第194話
時は少々遡る。
天候は快晴、風は微風。視界一杯に拡がるのは相も変らぬ雄大な峰々と、そして殆ど間断無く耳に木霊するのは、チキンなハートを容赦無く削りに掛かる雪崩の轟音。そんな文字通り手付かずの大自然の真っ只中。俺達は次なる高峰を乗り越えるべく、雪と氷で塗装された岩の斜面を這い進んで居た。
するとその時。俺は突如、強烈な耳鳴りに襲われた。そしてその直後。俺達の目前に出し抜けに不気味なガスが大量発生し、猛然と渦を巻き、そして生き物の如く踊り狂い始めた。余りの出来事に足が止まった俺達が其の光景を呆然と眺めて居ると、あっという間に周囲は厚いガスに覆われ、風が唸りを上げ始めた。オイオイオイッ、フザケんな!幾ら山の天候が変わり易いと言っても限度があるだろ。秒で嵐になるとか対応出来る訳無えだろうがっ。
と、泣き言を幾ら喚いた所で大自然が忖度などしてくれる筈も無し。其処で、俺達は慌しくビバーグ出来そうな場所を探す事に相成った。当初は雪洞を掘る事も考えたが、正直掘るのが面倒な上、今居る場所は岩と氷ばかりで雪が全然足りない。だが幸い、絶賛登攀中の山稜は基部に取り付いてから間も無いので、俺達の体力には未だ充分に余裕が有る。それに、少し下れば風雪や雪崩、落石から身を守れそうな岩陰や窪地が幾らか在ったハズだ。
てな訳で。急速に勢いを増しつつある吹雪の中をビバーグ地点を求めて歩き回っていた俺は、推定高低差100m程の岩壁の底部に良い塩梅でぽっかりと口を開けた洞窟を幸運にも発見した。其の洞窟は遠目には岩壁に走った細いクラックに見えなくも無かったが、間近まで近付いて覗き込んだところ、其の内部は思いの外広い様に見える。尤も、暗くて奥の方迄は見通せ無いが。何れにせよ、此処ならば吹雪だけでなく、雪崩や落石も充分に避けられそうだ。とは言ったものの。
やたら静かな洞窟の内部は、強風が吹き荒れる地表とは一転して、如何にも空気が淀んで見える。その為、目の前の洞窟に無警戒のまま突入するのは、余りに危険に思えた。嘗て俺が山暮らしをしていた際に拠点としていた洞窟は、上手い具合に空気が通り抜ける構造だったのだが。
俺は暫し悩んだ末、断腸の思いでボロ布を取り出すと、その一部をナイフで裁断した。そして回復魔法偽装用の傷薬(獣脂製の軟膏)を布に塗りたくり、相棒の先端に括り付けた後、発火の魔法で着火した。おっちゃん達には一旦此の場で待機して貰い、俺は此の火を前方に掲げながら洞窟の中を慎重に進む事にする。此れで洞窟内の暗闇を照らす灯りの代わりに成るし、検知器代わりにも成る。嘗ての俺ならばこんなショボイ光源では殆ど何も見えなかったろうが、今の俺は滅茶糞夜目が利くのだ。そして万が一不意に火が消えたら、燃焼に必要な酸素が欠乏して居るか、或いは危険なガスが洞窟内に溜まっている可能性が有るので、即座に撤退する。因みに灯りだけならば魔導ランプの方が遥かに明るいのだが、背負い籠の奥に仕舞って有るので取り出すのが非常に面倒臭いのだ。
今の目的は吹雪を避けてビバーグするだけなので、もし此処が広大な洞窟だったとしても、左程深入りする気は無い。
洞窟の内部に足を踏み入れ、慎重に奥に向かって進んで居ると、直ぐに違和感に気付いた。洞窟の中には至る所にデカい石が転がって居るのだが、其れ等の形状が妙に整っているというか、人の手が入って居る様に見えるのだ。此処は完全に人跡未踏な僻地のハズなのだが。
いや、待て。此処は地球ならぬ異界の地。地球人の尺度では及びもつかぬ事が有っても何ら不思議では無い。もしかするとUMAやら現役類人猿のお住まいなのかも知れんし。何なら洞窟の奥に足を踏み入れたらUMAが一家団欒で普通に飯食ってたり・・いや、無えな。そもそも入口付近に其れらしき出入りの痕跡なんて全く無かったし。
などと考えつつも薄暗い洞窟の中、入口から届く僅かな光と火の灯りを頼りに慎重に歩を進めると、予想に反して間も無く行き止まりとなった。そして、其処で俺が目にしたモノは。
「何だ、コレは」
手持ちの光源では暗くて全容は不明だが、洞窟の奥には結構な広さと思しき空間が拡がって居た。相棒の先端に灯った火を掲げてみると、天井迄の高さは推定4m位は有りそうだ。そして固い岩の地面には、明らかに人工物と思しき多面体の石が幾つも転がっている。そして更に奥に向かって10m程歩いた其の空間の最奥には。
