第173話
異界の大山脈越えを目指す俺達隊商とその護衛の一行が、蛮族共の襲撃を受けてから丸3日が過ぎた。
俺は険しい山道を、配置替えにより新たな護衛対象となった小さな隊商が擁するもじゃもじゃ生物のケツを眺めながら黙々と歩き続ける。ずっとケツを観察していると流石に気付くが、毎日行商人のおっちゃんが丹念にブラッシングしてるだけあって、此のもじゃもじゃ生物だけ他の奴等と比べて微妙に毛が艶やかなのが見て取れる。加えてやたら人懐っこい。隙あらば俺の顔面を臭っさい舌でベロベロ舐めに来る。その余りの激臭に、一度顔面を鷲掴んで止めろゴラァと威嚇してみたが効きゃしねえ。俺はこのケツ、じゃなくて此奴を勝手にモジャと名付けた。捻りもクソも無い見た目そのまんまだが。
新たな配置で俺と同行するのは恰幅の良い見た目がザ・商人な行商人のおっちゃんと働き者の付き人二人。そして俺と同様護衛である樽の様な体型をした狩人の女だ。この樽、合流して早々嬉しそうに顔面を舐めに行ったモジャに対していきなりカウンターでフックを叩き込みやがった。別段動物愛護の精神を持たぬ俺でも流石にドン引きだったぜ。しかもその後、怯え気味のモジャを見かねた俺が顔を撫で撫でしてやったら、益々ベロベロと俺を舐め回すようになってしまった。
俺は歩きながら目に付いた手頃な形の自然石を拾い上げ、両手に握ったままひたすらモミモミする。すると暫しの後、掌の中の石は負荷に耐え切れず割れ砕ける。石が砕けたら速やかに足元へ投棄し、新たな石を拾い上げては再びモミモミを開始する。常に集団行動の隊商の中では大っぴらに肉体の鍛錬に没頭する事など出来ない為、俺はこの様に時間を見付けては地味な鍛錬を繰り返しているのだ。尤も、最近の俺は身体の部位鍛錬に注力して居る為、割と願ったりではある。
今、俺が力を入れて居る部位鍛錬は手足、特に手指の鍛錬である。頭・・はあまりガンガン叩いたりするとアホに成りそうなので辞めた。今や自然石すら容易く砕く俺の握力。特にクラッシュとホールドに関しては、故郷のゴリラやチンパンジーすら遥かに凌駕すると考えられる。
まだまだ未熟な段階ではある。だがこの部位鍛錬で最終的に俺が志すのは、手が届きさえすれば、極端な話相手に指一本触れる事が叶えば、容易に人体を破壊せしむる水準の手指の武器化だ。しからば其れにより齎されるのは締め技、極め技殺しだ。その偉業は凡そ地球人類の筋力では達成不可能に思われるが、此の世界で更に鍛錬を積み重ねてゆけば、或いは何時かは成し遂げられるやもしれん。だが、そんなに頑張った所でそもそも此の世界に締め技や関節技の使い手が居るのかよと問われれば・・そりゃあ居るさ。居るに決まってらぁ。故郷のMMA程に洗練されてる事は無いにせよ、此の世界にだって組打ちの技術くらい当然あるだろ。もし万が一そんなモノ無かったとしても、奥の手って奴は幾つ有っても困る事は無いのだ。
そして手指の部位鍛錬と言えば更にもう一つ。立ち木や岩壁を利用した貫手や一本拳の鍛錬だ。まあ一口に貫手と言っても使う指の数は一本から四本まである上、指や手の形も様々だ。
懐かしい故郷の漫画やアニメでは、イカした空手マンが竹束や立ち木を叩いて指の骨をバッキバキに骨折しながらも尚、委細構わず貫手の鍛錬を継続する光景は珍しくも無い。ご多分に漏れず、俺も其れを見て大いに憧れた口だ。だが実際に自分で実践してみると、直ぐにそんなモノは幻想であると痛感させられる。そもそも不運にも指がパキってしまったら、直ぐに腫れ上がって鍛錬どころでは無く、病院でハイ全治2カ月コースである。人間の骨ってのは現実にはそう簡単にくっつく代物では無いのだ。
