第183話
俺が目を付けた大氷壁の北側に聳え立つ峰は、其のピークの直下は垂直な岩壁であり、其処からは緩いV字型に切れ落ちている。更にその下は巨岩のブロックと、氷雪から成る巨大で急勾配な段畑が複雑に絡み合ったような地形となっており、正に雪崩の巣のような様相を呈している。てかつい今しがたドデカい雪崩を目の当たりにしてしてチビりかけたばかりだ。
正面から突撃するのは余りにヤバ過ぎる為、俺達は更に北西方向、向かって左手側のの比較的雪崩が起きにくそうな基部から取り付く事にした。地平に太陽が姿を現すまでにはまだ随分時間がある為、周囲を照らすのは星と月明りのみである。実は俺はちょっとした光源を所持しているのだが、手を塞がれたくないので使うつもりは無い。まあ今の俺は夜目が利くので、月と星からの光が有ればそれで充分だ。
時に人の背丈より遥かにデカい歪な氷柱が林立するアイスフォールを抜けると、程無く目的の箇所が見えて来た。推定高低差100m位有りそうな岩壁である。先ずは此の岩壁の上まで登って、大雑把に言うとその後は斜度のキツい雪渓をひたすら登ってゆく。そして末端まで登り切るとちょっとした高さの氷壁にぶち当たる。其の氷壁を登り切ると、岩壁の直上にある最も高いピークともう一つ見える小ピーク間の鞍部に到達するので、其処から稜線を越えて反対側に抜けて下山する計画だ。当たり前だが今迄誰一人登った事が無い山なので、固定ロープや梯子も無けりゃルートも行作も全てほぼ素人な自分達で考案しなければならないのがツラい。
岩壁には俺が昨日の内にFIXロープを張っておいた。流石に不慣れな樽やおっちゃんに初手からケツをブッ叩いて岩壁登ってこいなどという鬼の所業をする訳にもいくまい。なので此処は俺が先行して支点を確保し、二人には上から伸ばしたロープで身体を固定して貰う。そして上から指示を飛ばしながらFIXロープを伝って壁を登って来てもらう。但し、此処まで手厚い介護サービスは此の壁だけだ。此処から先は泣こうが喚こうが自力で何とかしてもらう。
登攀時間と所持するロープの長さや改造棒手裏剣の数を考慮すると、流石にルート全体をFIXする訳にはいかない。其処で、この先は難度の高い箇所や特に危険そうな箇所に限定してルート工作を行うつもりだ。
此処は既に試登した岩壁である。苦無の柄で叩いてみたが岩肌は堅牢で、落石のリスクは高く無さそう。更に固い割には具合の良いホールドが数多い為、高さの割に登攀の難易度は低い。一時的に防寒手袋を外した俺はフリーでサクッと上まで登ると、身体をガッチリ確保してロープを壁の下に垂らす。その後はおっちゃん、樽に続いて問題無く岩壁を登り切る事が出来た。
一般的な地球人準拠で評価すると、日常的に戦闘も熟す生業の樽は無論の事、おっちゃんも職業と見た目に拠らず相当にタフである。いや、此の世界の行商人達はどいつもこいつも相当に鍛え込んでいるから、或いはおっちゃんも例外では無いのかも知れん。見た目は恰幅の良い只のオヤジだが。此処に来る迄に二人共度々ヘバっていたが、あれは単に隊商から離れた俺の歩くペースが早過ぎただけであろう。二人共ほぼ空身ではあるが、樽は棘の付いた棍棒のような武器を担いでいる。先日は崖から落ちた樽の命を救った武器ではあるが、サイズ的に登攀で使用するには向いていない。なので身体の保持には手持ちのナイフと、おっちゃんが持っていた金属製の杖を使って貰う。正直そんなガラクタ今直ぐ捨てちまえと思わんでも無いが、俺が相棒を同じように言われたら間違いなくキレるので黙っておく。
二人が岩壁を登った後、俺は一旦下に降りてモジャの身体をロープで固定しようと思ったのだが。一匹壁の下に取り残されたモジャは、一声鳴くと突如壁に飛び付いて爪を立て、確保も無しに猛然と岩壁を攀じ登り始めた。そしてあっという間に俺達が居る場所まで登り切ってしまった。オイオイ、モジャの奴凄えな。
その後、ロープと改造棒手裏剣を回収した俺達は、遥か高所迄続く雪渓の上に立った。此の先、体力に余裕がある俺独りであればハイペースでザクザク登っても良いのだが、余り急激に高度を上げたり消耗すると二人が高山病を発症するリスクが跳ね上がる。此処は慎重に行きたい。此の先を見上げると、幸いにも此方側には峰の正面から見た雪棚のような、如何にも浮いて不安定そうな大量の氷雪が付いては居ない。その為、雪崩や落氷のリスクは随分とマシに思える。勿論油断は禁物だが。
何の因果か今迄垂直か或いはそれ以上の傾斜の壁を何度も登って来た俺の目には、此の雪渓は左程エグい勾配には見えない。だが慣れぬおっちゃんや樽には、さながら壁の如き急斜面に見える事だろう。緊張からか、二人の表情は一様に硬い。俺は予め取り決めた互い同士の身体をロープで繋ぐ。そして、
「行くぞ。打ち合わせ通り 俺とおっちゃんが先行するから、樽は後に付いて来い。もし落石や雪崩が見えたら 直ぐに大声で知らせてくれ」
「分かりました」
「お、おうよ」
「グエ~」
おいこらモジャよ、横向きながら適当に返事?するんじゃない。コイツ随分と余裕ぶっこいてやがんな。