まるで古いトンネルの様な石造りのアーチ状の構造物と、其の突き当りには黒光りする巨大な一枚岩が聳えていた。火に照らされた箇所を見る限り、一枚岩の表面は凹凸が無い滑らかな平面であり、洞窟の行き止まりと言うよりは、石室の壁にしか見えんな。
ううむ、コレって明らかに人工物だよな。門・・か何かだろうか。だがよく見ればアーチ状の構造物は奥の黒い一枚岩にぶち当たって居るので、門と言うよりは岩を飾るオブジェと言った方が相応しいだろう。そもそもアーチを潜っても壁の一枚岩で行き止まるので、何処にも通り抜けられないし。
見れば見る程に目の前の構造物は人工的な代物にしか見えんが、かと言って此の場に俺以外の人族が足を踏み入れた痕跡は皆目見当たらない。構造物の石の摩耗具合から見るに、どうやら古い遺跡の類なのかも知れんな。何故大山脈の途方も無い奥地にこんな代物が在るのか、皆目見当も付かんが。
アーチ状の構造物は石を組み上げただけの簡素な造りで、罠の類は無さそうだ。全力で蹴りをぶち込んだら崩落しそうではあるが。まあ万が一罠が有ったにせよ、構造物の見た目から判断するに、とうの昔に風化して用を為さなく成って居るだろう。
その後、暫しの葛藤の末に好奇心が警戒心をぶっちぎった俺は、興味本位で綺麗な黒い一枚岩を間近で観察する為に、大人三人位は並んで通れそうな構造物のアーチを潜ってみた。すると、その時。
奇妙な身体の浮遊感と共に、目の前に在ったハズの景色が、瞬時に別のモノへと変わって居た。
まるで一瞬、意識を飛ばされたの様な不気味な感覚。俺は反射的に鞘に収まったままの相棒を構える。先端のボロ布に灯った火は何時の間にか消えていた。そして目前には先程まで確かに在った筈の一枚岩が何処かへ掻き消え、代りに風化し、永い時を経たと思しき石の階段と、アーチ状に造られた通路が上方に向かって伸びて居る。まるで先程潜った構造物に沿って続く通路の様だ。其の行く手からは淡い光が差し、階段の先が左程長く無い事を伺わせる。
突如身に降り掛かった余りに想定外の事態に、暫しの間我を忘れて固まって居た俺であったが。今度は警戒心が好奇心を軽くぶっちぎった為、怪し過ぎる階段を登る事無くその場で180度回頭してみた。すると、先程見た巨大な一枚岩と同じ材質と思しき黒光りする岩壁が目の前に在った。
嫌過ぎる予感を振り払い、意を決した俺は岩壁に向かって歩を進めた。すると。
再び奇妙な浮遊感を感じた俺は、気付くと闇の中に立って居た。額には脂汗が滲み、心臓は早鐘を打ちまくる。が、どうにか慌てず騒がずを取り繕い、右手に回復魔法を発動して周囲を照らしてみた。すると、先程迄の記憶に在るアーチ状の構造物が、淡い光の中に浮かび上がった。其の姿を確認した俺の口からは、安堵の息が盛大に吐き出された。
何が何やらサッパリ分からんが、どうやら元の洞窟に戻れたか。独りで二重遭難などという最悪な事態は避けられたらしい。俺は心を落ち着かせる為、背負い籠の奥からゆっくりと魔導ランプを取り出して起動した。
「あっカトゥー君。良かった。中々戻って来ないから心配してたんですよ。それで、中の様子はどうでしたか」
程無く洞窟の入口まで戻ると、待機して居たおっちゃんが笑顔で出迎えてくれた。
「ううむ、それなのだが・・」
一体何と答えたものやら。
「二人共安全ならさっさと奥に入ろうぜ。此処は寒過ぎるってえの」
樽は俺の返事を待つ事無く、ズカズカと洞窟の中に入って行った。確かに洞窟の外は既に激しく吹雪いており、相当に寒そうだ。
「どうかしたんですか?何やら随分と難しい顔をしていますけど」
考え込む俺を、おっちゃんが心配そうに覗き込んで来た。
「とにかく、一緒に来てくれないか。おっちゃんに 見せたいモノがある」
そして魔導ランプで周囲を照らしながら二人と一匹を先導した俺は、再び件の構造物の前まで戻って来た。
「この場所は、一体・・」
酷く驚いた様子のおっちゃんは、頻りに周囲を見回している。逆に樽は石や構造物には全く興味が無さそうだ。
「このまま俺の後に 付いて来てほしい。少しばかり奇妙な事が起きるかも知れんが、急に逃げたり 取り乱したりしないでくれ」
