第207話
俺とおっちゃんの二人は、夕餉を済ませた後にアプリリスの町に居を構える商人ギルド支部の客間で顔を合わせた。此の部屋は、ギルドの建屋の中で最も手狭な客間らしい。机と椅子が一式据えられただけの狭くて殺風景な部屋だが、小奇麗に清掃されている。
「おっちゃんは此の先、どうするつもりなんだ」
今更互いに遠慮し合う仲では無い。俺は面倒な前置きを端折って、単刀直入に訊ねてみた。
「そうですねえ・・当分の間は此の町に留まるつもりです」
「ふうん、何故だ」
「記憶が鮮明な内に大山脈で記録した諸々の情報を精査したいですし、この町を離れるにも再度旅の仕度を整えねばなりません。それに加えて私の隊商は今や殆ど孤立無援ですから。行く先が重なる旅人が現れるのを待って、同行させて貰えるよう交渉しなければならないのです。ですが、今の季節は外からこの町を訪れる人が極端に少ないですからね。其のお陰で、今はどの道身動きが取れません。」
実は先日おっちゃんから是非専属の護衛にと誘いがあったが、悪いけど断りを入れされて貰った。今は互いの目当ても目的地も異なるからな。
「と、なると最悪春先まで足止めなんて事態も 有り得るのか」
「ええ。そう考えると、ギルドの支援を取り付ける事が叶ったのは本当に僥倖でした。大山脈の情報の他に、幾らかギルドの業務を手助けする条件との引き換えではありますが。お陰で暫く此処に留まり続けても、左程支障は有りませんよ」
「成る程。では例の件については」
「勿論、心得ておりますよ」
おっちゃんは口の前で人差し指を立てた。敢えて言うまでも無く、極秘事項である例の迷宮の事である。ほう、そういった秘匿の所作は故郷と同じなんだな。
「そう言うカトゥー君は、今後どうするつもりなんですか?」
すると、今度はおっちゃんが訊ねて来た。
「あと何日か情報を集めたら、此の町を離れようと思ってる」
流石に無策の行き当たりばったりで旅に出るつもりは無い。しかし何時までもチンタラ留まるつもりも無い。恥と遠慮を打ち棄ててタダ飯をモリモリ喰らう余所者に対するギルドの連中が向ける目は、日増しに険しくなって居るのだ。身内であるおっちゃんを除いて。まあ其の程度の虚弱な視線では、樽の極厚な面の皮は小揺るぎもしないのだが。
そして情報収集と言っても今の季節は町の飯屋や飲み屋は軒並み閉店状態だし、住人は他の町に出稼ぎに出てるか屋内に引き籠って居る。しかも狩人ギルドには全く期待出来無いので、収集の場は主に商人ギルドである。出来れば伝聞のみならず街道の地図なりを手に入れるか或いは模写させて貰えると非常に有難いのだが。首尾良く手に入るか否かは交渉と代価次第てところか。
「カトゥー君は、よもや独りで旅立つつもりですか」
「ああ」
「う~む、普通なら単身で街道を旅するなど、自殺に等しい行為なのですが。しかしカトゥー君ですからなあ。君ならどうとでもしてしまいそうな気がします」
「問題無い。俺は逃げ足には 自信が有るからな」
「それは私も充分に分かっておりますよ。そうは言ってもどうかお気を付けて。幾人もの屈強な護衛が付く隊商ならば、野党の類に強襲される事など滅多に有りません。ですが、たった独り街道を旅するとなれば、襲ってくれと周囲に喧伝してるようなものですから」
「うむ。忠告ありがとう。でもまあ、今迄も散々襲われたからな。今更だろう」
「逆に今迄よく無事で居られましたなあ。流石、と言うべきでしょうか。それで、カトゥー君は以前伺った通り、エリスタルの王都を目指すのですか?」
「そのつもりだ」
「そうですか。・・・・もし、差し障り無ければ。カトゥー君が途轍もなく危険な大山脈越えを果たしてまで、王都を目指す理由を教えてくれませんか?込み入った事情が有るのならば、微力ながら私でも何らかの助けに成れるやも知れません。勿論、君が口外したく無いのであれば、此れ以上無粋な問いはしませんが」
おっちゃんは俺を真っ直ぐに見据えながら、俺に一助を申し出た。
え!?
