第190話
大山脈の険しい高峰を下山する俺は、天候の急変に拠る猛烈な吹雪の真っ只中。
寒さ或いは疲労に為に意識を失った護衛対象である行商人のおっちゃんと護衛仲間?の樽を前に、暫し途方に暮れていた。
おっちゃんを見捨てる事など勿論出来ない。樽を放置するのは少々後味が悪い。しかし天候は最悪。視界はホワイトアウトでほぼゼロ。行く先は険しいどころかほぼ岩と氷の断崖。そしてルートはとうに見失い、同行の二人は昏睡状態。此の状況で、一体どうしたものか。
すると、俺の背中に突如何かが触れた。背後を振り向いて吹き付ける雪のカーテンを注視すると、其処にモジャが佇んで居るのが分かった。
「モジャ!お前は無事だったか」
流石は山岳特化の謎生物である。これ程の悪天候と寒さに対しても強靭な耐久力を誇るらしい。俺は手探りでモジャの顎を撫でてやる。すると、モジャは撫でられる事には構わず、倒れ伏すおっちゃんの身体を鼻先でグイグイと押し付けて来た。
「分かってるよモジャ。俺がおっちゃんの事を見捨てる訳無いだろ」
どうせ風の轟音で聞こえないだろうけど。俺は故郷の言葉で主人に忠実なモジャの仕草に応えた。よおし、肚は括ったぜ。
俺はおっちゃんに貸与したピッケルを回収すると、暴風が僅かに弱まった隙にモジャの荷物から天幕の一部を引っ張り出し、おっちゃんと樽の身体を簀巻状に覆って縛り付けた。此れ以上の体温の低下を僅かでも防ぐ為だ。そして背負い籠と共におっちゃんを背中にロープで固定して担ぎ、腰には簀巻き状態の樽から伸びたロープを固定する。また、俺とモジャを別のロープで固くアンザイレンし直す。
「行くぞモジャ。俺の後に付いて来い」
号令は聞こえないだろうから、改めて繋がったロープをグイと引いてモジャに出発を促す。こうして俺は意識を失った二人を搬送しつつ、猛烈なブリザードの中を一匹を伴って再び歩き始めた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
耳がイカれそうな爆音を伴い、冗談みたいな速度と圧で雪煙が地表を疾る。暴風のエネルギーを存分に享受した雪の散弾が、全身に隈無く叩き付けられる。
背中におっちゃんを担いだ俺は、樽を引き摺りながら白い暴風の中をひたすら前進し続けた。一刻も早くビバーグ出来そうな場所を探し出しておっちゃん達に何らかの治療を施さなければ、此のままでは二人の命は風前の灯火だ。かく言う俺も、身体を温めるオリジナル魔法である懐炉の術が無ければ、あっという間に二人と同じ轍を踏んで居た事だろう。
そして魔法のみならず長き鍛錬の日々と無数の殺戮の果てに人外めいた体力と持久力を手にした俺ではあるが、此の状況に至っては最早余裕など欠片も無い。前が見えねえ。身体が重い。息が苦しい。吸っても吸っても全然楽にならねえ。高地の酸素の薄さが嫌でも身に染みる。
身体を激しく叩く風の塊はまるで巨大な壁の様だ。足が全然前に進まねえ。疲労の蓄積のせいか、身体がやたら重く感じる。回復魔法で早急にリフレッシュしてしまいたい所だが、今の状況を鑑みると魔力は可能な限り温存せねばならぬ。もし今魔力が枯渇してしまったら、その時点でおっちゃんや樽は無論の事、俺の命運も間違いなく尽きるだろうからな。
ああ、こんな事に成るなら登る時に魔力をもっと温存しておくんだった。喉は渇いてカラカラだし、呼吸する度に肺がキリキリと痛む。それでも今はまだ、歩みを止める訳にはいかねえ。コロコロと向きを変える風は其の強さも一定では無い。時折風速が弱まった僅かな間だけ、視界が拓ける瞬間がある。先程一瞬だけ垣間見えた、巨大な岩塊が突き出た場所。アソコならどうにか風を凌いでビバーグ出来そうだ。方向は此方で合ってるハズ。GOGOGO!