そして再び構造物のアーチを潜って一枚岩に近付いた俺は、気付くと先程見た奇妙な階段の前に立って居た。そして程無く、おっちゃん達がまるで素人編集の継ぎ接ぎ動画の如く、何時の間にやら俺の背後に佇んで居た。おっちゃん達は酷く混乱し、狼狽している様子。勿論、俺も混乱している。
「行くぞ」
だが、二度目の体験というアドバンテージを最大限生かした俺は、訳知り顔を装って光が射す階段の先を親指で指し示した。独りで突撃するのは怖過ぎるので、差し当たっておっちゃん達を巻き込んで行こう。死なば諸共の貴い利己的精神である。勿論、全てをスルーして天候が回復次第洞窟から立ち去る選択肢も有ったのだが、俺の漲る好奇心が其れを許してくれそうに無い。一応、元の場所へ引き返せる事は確認出来たし、どうにかならあ。
そして階段を登った俺達の前に拡がっていた光景は。
ボロボロに風化した石造りの建造物・・の残骸。そして一面見渡す限りの白い草原。天空には深い藍色の空が拡がり、不気味な赤銅色の太陽が輝く。先程迄の肌を刺すような冷気は全く感じられ無いが、妙に息苦しい。
此処は、何処だ。
あらゆる意味で異常過ぎるだろ。俺達、今の今迄確かに洞窟の奥に居たよな。いきなり、外だし。山、無いし。空、変だし。俺独りならば、或いは夢だか幻覚の類で済ませられたのかもしれんが。
背後を振り向くと、おっちゃんと樽がポカンとした間抜け面で呆けている。モジャは何時も呆けているので普段通りだ。まあ夢や幻覚じゃあ無いよな。踏み締める石畳、肌を撫でる風、鼻腔を擽る臭い。何れの感触も、余りにリアルに過ぎる。
俺は無言で背負い籠を地面に降ろすと、傍に在る風化して程良く角が取れた石に腰掛けた。そして、アスクリンで温水を口腔内に発射して喉を潤し、リラックスしてふぅと一息付く。おっちゃん達は未だ固まったままだ。・・・いい加減、早く現実に帰って来て欲しい。すると漸く。
「カトゥー君。一先ず、元の洞窟まで、戻りませんか?いや、戻れるのでしょうか」
おっちゃんが滅茶苦茶震える声で俺に訊ねて来た。オイオイ、幾ら何でも動揺し過ぎだろ。
「多分、問題無い。じゃあ一旦、戻ろうか」
その後俺達は一言も発せぬまま、元の洞窟へと引き返した。
元の洞窟へ戻ると、おっちゃんと樽は露骨に安堵した様子を見せた。まあ俺も先程は焦りまくったから、気持ちは分かる。
「カトゥー君。少しの間、その魔道具をお借りしても宜しいでしょうか」
洞窟へと戻ってから間も無く、おっちゃんが魔道ランプの貸与を求めて来た。特に断る理由も無いので、快く承諾する。するとおっちゃんは、アーチ状の構造物や地面に転がる多面体の石を照らして熱心に調べ始めた。
「カトゥー君、カトゥー君っ!コッチです。これを見てください!」
その様子をボケッと眺めながら樽と一緒にお湯を飲んで寛いでいると、おっちゃんからデカい声でお呼びが掛かった。どうやら随分と興奮して居る様子。
「何か、見付かったのか?」
「これを見てください!間違い無い。これは神代文字ですよ!」
興奮したおっちゃんが照らす石には、今迄見た事の無い、恐らくは象形文字であろう奇妙な文字が刻まれていた。
「読めるのか?」
「いえ、私には残念ながら読めません。それに、神代文字は専門家ですら未だ一部しか解読出来ていませんから。ですが、特徴くらいなら私でも見分けられます」
「おお凄いな。だが読めないのであれば、結局アレが何なのかは 分からないか」
「そうでもありませんよ。文字は読めませんが、凡その推測は出来ます。」
すると、突如おっちゃんが俺の両肩をガシッと掴んで俺を正面から見詰めて来た。何だか其の目が爛々と輝いて、チョット怖いのだが。今直ぐにでも俺の無垢なるケツ穴に食指を伸ばして来そうな勢いだ。
「神代文字以外にも改めてあの門の構造の検分をしてみましたが、恐らく間違い無いでしょう。アレは、神話の時代に神々が創造した迷宮の一つですよ!これは、途轍もない大発見ですよっ!!」
大興奮のおっちゃんは俺の肩をブンブンと揺さぶりながら、大量の唾を俺の顔面に浴びせて来た。因みに今は歯磨き草の備蓄も無いので、おっちゃんの口はとても臭い。俺も他人の事は言えないけど。
「あ、ふ~ん・・」
だが、おっちゃんに応じた俺の口からは、思った以上に気の無い言葉が洩れた。




