第189話
天候は雪、視界は不良。風やや強し。元々快晴、とは言い難い天候ではあったが、先程迄はどうにか遠方の景色を望める程度には視界が開けていたし、身体を拭き抜ける風もそれ程強くは無かったのだが。下山を開始して間も無く。気流は急速に勢いを増し、雪と流れて来たガスに拠り視界が閉ざされ始めた。
糞っ不味いな。よりにもよって高峰の山頂に近い此んな場所で。もしや底意地の悪い此の世界の神共が、先程の俺の不敬マインドを聞き咎めてとんだ嫌がらせを・・いや、止め止め。今はポジティブに考えよう。此れ程の標高でしかも峻厳な山岳地をひたすら突き進んで来たにも拘わらず、今迄大きく天候が崩れなかったのは寧ろ僥倖と言う他無い。山の天候は変わり易い。どの道こんな場所で何時までも好天が続く訳が無かったのだ。
本格的に天候が荒れる前に何処かでビバーグせねばならないが、遮蔽物が無い吹きっ晒しの雪原では如何ともし難い。それに、此の標高では其の場に留まるだけでも身体への負担が馬鹿にならない。早急にビバーグするにせよ、身体の負担を軽くする為に僅かでも高度を下げておきたい。その為、俺は不穏過ぎる天候の中、風雪を凌げそうな場所を探しながら歩く速度を速める。とは言え、余り無茶は出来ない。此処は空気の薄い高峰の最上部である。日頃の鍛錬と他の連中より入念な高度順化に拠り肉体の負荷耐性が高い俺は兎も角、おっちゃんや樽の身体に急激な負荷を掛け過ぎると、あっという間に重い高山病を患いかねない。
焦る俺を嘲笑うかの如く。急速に流れるガスと吹き抜ける風はたちどころに勢いを増し、それに伴って舞い躍る雪が俺達の身体を激しく叩き始めた。乾燥と低温のせいか其の雪質はカサカサで、開発された故郷の雪山リゾートであれば、或いはゴキゲンなパウダースノーに感じたかも知れない。が、此の大山脈で遭難してから知った事だが、此処のカサカサに軽い雪は固まり難いせいか非常に脆弱に崩れ易く、降り積もれば僅かな切っ掛けでアッと言う雪崩れる。何とも恐ろしい雪なのだ。
とは言え、俺達の居る場所は未だ高峰のピークに近い地点である。此処から更に頭上で発生する雪崩は、大規模には成り難いだろう。其の事を考えると、此の場では雪崩の事故で一般的に聞かれる埋まって窒息したり圧死するリスクよりも、飛ばされたり流されたりしてビックウォールから盛大にダイヴしたり、深いクレバスに激しくゴールインする方が遥かにヤバい。もしそんな事態に陥れば、俺とてほぼ間違い無くあの世行きであろう。勿論、雪崩以上に視界不良や暴風による滑落は更にハイリスクな訳だが。
荒れ狂い始めた風と雪は俺達の視界を容赦無く寸断し始める。堪らず俺は声を張り上げて後続の二人と一匹を呼び寄せて一か所に固まると、ロープで全員をアンザイレンする事にした。正直、樽に巻き込まれて落ちるのは滅茶糞嫌だが、ヤバ過ぎる天候の悪化により既にそんな事は言ってられない状況に陥りつつある。この期に及んでは巻き込まれて墜落するリスクよりも、互いを見失ってバラバラの迷子になるリスクの方がより深刻と判断した。
先日、おっちゃんに教わった絶対に解けない結び方で互いの身体をロープでガチガチに固定する。鎧の類を装着して居ないおっちゃんに対しては、万が一滑落した際にロープからの衝撃と圧迫により重大な怪我を負わぬよう、肩と脇を通してハーネスの様にロープを身体に固定する。ついでにモジャと俺が背負った荷が強風で飛ばされぬよう、おっちゃん持参の積荷固定用の獣革製ベルトで固定を更に強化した。そして更に、おっちゃん達に雪を日属性魔法で溶かした熱いお湯をたっぷり飲ませて冷えた身体を温める。
そうこうしている間にも暴れる風はいよいよゴォゴォと激しく唸り始め、視界は俺の視力を以ってしても既に10メートル程度。早く風を凌げそうな場所に移動せねば。
だが遅まきながら、俺は重大なミスを犯していた事に気付く。強風から退避してビバーグするのならば、山の東側を前進して下降するのでは無く、直ぐに西側の斜面へと引き返すべきだったのだ。此処まで苦労して登って来た西側と違い、東側の地形は休憩の間に幾らか偵察したものの、所詮は高所から眺めただけだ。十分に把握出来たとはとても言えない。だが、既に遠方の視界は叩き付けるような激しい雪風に拠り閉ざされており、引き返すルートは判然としない。歯噛みしながら忸怩たる思いに心中を苛まれるも、今更後悔してももう遅い。
