第188話
僅かな期間といえ、厳しい山越えの道中を共に過ごして見知った連中の無残な末路を目の当たりにし、更には隊商本体との合流の目途も断たれてしまった俺達だが、何時までもウジウジと落ち込んでは居られない。いや、そんな余裕は無いと言った方が正しいか。
その日の野営地にて。俺達は道中運良く仕留めた雪中を這う土竜のような小動物を捌き、切り詰めていた塩と香辛料を何時もより多目に拠出してちょっぴり豪華な夕餉を拵え、景気付けに掻っ喰らった。そして更には日属性魔法で雪を溶かして沸かし、例の気分がハイになる危険な香草をブチ込んでグビグビと飲み干した。かくして憂鬱な気分を強引に吹き飛ばした俺達は、野営地の周囲にかつて親友の大吾から伝授され、更に原始生活の中で改良を施した手製のブービートラップ(殺傷目的では無く鳴子の類)を設置。蛮族共の襲撃に備えつつ、酷寒の夜を交代で就寝する事にした。
山の日が落ちるのは早い。俺は星明りの下で石礫を手慰みに天幕の傍に立ち、五感を研ぎ澄ませながら周囲を探る。夜間は日中よりも圧倒的多数の獣共が動き出す。願わくば、例え小動物一匹であってもどうにか仕留めたいものだ。
静寂の中で唯独り。自然と、先刻見た光景が思い出される。此の世界に飛ばされてから少なからぬ年月を経て、人の死には嫌でも慣れた。とは言え、無論気分の良い代物では無い。だがあの惨い有様を見た後でも、俺は蛮族共に対して嫌悪感とか、ぶっ殺してやるとか、そういった気持ちは不思議と湧いて来なかった。奴等は仲間が魔物に喰われる事すら厭わず、尚隊商から物資を奪うために襲撃を敢行する。それ程に追い詰められ、死に物狂いである事が分かっていたからだ。尤も、あのお嬢様達を襲った連中が、俺達が見たあの蛮族共であるとは限らないのだが。
確かに無慈悲で残忍、ではあるのだろう。だが、其れでも俺は、蛮族共を悪と断ずる事は出来ない。では惨憺たるあの場において悪とは何だろう。・・・敢えて挙げるのならば、其れは弱さだ。弱肉強食。法も文明も遠い此の地においては、原始的な力のみが秩序である。強き者共が弱者を供するのは、何ら倫理に叛く事では無い。
無論、俺は奴等に大人しく食われる気などサラサラ無い。もし襲って来やがるならば、是非も無し。連中が存分に披露してくれた秩序に従い、どんな手管を使ってでも必ず返り討ちにしてやる。その為には。心を慈悲無き合理で、塗り潰せ。そして磨いた己の野生を、研ぎ澄ませ。
暗闇の中。俺は決意と共に石礫を握った手に、力を込めた。
翌朝。気を取り直した俺達は、東方に聳え立つ巨大な連峰を踏み越えるべく、雪が僅かに舞い散る曇り空の下、東に向かって歩を進めた。
山稜の麓に伸びる氷河を通り抜けた俺達は、行く手に立ち塞がった巨大なクレバスにより大きく迂回を余儀なくされたものの、どうにか連山の基部に取り付く事が出来た。其処から山頂を見上げると、一面の山肌には懸垂氷河が拡がり、更に直上には今にも崩れ落ちそうな巨大なセラック帯が見える。落石や落氷、そして小規模雪崩が頻発する正面から取り付くのは余りにヤバいので、俺達は大きく左手に回り込んで懸垂氷河の端部に聳える岩塔に向かった。岩塔を越え、傾斜のキツい雪壁を登り切れば雪稜に到達するハズだ。其処からは雪崩や落石を避ける為に稜線に沿って登攀を続け、鞍部から東側へと抜ける目論見だ。
此処に至るまで思いの外タフなおっちゃんと樽の体調は良好であるが、その顔面は雪焼けで真っ黒になり、唇はカサカサにひび割れて中々に酷い有様だ。対して俺はと言えば、普段はネックウォーマーで口元を覆っている上に、回復魔法で常に最高の美肌をキープ・・出来るのだが、変に怪しまれたく無いので敢えてちょっと焼けたままにして居る。そこで、二人の唇には猪の獣脂と薬草を調合した軟膏を塗ってやった。此の軟膏は故郷の秘薬と称して回復魔法を偽装する為の代物だが、実際に外傷や打ち身にも効く。嘗て滞在したビタの元開拓村で、狩りの師であるゼネスさんに作り方を教えて貰ったブツである。
岩塔と雪壁を登り切り、雪稜迄は一応順調に到達する事が出来た。とは言え、懸念した通り体力の消耗が相当に激しい。此の手の登攀は通常1ピッチ(ロープの長さ)或いは数ピッチごとに先導役とフォロー役を交代しながら登攀すると聞いたことが有る。とは言えおっちゃんと樽の体力、技術、経験、スピードを考慮すると、必然的に登攀のリードも氷雪のラッセルも全て俺が行わねばならん。いや、漲る体力と身体能力を除外すれば、俺も素人と大して変わらんのだが。
ともかく己自身や二人を支える分にはどうにかなるが、重い荷を除いても体重が三百キロ位は有りそうなモジャの巨体を支えたり、引き上げるのは流石にキツい。加えて相当な高所である。下界ではどうと言う事は無い仕事であっても、急速に体力を奪われ息が上がる。クソッ、酸素が足りねえ。
そして俺達が稜線伝いに登り始めて間も無く。