え~と。俺は焦り、口籠った。一体何を思ったか、おっちゃんが滅茶苦茶真剣というか、キラキラした真摯で熱い眼差しを向けて来るのだが。王都に向かう理由?そら美女が集う王都でイイ女見付けて、一発ヤって、童貞卒業で~い!・・・なんて此の場の空気感と、護衛の誘いをにべも無く断った件も相まって、正直滅茶糞言い辛い。かと言ってそんな目で見詰められたら、黙って煙に巻いたり適当な嘘で誤魔化すのも、其れは其れで非常に遣り辛い。
進退窮まった今の俺は、恐らくとてもとても深刻な表情をして居るのだろう。暫しの苦悩と葛藤を経て、俺は鉛の如く重くなった口を漸く開いた。
「お、女・・・・だ」
俺は蚊の鳴くようなか細い声を、どうにか絞り出した。
「女性、ですか。いやはや成る程。王都に想いを寄せる女性が居られるのですか。それは誠に申し訳ありません。私は大変不躾な質問をしてしまいましたな。・・・・はて、しかしカトゥー君は、辺境のさらに西方の出自と言ってましたな。それに、大山脈を越えたのは今回が初めてのハズ。一体どの様な経緯で王都の女性と交誼を結んだのでしょう?」
「う・・・」
「それに辺境からエリスタルの王都は余りに遠過ぎます。誠に失礼ながら、10級狩人のカトゥー君では、それ程に距離を隔てた女性との関係を維持するのは難しいのではないでしょうか。第一辺境に在っては、真面に相手の消息を掴む事すら困難でしょう。カトゥー君は今迄その女性と何かしら連絡を交せて居たのでしょうか。でなければ、その女性が未だ王都に居る根拠は有るのですか」
「い、いや 違うんだ」
「ん?違うとは」
「・・・・」
「カトゥー君。君の想いの深さはその表情を見れば分かります。しかし私から申し上げるのは大変心苦しいのですが、君が王都に辿り着いたとしても、想いを寄せる女性と再び逢うのはとても難しいのでは・・」
「違う、そうじゃない!!」
「カトゥー君!?」
「・・・・俺は、俺は・・童貞なんだ!」
俺は以前世話になった、鍛冶師のトト親方の弟子である小坊主から教わった忌まわしき単語を苦渋の決断の末、口から絞り出した。
「へ?」
おっちゃんは間の抜けた声と共に、ポカンと呆けた表情となった。
「俺には王都に想いを寄せる女など、おらん。いや、それどころか、この世に生まれ落ちて以来、女と深い仲に成った事など 唯の一度も無い」
「・・・・」
「ある時、俺はある友人が女人と本懐を遂げる 手助けをした事が有ってな。そしてその後、其奴の癪に障る自慢話を何度も聞かされる内に、俺は己が童貞である事に 深く悩む羽目に 成ったのだ。そんな折、俺はとある情報筋から エリスタルの王都には 美女が大勢居ると 聞いて・・それで・・」
ああ、年嵩のおっさんと二人きりで、俺は一体何を言わされているのだろう。放課後ベテラン教師に性の悩みを打ち明ける、トチ狂った童貞BOYじゃあるまいし。滲む涙を堪えるのに、少なからぬ精神力が必要であった。
「プッ」
「・・・・」
「あはははははっ!!」
俺の話を聞き終えたおっちゃんは、暫くの間プルプルと震えた後、盛大に噴き出した。この野郎。何発かブン殴っても良いかな。良し殴ろう。
「は、はっ。いや、大変失礼致しました。この通り、深くお詫び申し上げ、ぐがっ、ますっ。でも、でも長年行商に携わって来ましたが、そんな下ら、いや凄まじい理由であの大山脈を越えた人族なんて、私初めて耳にしましたよ!」
おっちゃんは盛大に吹き出しつつも、物凄い勢いで俺に向かって頭を下げた。勢い余って机にドガンと額を激しく叩き付ける程だ。そんな様子を目の当たりにして無礼者に制裁を与えるべく腰を浮かせた俺の気勢も、少なからず削がれてしまった。
「そ、そうかな」
「カトゥー君はあの迷宮都市に居たのでしょう。決まった相手が居ないのであれば、妓館にでも足を運べば宜しかろうに」
「そんな度胸は無い」
「フフフッ、いやはや全く。その結果あんな生死を賭けた大冒険をなさったのですか?カトゥー君の言葉を借りれば、実にブッ飛んでますね」
「・・・・」
いや、待って欲しい。俺は何も望んであの訳分かんねえルートでヤバ過ぎる山越えを敢行した訳じゃないぞ。確かに結果として何度も死に掛ける羽目になったが、本来は隊商に寄生して、安全安心な商人の道を悠々と踏破する腹積もりであったのだ。勝手に人を命知らずな変態扱いするのは止めて頂きたい。いや、そう言えば商人の道のルートも死亡率3割位有ったっけ。まあ今更細かい事はどうでも良いか。
「フフフ素晴らしい。私も若い頃には何時だって胸の内に在った、向こう見ずな熱い滾りを思い出しますよ。あと20年。いや、せめて10年早く貴方と出会いたかった。今迄生きて来た半生を後悔して居る訳ではありませんが、もし貴方と一緒なら、停滞や退屈などとは無縁の人生で居られたかもしれません」
「いや、幾ら何でも買い被り過ぎだろう。その代り山では何度も 死に掛けたんだからな。毎度あんな真似をしてたら、命が幾つ有っても足りない」
万が一脳内で好き勝手に構築された偶像を崇拝何ぞされては堪らんので、キッチリ釘を刺してみたのだが。オイおっちゃん。ちゃんと俺の話聞いてんのか。
「さて、カトゥー君の事情は凡そ分かりました。そんな君に対して、私から一つ情報を提供しましょう。エリスタルには、華と芸術の都と謳われるリュネサスの町が在ります。リュネサスは其の異名が示す通りあらゆる流行の最先端であり、美麗な建築物や美術品が無数に存在します。そして勿論、華やかで見目麗しき美女達も・・」
俺の牽制を完全に黙殺したおっちゃんは机に両膝を立て、両手を口元で組んだ姿勢で俺に語り掛けて来た。いや、そんな事は最早どうでも良い。
「その話、詳しく聞かせて貰おうか」
俺は身を限界まで乗り出して、其の言葉を一字一句たりとも聞き逃さぬよう、おっちゃんの顔面の至近距離まで顔を寄せた。