止むを得ず下降を再開するも、歩くペースは一向に上がらない。高地である事に加え風は更に勢いを増しつつあり、視界が殆ど利かない有様である。既に現在地が良く分からん上、足元が余りに危う過ぎる。何時足を踏み外して墜落しても可笑しく無いのだ。ならば此の場で雪洞なり掘ろうにも、せめてもう少し風を凌げる場所じゃねえと。それに遮蔽物の無い此の斜面では、掘ったところで下手すりゃ雪洞ごと雪崩で流されかねん。と言うか、そもそも俺達の足元には滑り落ちたのか或いは飛ばされたのか、掘れそうな雪が殆ど無い。在るのは岩みたいにガッチガチに固い雪だけだ。
強風に逆らって歩く、歩く、歩く、歩く。滑落の恐怖にビビりながらひたすら歩き続けるも、此処が何処だか全然分からん。ビバーグ出来そうな場所も全然見付からんし、何だか同じ場所を堂々巡りしてる気さえする。此の天候じゃ氷壁を懸垂下降する事なんぞ到底出来無いので、ちゃんと降れているかすら怪しくなってきた。どうしたものかと背後を歩くおっちゃんを振り返ると、何だか様子が変だ。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ!ゲホッゲッッ!」
「おおい!おっちゃん、大丈夫か。返事をしろ!」
俺は正に青息吐息で上半身がフラフラと定まらないおっちゃんに近付いて肩を掴むと、顔を寄せて声を張り上げた。
おっちゃんは俺の呼びかけに対し、激しく喘ぎながらも力無く首を縦にコクコクと振った。不味いな。どうやら相当に参ってる様子。しかし強風が直撃する此の場に留まり続けるのは自殺に等しい。もう少し頑張ってくれ。と、俺がおっちゃんをどうにか励まそうとすると。
「ブフ~ッ、ブフ~ッ!嫌だ~もおぉヤダ~!オウチ帰る~!」
何時の間にやら俺達の傍に近付いて来た樽が号泣しながら、暴風の中でも矢鱈良く通る声で喚き始めた。
「やかましいっ!一端の女が ピーピーと泣くんじゃねえ!くたばりたくなきゃ 動け。歩き続けろ!」
つうか泣くな。涙を引っ込めろ。泣いたら凍って頬が凍傷になるだろうが。俺は樽の頬をブッ叩いて早くも凍りかけた涙を張り飛ばし、同時に渇入れを行う。
「とにかく今は風を凌げる場所まで 移動するぞ!其処で吹雪を やり過ごそう」
とは言え、二人共に疲労が限界に近そうだ。停滞してこれ以上天候が荒れたらマジでヤバいが、直ぐに動くのも其れは其れで危険か。そこでモジャを風除け代わりにして、三人で小さく身を寄せ合って暫し休息を取る事にした。勿論、二人にホカホカのお湯を飲ませる事も忘れない。其の後、確認の為の意思表示に二人が頷いたのを見て取ると、俺達は再び移動を開始した。
ゴゴオォォォ
地響きの如き轟音と共に雪と風が荒れ狂い、視界はゼロ。叩き付けてくる雪の所為で、景色どころか自分の手すら見えねえ。猛烈なブリザードにより、周囲は遂に完全なホワイトアウト状態になった。と言うか、視界ゼロどころか雪が勢い良く眼球に飛び込んで来るせいで、痛くて目が碌に開けられない。マジ、何も見えねえ。風の轟音以外、何も聞こえねえ。
俺は突風で身体が飛ばされぬ様、耐風姿勢を維持しながら這うように前に進む。耐風姿勢は後ろの二人にも事前に教えてあるので、偶に俺達を襲う突風でもそう簡単に飛ばされることは無い筈だ。とは言え、幾度か滑落したのをチビりそうに成りながら支える羽目には成ったが。
それにしても、出発してから既に結構な距離を歩いた気がするのだが、相変わらず風が避けられそうな遮蔽物が何処にも無い。いや、実は直ぐ傍にあるのかも知れんが、全然見えんぞ糞ボケが。こうなりゃ苦無でカチコチの雪を切り崩してでも雪洞の掘削を試みるべきか。などと考えていると、身体に固定したロープに不自然なテンションを感じた。どうやら滑落した訳では無さそうだが・・。
視界ゼロの中でロープを手繰って移動すると、どうやらおっちゃんは足元の雪面に倒れている様子だ。慌ててロープを辿って手で探ると、辛うじておっちゃんの身体を確認出来たので抱き起こす。
「おっちゃん、生きてるか!俺の声が聞こえるなら 返事をしろ!」
おっちゃんの耳元で叫ぶも、俺の呼び掛けに反応が無い。ヤバい。高山病か、或いは低体温症だろうか。抱えた身体は弛緩してグッタリとしたままだ。
糞っ此のままじゃ拙い。どうする?どうしよう。
・・・そういえば後ろを歩いて居るハズの樽も来ないな。
嫌な予感と共におっちゃんの身体に固定されたロープをグイグイ引っ張ると、轢死したカエルの如くうつ伏せに這い蹲った樽が、ズルズルと引き寄せられて来た。
「・・・糞が」
触診にてその様子を確認した俺の口から、思わず悪態が洩れた。