すると次の刹那。今迄の暴風が嘘のように凪いで、俺の前に大きく視界が拓けた。
突如絶好の機会を得た俺の脳は、眼前の地形を記憶すべくフルスロットルで回転を始める。周囲の景色がスローになり、目的の岩塊がクッキリと視界に収まる。
いける。目標への到達を確信した、その時。
渦を巻くような不気味な白いガスが、冗談のような速度で此方に迫って来る光景が見えた。そして前方に在ったデカい氷塊がガスに触れた瞬間、視界から忽然と消え去る様を見た俺は。股間のボールがキュウウッと収縮し、後頭部の毛髪が一斉に逆立つのを感じた。
俺は咄嗟に雪面にへばり付くと、両手に握る苦無とピッケルをありったけのパワーで地面に叩き込んだ。
そして次の瞬間。
ゴオォォーーーーーー!!!
至近で二千ポンド爆弾が着弾したかの如きとんでもない爆風が俺の鼓膜を滅茶苦茶に引っ掻き回し、這いつくばった身体を雪面から強烈に引き剥がしに掛かった。
ぐぬおおおおっヤバいヤバいヤバいっ!あああ剥がされるううっ。ぬおおお耐、え、ろおおっ。今飛ばされたら絶対死ぬっ!
糸の切れた凧の如くカッ飛ばされそうになった俺が歯をバリバリと食い縛りながら爆風に耐えに耐えて居ると、突如俺の両腕に更なる強烈な負荷が襲い掛った。
くええええっ!?うでっ腕がっ、捥げるっ捥げちゃうううっ!ギエエエエッモジャアァァッお前飛ばされてるだろっ。手前ボケカス俺より糞重いクセに、簡単に飛ばされてんじゃねええぞおおっ!!あがががっ!やめてやめて死んじゃうウゥ!
両脚は耐え切れずに空を泳ぎ、最早何が何だか分からぬ破滅的な負荷を受けた両腕からは、体内を通じてバリバリと絶対に聞きたくない音が滅茶苦茶アタマに響いて来る。そして更に。
痛っ、痛ったぁ。痛い痛いイダダダダッ!?
激痛と恐怖により涙を溢れさせながら過負荷に耐える俺の顔面に向かって、石だか氷やら何やら分からん代物が、間断無くバチバチと高速でぶち当たって来た。ああああっ滅茶糞痛ってええんだけど!盾で身を守ろうにも腕が其れどころじゃないし、下手に頭を下げたら今度は背中のおっちゃんに直撃しちまう。
突如訪れた永遠に続くとも思われた地獄のフルボッコタイム。五人位のボクサーから同時にボコられるパンチングボールの様な有様で叩きのめされ、翻弄され続けた俺は、ふと気付くと上半身が半ば雪に埋まりながら雪面に突っ伏していた。どうやら一時的に気を失っていたらしい。周囲は相変わらずブリザードが吹き荒れているが、先程のような桁外れの爆風は鳴りを潜めている。てか今の状況でも十分にヤバい筈なのだが、妙に静かに感じられてしまうのが先程の爆風のヤバさを物語る。
俺の両手は雪面に突き刺さった苦無とピッケルを握り締めたまま、固い雪面を深く抉りながら引き摺られた跡がある。・・我ながら良く吹っ飛ばされずに堪え切れたな。
先ずはカチコチになった指を苦無とピッケルから引き剥がし、腕の状態を確認する。ピクピクと辛うじて指は動くが、手首と肩、そして肘関節が滅茶苦茶痛え。懸念された両手から発動する回復魔法は・・此方はどうにかなりそうだ。立ち上がると、足元には俺由来と思しき夥しい血痕が飛び散って中々に酷い有様だ。頬を撫でると幾つもの裂傷が刻まれているのと、食い縛り過ぎたせいか、幾つかの奥歯がグラ付いて居るのが分かった。余裕が出来たら後で治しておこう。酷く損傷した両腕は、行動に支障無い程度に回復魔法で治療しておく。