そして漫画やアニメのように無理に鍛錬を続ければ、全治2か月コースが3か月、4か月と無情にも伸びてゆく。当然、治療中は箸も碌に持てない不自由な生活を強いられる。更に言えば完全骨折を適切に治療する為にはギプス等で患部きちんと固定しなければならぬ。なので完治する頃には当然指は痩せ細る。鍛えるどころか此れでは正に本末転倒である。ならば現実的な貫手の鍛錬はどうすべきなのか。指を痛めない様に気を付けながら砂や砂利を突いたり、指立て伏せ等で指を太く鍛えるのが一般的であろう。
だがしかし。俺の場合は骨折の仕方にもよるが、回復魔法のお陰で2か月どころか何と2分で完治である。で、あれば遣らない手は無いだろう。嘗て憧れた立ち木や竹、は此の世界に無いので岩壁を使った、無茶無謀を押し通す鍛錬を。・・・滅茶苦茶痛いけどな。更に言うなら、俺の回復魔法はフィクションで優しくてエロい聖女様が掛けてくれるような優しい癒しでは無い。自然治癒を異常促進させるような、見た目滅茶苦茶説得力はあるが兎に角糞痛い代物だ。何ならパキった時より治癒する時の方が断然痛い。まあ何れにせよてな訳で、俺は楊枝や割り箸の如きお手軽さで毎日パキパキ指をへし折りながら、部位鍛錬の一環として貫手の鍛錬に勤しんでいる。重ねて言うが滅茶糞痛いけどな。唯何方かと言えば、この鍛錬は指其れ自体を鍛えると言うよりは貫手を叩き込む際に指を折ったり痛めにくいタイミング、角度、形状、力加減を身に付ける為の鍛錬と言える。その為、荷物を担いだまま片手で指立て伏せも併せて行う。
勾配のキツい不整地を歩き続ける俺達の周囲から何時しか緑は消え、四方には浸食による荒々しい肌を晒す岩塊が聳える。晴れた日の空の色は次第に青みが濃くなり、足元はひたすら岩と砂利の絨毯だ。そして消えた緑の代わりに其処かしこに白い雪渓が目に付くようになってきた。更には俺達が歩く『商人の道』が風の通り道と被っているせいか、ほぼ常時吹き抜ける強風が俺達の外套を激しく煽る。
幾ら商人の道などと御大層に言われていても、此処まで山深い場所まで来ると最早隘路過ぎて道らしい目印や痕跡はほぼ皆無だ。俺達のように地元の案内人に先導して貰わなければ、あっという間に遭難不可避だろう。加えて周辺には危険な蛮族やら獣や魔物がウヨウヨしているのだ。ワザワザ関所を設けて監視などしなくても、無断で商人の道を通ろうとする不届き者などあっという間にくたばりそうに思える。
俺達の目の先には余りに雄大過ぎる、壁の如き馬鹿デカい峰々が真っ白に輝きながら聳え立っている。その遥か山頂を見上げると、大量の雪煙が豪快に真横に吹っ飛んで広がって居るのが分かる。一体どんだけヤバい強風が吹いてるんだか。
おっちゃんの話に拠れば、本当にヤバいのは此処から先らしい。既に地形に兆候は見られるが、平坦な場所が徐々に少なくなり、代りにほぼ垂直に切れ落ちた、凄まじい深さの谷が行く手に現れるようになった。丁度崖の縁に近い危険度マキシマムな場所を歩いて居た時に薄暗い谷底を覗き込んで見ると、その地点における谷の幅は400m位で深さは・・目測で800、いや下手すりゃ千mを越えるかも知れん。その細長い谷底には、何故かとても深そうな森が垣間見える。とうに森林限界は越えたと思ったが。同じ標高でも緯度や地形、環境、植生等によって森林限界は様々に変わると聞いた事が有るのでそのせいか。
太陽の位置のせいか、光が充分に届かず薄暗い谷底を眺めていると、不意に背中がゾクゾクと泡立ち、うなじの毛がピリピリと逆立ってきた。あの森は・・相当ヤバいな。
「カトゥー君、下を覗いたら危ないですよ」
すると、おっちゃんが背後から声を掛けて来た。俺はおっちゃんの方へ振り向き、軽く頷いて了解の意を伝える。
「もし誤って此の谷底へ落ちたら絶対に助からない。十分に気を付けて下さい」
「どういう事だ おっちゃん」
