第165話
俺が遥か東方に向けて旅に出てからとある事実に気付き、愕然とするまでにさしたる時間は掛からなかった。
俺は・・弱くなっている。
其れは単純に筋力が衰えただとか、或いは戦闘能力が衰えたとかいう話では無い。
寧ろ身体能力や筋力、反射神経、五感、戦闘技術は以前とは比較に成らぬ程向上している。では何故弱くなったと感じてしまうのか。勿体ぶらずに答えてしまうと、俺の中の野生味が以前より衰えているのが、旅の中で明確に感じ取れてしまったのだ。
とは言え今の俺が仮に突然マッパで山中に独り放り出されたとしよう。果たして生き延びる事が出来るかと問われれば、答えは迷わずイエスである。だが、しかし。
果たして今の俺は嘗てようにたった一人ぼっちで取り残された深い深い山の奥。其れでもウキウキで獣や虫を狩り、獲物を解体して皮を剥いで肉を焼き、その辺に生えている野草や果物、或いは根菜を可食判定して貪り喰い、そして粗末な自作の拠点で満足して暮らしてゆけるだろうか。
・・・恐らく無理。唯生きるだけならば余裕だろうが、恐らく精神は急速に摩耗してゆくだろう。それに何より、今の俺は以前のような、野生動物の鋭い感覚すら完全に出し抜くレベルの隠形を行使する自信が無い。軟弱な都会の生活に馴染み過ぎると、野生とはかくも容易く錆び付いてしまうものであろうか。
化調たっぷりの食生活に成れ親しんだ地球の現代人が、昔ながらの料理を味気なく感じてしまう様に。文明から隔絶されていた蛮族が最新の娯楽やスマホを与えられたら、あっという間にそれ無しでは居られなく成ってしまう様に。今の俺にはどんなに辛くても笑って乗り越えられるような、嘗ての原始生活で培った、精神的なタフさが失われてしまって居る様に感じられるのだ。
そして此れから挑む大山脈越え。隊商の一団に紛れ込むことに成功したとは言え、山では何時不測の事態が起きるとも知れぬ。そんな場合、俺が相手をしなければならないのは厳しい厳しい大自然である。地球にあるような、ある意味飼い慣らされた軟弱な自然では無い。フルパワーで荒々しい野生の牙を剥き出した、滅茶苦茶ヤバ過ぎる奴だ。
備えねば。高度順化だけでは全然足りない。ヤバ過ぎる自然の猛威に対して真っ向から牙を突き立てられるような、俺の内なる野生を、再び取り戻さねばならぬ。
辿り着いた集落には、聞く所に拠ると余所者が泊る宿泊施設は無いそうだ。オイオイ商人ギルドさんよ。そういう事は事前に言っといてくれよ。だが今は却って都合が良いかも知れん。俺は集落に入ったその日から目に付いた住人達を相手に情報収集に乗り出した。住人全員商人ギルドの関係者なこともあり、一部を除き情報収取は非常に円滑に行うことが出来た。そして付近に契約狩人の縄張りが無い事を確認すると、その日の夜はどこぞの人気の無い民家の軒下でひっそりと夜を明かし、翌日には入口を守る守衛の男達に凡その事情を説明して集落の外へ出た。
集落を出た俺は、周辺を走り回って具合の良さそうな寝倉を探すと同時に、頭の中に地形を入念に叩き込んだ。更に獣道を始めとして其処に残された魔物或いは獣と思しき糞や足跡、樹皮に刻まれた痕跡、草の噛み痕等も綿密に調査する。
その後、標高のせいか付近に寝倉とするのに必要な高さと太さを兼ね備えた樹木が見当たらなかった為、予め目を付けた場所で積み上げた石を泥で固めて簡易的な拠点を建造した。何れもかなりの重労働であるが、漲る体力に物を言わせて休む事無く身体を動かし続けた。
その翌日。煩わしい人の目から一切隔絶された山の中。俺は鍛えに鍛え抜いた恐るべき肉体を余す所無く清涼な大気へと晒し、完全なる裸族となった。そして久方振りに背負い籠から取り出した愛用の猪の毛皮を、何となくポーズをキメながら再び肩から羽織る。残念ながら腰蓑は無い。材料の心当たりも無い為、下半身は生まれたままの姿だ。俺は現時点から集落に隊商の一団がやって来るまでの間、錆び付いた己の中の野生を研ぎ直す。
