中でも最も大切なのは、矢張り食料だ。武具やら薬の類も勿論重要ではあるが、薬は回復魔法で代替可能だし、武器は最悪失っても、其の辺の魔物や獣程度が相手なら己の五体で充分に対処可能だからな。
とは言ったものの、俺は食料は基本現地調達を旨としている。なので携行するのは新たに仕入れた分も含め、保存の効く予備の食料である。他には大山脈で見出した岩塩と、比較的使い易い此の世界のスパイスを幾らかおっちゃんに分けて貰った。此れで当面の間、其の辺で調達した適当な有機物を焼いたり煮るだけといった、素材の魅力を過剰にイカしたイカれたワイルド食生活を強いられる事態は避けられるハズだ。
食料の他には武具や毛皮、予備の服、スパイク草履、水袋、薬、財布、研ぎ石、魔石、魔道具、そして各種日用品やら小道具等々を一式揃えると、ウエイトは兎も角相当に嵩張ってしまう。なので背負い籠に収まらない分は、縄草のロープで厳重に籠に括り付けておく。見た目明らかに過積載な荷物を背負う俺の姿は随分と不格好であろうが、徒歩による長旅とあらば致し方あるまい。
唯一つ気掛かりなのは、此れだけ巨大な荷を背負って街道を単身走るとなると、賊の格好の標的に成りそうな事だ。まあ、荷の重量を加味したとしても、鍛え抜いた今の俺の逃げ足を捉えられる輩などそうは居るまいが。
荷のチェックを済ませた俺は、一旦仮で纏めた荷物を担いで、片足でつま先立ちクワットをしながら書き写した地図を広げて旅の経路を確認する。まあ一口に地図と言っても、故郷の精細な地図とは比べるべくも無いショボい代物だ。
原本には一応此の世界の単位に拠る要所間の距離の記述は有ったが、地球人の俺では具体的な距離感が良く分からんし、地図の縮尺も不明だ。しかも目印や宿場町等何らかの記述が有るのは街道付近のみで、他はほぼ空白である。此の異界には三角測量も(多分)無ければ故郷の伊能忠敬のような偉人も(多分)居ないので、少なくとも市井に出回る地図は、俺の手に在る様な落書きに毛が生えた程度の代物なのかも知れん。其れでも有ると無しでは雲泥の差ではあるが。
こうして旅の仕度に没頭して居ると、カーンカーンと町の時計塔から午後の刻を報せる鐘が鳴り響き、音色と共におっちゃん達がギルドに帰って来た。どうやら気付かぬ内に、随分と時間が経って居たらしい。
合流した後ギルドの調理場を訪ねた俺達は、主に樽が炊事を済ませた食料を強奪して本日の夕餉と相成った。おっちゃん達と食卓を囲むのもあと僅かだ。
そして翌日の早朝。
俺はギルドの庭でおっちゃんに最後のシゴキ、もとい充実した鍛錬を課した。今日は有り得ない程珍しい事に、早朝にも拘わらず何故か俺達の前に樽が姿を見せた。無論、鍛錬には一切参加せず、ボケッと見てるだけなのだが。
まあ樽の事はさておき。俺は鍛錬と併せて、今後継続すべきトレーニングの計画と注意点をおっちゃんの頭に叩き込んでゆく。まあ正直別に継続しようがサボろうが俺がとやかく言える訳でも無いのだが、おっちゃんは目をギラギラさせながら、食い気味に俺の話に聞き入っていた。
一緒に鍛錬するのも今日で最後と言う事で、特別におっちゃんを俺の日課の一部に軽く付き合わせた結果。早々に息も絶え絶えの様子でぶっ倒れたおっちゃんを横目に、俺は傍でゴロゴロと寝転がって居た樽に今後の事を訊ねてみた。
「そういえば、樽は此れから どうするんだ?確か故郷に帰るんだったか」
「あん?そういえばカトゥーには未だ言って無かったかい。アタイはモックの旦那に誘われて、旦那の故郷まで護衛を続ける事になったよ。まあアタイの場合、別に急ぐ旅じゃ無いからね」
「ふむ、そうか」
「そう言うお前さんは、旦那に誘われ無かったのかい」