そもそも此の高低差でほぼ垂直の壁の上から滑落した時点でまず助からないと思うのだが、何やらおっちゃんの言い方に含みが有ったので問い質してみた。
「大山脈の此処から先の深い谷は、山から吹き下ろす風に巻かれた魔素の溜まり場になっているんです。だから一般的には魔物領域扱いでは無いんですけれど、其れ等の谷底には途轍もない凶悪な魔物共が夥しい数潜んで居ます。其れに昔から近隣の魔物領域から迷い出た魔物達は、彷徨った末に魔物領域に帰るか、或いは魔素が濃い大山脈の谷奥に住み着くとも噂されているんですよ。なのでもし万が一にでも谷底に落ちてしまった場合、どれ程屈強な者であれど先ず命は無いと言われているんです」
成程。俺の発達した視力でも一見では魔物の姿は全く見えないが、あの森のヤバい気配は滅茶苦茶感じるぜ。
「それに私が聞いた話では谷底の危険な魔物は魔素が薄い高所まで登って来ることは滅多に無いんですけれど、例えば嵐の後なんかは魔素が広範囲に散ってかなり上まで来ることが有るらしいですよ」
「ふむ、そうなのか。なら落ちない様 十分に気を付けよう。忠告感謝する」
「いえいえ。少しでもカトゥー君のお役に立てれば私も嬉しいですよ」
矢張おっちゃんは良い人だ。しかも何気に相当に物知りだし。見た目はほぼ完璧なるムサ苦しいおっさんなのだが、隊商の関係者に嫌な奴が多かったせいか、話をしていると実に癒される。
俺達は小さな川が流れる岩山の鞍部に腰を落ち着けると、結局今日はこの場所で野営をすることに成った。あの襲撃以来、俺の索敵にも蛮族の影は引っ掛からない。だがそれでも尚、俺達の旅は順調とは言えなくなって来ている。旅慣れた者達の顔にも流石に疲労の影が目立ち始め、しかも蛮族よりも更に恐ろしい敵が、俺達隊商を蝕みつつあるからだ。
聞けば既に数名の者が、体調不良を訴えているらしい。そう、高山病である。そして此処に至るまでに既に1名が、完全に動けなくなって隊列から落伍した。其れは俺も顔を見知った、雑用係の一人であった。其れは果たして薄情な遣り方なのだろうか、或いは慈悲深いと言えるのだろうか。隊商は苦しそうに横たわる彼の傍に幾許かの食料と水を置いて、足音だけを残して静かにその場を後にした。俺は彼に最後まで諦めるなと、空しく励ましの言葉を掛けることしか出来なかった。
そして更に。あろうことか護衛の纏め役である4級狩人PTのリーダーが、身体の具合がかなり悪いらしい。オイオイオイ。お前は一番病気に成っちゃイカん奴だろ。相当不味くないかコレ。俺だけ事前に高度順化して安全安心と思ってたら、実際は全然そんな事無かったぜ。・・でも病気だしなあ。此の世界に飛ばされてから程無く病死してしまった、嘗ての同級生であったのぶさんの事が思い出される。あの時の事を考えると、4級PTリーダーに対して余り悪く言う気には成れない。其れにしても、高ランク狩人がこの仕事を受けたがらない理由は、もしや此のリスクも関係しているのかも知れんな。
もしリーダーが完全に動けなくなってしまった場合、4級PTは隊商からの離脱を表明しているそうだ。もし俺が行商人の立場なら其れを聞いて発狂しかねない所なのだが、隊商の他の連中は少なくとも表面上は其処まで怒っては居ない様子だ。その理由として、仮に4級PTに不測の事態が起きた場合、後任は最も腕の立つ6級PTが受け持つ事が事前に決まっていたようだ。其れに高山病の原因は此の世界の連中にとっては人知の及ばぬ神々に拠る気紛れとの事だ。無暗にキレ散らかしても仕方無いと言った所なのだろう。
「おおいカトゥー君、今日は此の辺りにしようか」
色々あって少々憂鬱な気分になって居た俺はおっちゃんの勧めに従って、今日は他の隊商から少し離れた場所に天幕を張ることに成った。