俺はカチコチに固い雪面に新式苦無とブーツのスパイクを突き立て、雪と氷から成る急斜面を登り始めた。
____慎重に登った事もあり思いの外時間が掛かってしまったものの、雪渓の登攀自体は大きなトラブルも無く、俺達は順調に高度を稼いで行った。いや、実は樽が二度落ちたが、ロープで繋がれたモジャの巨体は其の衝撃にもビクともせず、見事に樽の豊満我儘ボディを支え切った。落ちかけた恐怖からか樽はうぉんうぉんと煩わしい濁声で泣いて居たが、今更泣こうが喚こうがどうにもならんので黙殺した。
そして遂に。俺達は最後の難所である氷壁の直下迄辿り着いた。其の高さは基部の岩壁と同じく目測で凡そ100m程。樽とおっちゃんは二人共に幾分疲れは見受けられるものの、疲労困憊と言う体では無い。高山病のリスクを考慮して、俺が登攀ペースをかなり落とした為だ。幸い、途中で襲って来た落石は俺が左手の盾で弾いて事なきを得、そして二人は素人ながらも急激に登攀に習熟していったので、道中ロープを張る作業は最低限で済ませられた。加えて休憩の度に懐炉の術で身体を内部から温めたので、少なくとも俺の防寒は完璧である。
太陽は既に直上から若干傾いている。足元の雪からの照り返しが肌と目を焼く。短時間で外気に晒した箇所の肌が随分と焼けてしまった。念の為、後で目に回復魔法を掛けておこう。ただ俺は未だ身体に疲労は感じず、高山病の症状も皆無だ。敢えて言うなら樽のお花摘みの際に少々気分が悪くなったくらいか。おっちゃんと樽についても疲労以外特に目立った体の変調は見受けられ無い。
見上げれば空は濃青に澄み渡っているが、登るにつれて風がかなり強くなってきた。外套が強風に煽られ、激しく靡く。飛ばされて落ちない様に注意せねば。
俺はおっちゃんと繋げたロープを外して二人と一匹を一時壁の下から退避させ、一旦返却して貰ったピッケルを手に氷壁に取り付いた。そして氷の表面の具合を確かめながら石で棒手裏剣を叩いて埋め込み、壁面に順次ロープを張ってゆく。どうやらおっちゃん達から見ると俺の一連の作業は甚だ無造作で適当に見えるようなのだが、実際は滅茶苦糞慎重である。幸い氷壁はガチガチに硬く、容易く崩落したり手裏剣が抜け落ちたりする心配は無さそうだ。
氷壁を越えれば目的の稜線まであと僅かだ。俺はロープを張りながら壁を登り切ると、身体を壁上にガッチリと保持する。そして合図と共に壁の下にピッケルを縛り付けたロープを垂らした。その後、おっちゃんは比較的スムーズに氷壁の上まで辿り着いたものの、登攀用の装備が貧弱でしかも樽風の鎧が重い樽は停滞を余儀なくされた。早々にこりゃ無理だと判断を下した俺は、宙吊りとなった樽に向けてハンドサインを送ると、グイグイとロープを手繰って力技で樽を壁の上まで引き上げた。
そして最後はモジャだ。流石に今回は下の岩壁の時のように容易には行かない。一旦氷壁の下に降りた俺は、先ずはモジャが背負った荷物を取り外して縛り付け、樽の時の要領で一旦壁の上まで引き上げた。そして再び下に降りた俺は、モジャの身体をロープでガチガチに固定すると、再び壁上に戻って身体を保持した。そして更に樽とおっちゃんにもロープを支えて貰い、上からグイと引っ張ってモジャに此方に来るよう促す。流石に怖いのかモジャは暫くの間躊躇っていたものの、俺が情け容赦無くロープをグイグイグイグイ引っ張っりまくって催促したら、漸く壁に取り付いた。もしモジャが墜落したら流石に其の衝撃を真面に受け止め切る自信は無いので、ロープは常にピンと張った状態を維持して、例え落ちても少しでも衝撃が軽減されるよう細心の注意を払う。
そして、暫し緊迫の時が流れた後。俺達は遂に、モジャを氷壁の上まで引き上げる事に成功した。三名の勝利の雄叫びと共に俺はおっちゃんと拳を合わせ、樽のボディに祝福のパンチを叩き込む。さあ、俺達が越えるべき稜線まであと僅かだ。
ゴゴオオォーー
身体を叩く激しい風の音と共に、身に纏った外套が激しく舞い躍る。
苦闘の果てに高峰の稜線に立った俺達三名は、無言で目の前の景色に見惚れていた。・・いや、嘘。呆然と眺めていた。
確かに素晴らしい景色ではある。雄大な大自然をゲロ吐く程に思う存分堪能せしむるであろう眺め。だが、俺が思い描いてた景色と・・ええとちょっと、いや随分と違う。俺は360度素晴らしい大パノラマが見られると期待して居たのだ。
俺達の視界一杯に拡がるのは山、山、山、そのまた山だ。其れは別に良い。問題なのは明らかに俺達が頂上付近に立つ此の山よりも、圧倒的に糞デカい山の姿が無数に目に入るって事だ。お陰で全然パノラマ出来てねえ。遠方に見える嘗て見たあの超巨大茸岩を彷彿とさせる糞デカ山なんて、下手すりゃ成層圏迄ブチ抜いてないか・・。いや流石に其れは大袈裟だろうが、標高にしたら一体どの位あるんだろう。1万mか、2万mか、或いはそれ以上か。ああ、脳がバグって記憶に在る故郷の雄大な8千m峰が高尾山位にしか見えなくなって来たぞ。
一体これ、どうすんの。