ドドドッ ゴオオォーーーー
爆音と共に突如、遥か頭上のセラック帯が崩壊し、巨大な雪煙が斜面を奔った。いや、雪どころかまるで豆腐や紙屑の如く雪崩落ちる無数の氷塊や岩塊が、瞬く間に急斜面を飲み込んだ。そして恐怖の余り完全に硬直しながら稜線にへばり付く俺達も、あっという間に雪煙に包まれた。
暫くの後。雪煙が漸く収まり、辛うじて回復した視界の中。恐る恐る背後を振り返ると、引き攣りまくった表情のおっちゃんと目が合った。存分に鍛え上げた肉体と頼もしい魔法の恩恵も相まって、大自然の猛威に対して結構感覚が麻痺して居た俺だったが、今のはマジでホカホカのブツが菊なる門から射出されそうになった。稜線上に居たお陰でマジで助かった。あんなヤバ過ぎる雪崩に巻き込まれたら、どれ程鍛えて居ようが一瞬で万事休すだ。
一旦休憩して色々な意味で心拍を落ち着けた俺達は、再び稜線を伝って目的の鞍部に向けて登り始めた。稜線上は時折氷の鋭いナイフリッジになっていたり、巨大な雪庇が張り出したりと極めて足場が不安定な難所となって居た。あまりに危険な箇所は一旦下降して氷壁をトラバースしたり、更なる迂回を余儀無くされた。寒さと疲労、そして何より恐怖により樽は無論の事、おっちゃんも度々悲鳴を上げるが、何と言われようが今更引き返す気は無い。ひたすら突き進む以外に、俺達が生き残る道は無いのだ。俺は休憩の度におっちゃん達を介抱しながら密かに回復魔法を注ぎ込んで手助けをしつつ、ひたすら登攀を続けた。
其の後、幸いにも大きな事故は無く、そして天候が崩れ無かった事もあり、日没前に具合の良い岩陰に簡易天幕を張ってビバーグし、翌日には無事難所を乗り越える事が出来た。其処から先は比較的傾斜の緩い雪原が続いて居る為、滑落のリスクは少ないのだが、腰上まで埋まる雪のせいでラッセルが滅茶糞キツい。重い雪を掻き分け、踏み固めながらひたすら登り続ける事小二時間程も経過しただろうか。俺達は遂に天空に聳える連山を乗り越え、東へと抜ける鞍部へと到達した。
山嶺の天辺、に近い場所から眺める景色は絶景ではあったが、其の視界の遥か先まで山、山、山、そのまた山であった。まあ予想はして居たので、今更膝から崩れ落ちるような衝撃は無い。以前見た覚えのある天高く聳えるクソデカ山が、今度は随分と間近に見える。先日の記憶よりもハッキリと其の山体が見渡せるクソデカ山は、ある地点を境にまるですっぱりと切り取られたかのように雪と氷が無くなり、頂上付近は剥き出しの岩塊を晒していた。よもや標高が高過ぎて雪が付かないのであろうか。
「なあ、おっちゃん。あの馬鹿デカい山の頂上は、雪が降らないのだろうか」
俺はクソデカ山の頂上付近を指差し、傍でへたり込んでいたおっちゃんに訊いてみた。おっちゃんは此処に辿り着いた直後は息も絶え絶えだったのだが、背中を擦りながらコッソリ回復魔法を注ぎ込んだ甲斐もあり、漸く一息付いた様子だ。
「ハァハァハァ・・いえ、あの頂には・・ハァ、神が、座して居ると思われます」
えぇ・・意外な答えが返って来た。そういえば迷宮都市で聞いた事が有るな。
「ええと、確か豊穣の神だったか。大山脈は巡礼地と 聞いた事が有る」
「ハァハァ・・いいえ。巡礼の終着地たる最も偉大なる豊穣の女神が座す霊峰は、大山脈の最奥に存在すると伝え聞いております。フゥ~フゥ・・それに周囲を幾多の神々の霊峰に囲まれているので、恐らく一目で分かると思いますよ。私も実物を目にしたことは有りませんが」
「へぇ。なら、何でおっちゃんはあの山が霊峰だと 分かったんだ」
「ハァ、ハァ・・大山脈には、フゥ~、豊穣の女神以外にも神々の御座す霊峰が、数多く存在すると言われております。ハァ、その特徴の一つとして、霊峰の神域は雪や氷を寄せ付けないと聞いたことが有ります。恐らくはあの山もその内の一つなのでしょう。フゥ~、その頂に如何なる神が御座すのか、私には知る由もありませんが」
「ふむ」
異界の神か。今は左程興味を引かれんな。どの道今後もあんなヤバそうな山に登る事など無いと断言出来る。あの標高だと確実に死ぬだろうし。まあ、馬鹿と何とやらは高い所が好きなんだろう。などと大いに不敬な事を考えつつ。関心を失った俺は、クソデカ山から視線を外した。
暫く休憩しておっちゃん達の体調が回復したら、さっさと下山を開始しよう。今日の内に、出来る限り下の方まで下降してしまいたい。それに此処を越えてしまえば、蛮族共もそう簡単には追って来られないだろう・・多分。
そして暫しの休憩の後。俺達は山稜の東側の麓に向けて下山を始めた。東面の岩壁は休憩の間ずっと観察していたが、登って来た道よりは若干傾斜が緩く、幾らかは取り付き易い様に見える。だが、しかし。
俺達が雪原を歩き始めてから幾らも経たぬうちに。周囲にガスが立ち込め、視界が悪くなってきた。更には風が次第に強くなり、急激に天候が悪化し始めた。