次いでおっちゃんと樽の状態を確認する。背中からおっちゃんを降ろし、樽と繋がったロープを手繰り寄せる。二人共顔に幾らか凍傷が見受けられるが、調べて見るとどうにか脈はあるようだ。暖を取るために二人の身体を天幕で包んでおいて本当に良かった。念の為、二人にも一発ずつ回復魔法をぶち込んでおく。
モジャは繋がったロープの先でへたり込んで居たが、俺の姿を眼に留めると弾かれた様に擦り寄ってきた。背中の荷物も飛ばされずに済んだ模様。見た目大きな怪我もして居ない様子だし、随分と頑丈な奴だ。ついでにロープも頑丈で助かった。此のロープはその辺の雑貨屋ぽい店で販売している粗悪品では無く、迷宮都市の高名な鍛冶師トト親方の伝手で購入した高級品である。流石の強度と言わざる得ない。
余りに重大過ぎた当面の危機は去ったとは言え、俺達の置かれた状況が甚だ危険な事に変わりは無い。それに何時また同じ様な爆風に襲われるとも限らないのだ。おっちゃん達の容態の件も有るし、事は一刻を争う。俺は僅かな視界に悪戦苦闘しながらも可能な限り迅速に荷物を纏めておっちゃん達を担ぎ直すと、少々ビビリ気味なモジャを従えて猛吹雪の中を再び歩き始めた。
____先程の一件で、折角目標と見定めた岩塊も何処に在るのか分からなくなってしまった。周囲の視界は相変わらずゼロに近い。俺は長物の得物である相棒を杖代わりにして足元を探りつつ歩き続けるも、先程の一件で気力と体力がゴッソリ削られてしまったような気がする。苦しい息切れは回復する見込みは無く、進む一歩一歩が文字通り足が泥に埋まったかのように重い。何らかの礫で叩かれまくった頭もズキズキと糞痛い。やっぱしケチらずに回復魔法をあと二・三発位掛けておいた方が良いだろうか。尤も、息苦しさに関しては高所由来の症状だろうから、手の打ちようが無いのだが。
それにしても当面の目標を見失い、また振り出しに逆戻りか。視界が効かない事がこれ程までにキツいとは。おっちゃん達の容態は一刻の猶予も無いと言うのに、此のままでは・・。
相変わらずの猛吹雪の中を焦燥に駆られながら進んで居ると、突如背後から身体をグイと引っ張られた気がした。驚いた俺は背後を振り返って良く眺めると、何とモジャが背後から俺の外套を加えて引っ張っている。何事かと立ち止まってモジャの顔をジッと見詰めてみるも、そのボケッとした表情からは何を考えてるのかサッパリ読み取れない。
結局心身共に疲労が激しい事もあり、考えるのが面倒になった俺は気にせず先へ進もうとした。そして次の瞬間、いきなり足を踏み外した。
「うおおっ!?」
身体が滑り落ちる刹那。俺は反射的に苦無を適当にぶっ刺して、辛うじて落下を喰い止めた。崖・・いやクレバスか。
「助かったよ。ありがとうモジャ」
危うく落ち掛けたクレバスから這い上がった俺は、擦り寄って来たモジャの顎を撫でてやる。実際は自力で助かったのだが、動物的な善意からであろう警告に対して、一応感謝の気持ちは伝えておく。
しかしクレバスか。
俺の目の前には氷の裂け目がぽっかりと口を開けている。幅は推定2メートルてトコロか。ううむ、この程度の大きさならば、深さや内部の様子次第ではブリザードからの緊急避難先としてアリかもしれんな。どの道此のままじゃおっちゃん達の命が危ういし。
意を決した俺は、念の為回復魔法で両腕を十全な状態まで治癒すると、おっちゃんを背中から降ろした後、硬い雪面に改造棒手裏剣を打ち込んで簡素な支点を確保した。そして身体に巻いたロープを支点に固定すると、ピッケルと苦無を手に薄暗い氷の裂け目の奥へと乗り込んだ。