「誘われたが断った。俺には遣らねばならぬ 大切な使命が有るからな」
「フンッ。偉そうな事言ってるけど、どうせチンケな内容なんだろ」
うぐっ、樽貴様。誰に何と言われようと、俺にとっては滅茶糞大切な使命なんだよ。いやでも色々と想定外の出来事が有ったとは言え、煩悩の為にあんなに命賭け捲るのは、少なからず頭オカシイんじゃなかろうかと心の奥底ではほんのチョッピリ後悔してしまって居るのも事実。いやいやしかし。遥々此処迄来た以上、今更後には引けんのだよ。
「樽よ」
俺はハートの片隅に深々と突き刺さったナイフの痛みを黙殺して、樽に呼び掛けた。
「何だい」
「後は頼む。お前は死んでも、必ずおっちゃんを守れよ」
「・・・フンッ。アタイに任せときな」
あれ?てっきり死んでもに対して文句をぶー垂れるかと思った俺の予想に反して、樽は真剣な表情で一つ頷いた。ウ~ム、此奴に真摯な態度を見せられると何だか調子が狂うな。
「守ると言えば、アタイも大山脈ではお前さんに随分と助けられちまったね。なに、アタイは恩知らずって訳じゃない。少しはお礼でもしないとね」
「何だと」
この樽女は急に何を言い出すんだ。頭がハイになるあの草を大量に摂取でもしたのだろうか。
だが次の瞬間、俺は目の前の樽に完全に虚を突かれた。そして俺は此の時の己の不覚に対して、長らく後悔の念に苛まれる羽目に成った。
不意に立ち上がった樽に、俺は肩と頭を掴まれた。そして想定外なムーブに反撃する間も無く、俺の唇は樽のブ厚いソレによって塞がれた。
余りの衝撃に暫し脳と神経束が電気信号を止め、記憶が幾らか吹っ飛んだ後。キュポンと軽快な音と共に、俺の無垢なる唇は地獄の責め苦から解放された。
「ゲハハハッ!女に縁が無さそうなお前さんには、最高に嬉しいご褒美だろ」
俺は空を見上げた。
其処には透き通るような美しい冬の青空と、高層を流れる優美な雲が視界に拡がり・・・ジワリと滲んで何も見えなくなった。
「何だい、コッチ見て。旦那もシテ欲しいのかい。勿論、旦那にも感謝してるよぉ」
「ムグー!?ムグー!」
耳朶には何やら樽達の喧騒が聞こえて来たが、最早俺には何の意味を成して居るのか、何も頭に入って来なかった。
こうして俺は此の世界に飛ばされてからまた一つ、大切な物を喪った。
____俺の清らかなハートを粉々に打ち砕いた悪夢の翌々日の早朝。旅の荷物を担いだ俺は、商人ギルドの門の前に立った。本来は昨日出立する予定であったが、昨日は丸一日寝台を涙で濡らした為、結局出発が一日遅れる羽目になったのだ。
俺の前には、おっちゃんと樽の野郎が出立を見送りに来ていた。
「いよいよ出発ですね。道中くれぐれもお気を付けて」
「ああ」
俺はおっちゃんに応じると同時に其の顎に向けて、小さなモーションでショートアッパーを放った。
パンッ
おっちゃんは軽くダッキングしながら、掌で俺の拳を受けた。うむ、悪く無い反応だ。
「おっちゃん。長生きしたければ、努々鍛錬を怠るなよ」
「ハハッ。分かっておりますよ」
「樽。何度も言うがおっちゃんを頼むぞ。もしおっちゃんの身に何かあったら お前をぶっ殺すからな」
「ハンッ、誰に物言ってんだい」
「カトゥー君。きっと、きっと無事にまた会いましょう」
「ああ」
俺達三人は特に示し合わせる事も無く、互いの拳を合わせた。何時しか俺達山岳横断隊の握手代わりと成った所作だ。
そして俺はおっちゃん達に背を向けると、一つ手を挙げて振り向く事無く其の場を離れた。
目指すは大国エリスタルに名高い華と芸術の都リュネサス。新たな出会いの期待と予感を胸に抱きつつ、俺はアプリリスの町を旅立った。