まずは早々に、此の周辺を実質的な俺の縄張りとする。
そして俺は微かに残る獣共の痕跡を追跡しつつ、近隣の山々の探索を開始した。
____俺が山奥の集落にやって来てから丁度二十日後。胸の内に野生の炎を再び滾らせた俺の前に、隊商の一団が遂に現れた。完全に錆付いていたと懸念された野生の勘は、意外な事にあっさりと取り戻すことが叶った。アタマでは忘却したと思ってはいても、肉体は身に付けた野生をしっかりと刻み込んでくれていたようだ。マッスルメモリーならぬワイルドメモリーてところか。更に迷宮都市で塩を余分に購入しておいたお陰も有って、携行用の干し肉も其れなりの量を仕上げる事が出来た。とは言っても半分以上は失敗して腐らせちまったけどな。
漸く集落に到着した隊商の一団に対して、俺は荷物をキッチリ選別して纏めた上に事前に預かった樽に俺水を満タンにして準備万端。手をブンブン振って大歓迎だ。
集落の入口近くの広場には荷物を担いだ隊商の人々と共に、同じく巨大な荷を背負った、四足歩行の謎生物が熊除けならぬ魔物除けらしい鈴のような器具をカランカラン鳴らしながら続々と到着する。其の外見は一見滅茶苦茶デカい羊のような、毛でモジャモジャの姿である。唯しその毛色は暗赤色で、毛質は羊と違って剛毛である。また、その足は蹄ではなくまるで故郷の猛禽類のような鋭い爪が見て取れる。
辺境で良く見掛けた荷車を引く鱗鳥や荷蜥蜴は山越えの過酷な環境に耐えられない為、余程の理由がない限りシュヤーリアンコットの町でお別れだそうだ。そして此のモジャモジャ生物は、逆に高地の過酷な環境と寒さに滅法強いのだ。なので町の傍には広大な鱗鳥と更にモジャモジャ生物の放牧地が存在する。山越えを目指す商人ギルドの行商人達は町の仲介人達と交渉して、手数料を支払う事で自分達の鱗鳥に見合ったモジャモジャ生物を貸与して貰うのだ。そして無事山越えを果たした暁には、大山脈を越えた先にある町で、再び手数料を支払ってモジャモジャ生物を返却し、其れに見合った荷鳥を引き取るといった寸法である。しかし当然の如く、苦楽を共にした荷鳥に過剰な愛着を抱く行商人は山ほど居る為、別れ際に荷鳥に取りすがって号泣する者や、仲介人との交渉が難航して殴り合いに発展する事も特に珍しく無いらしい。あと荷蜥蜴については・・・聞いて無いから良く知らん。
到着した隊商の列は長く伸びており、とても小さな集落の中には入り切らないので此の空き地で野営をするようだ。まだ日は高いものの、到着した者から順次テキパキと荷を下ろして野営の準備をしている。俺はその辺で忙しそうに作業をしている隊商の連中に適当に声を掛けまくった末に、ようやく以前会った実務担当のおっさんに取次いで貰う事が出来た。
久し振りに再開した実務担当のおっさんに約束した水樽を納品した俺は、護衛担当の纏め役に護衛方針について諸々の説明を受けるよう指示を受けた。俺が参加する山越えは5つの隊商の合同である。総勢は地元の案内人を除き、隊商の人間だけで総勢70名以上にのぼる。護衛についても複数の狩人PTが参加しているそうだ。そしてその纏め役は最もランクが高い4級狩人のリーダーである。んでもってその他は俺以外全て6級のPTなんだと。隊商の規模の割には護衛のランクが低いんじゃないかと思われるかも知れないが、実は大山脈越えの護衛の仕事は、高ランク狩人の連中の中では不人気な仕事らしい。何故なら報酬は悪く無いものの、此の仕事は兎に角拘束期間が長いのだ。その上、一度大山脈を越えてしまった場合、元の場所に帰る為にはもう一度反対側から大山脈を越えなければならない。なので何か他に山脈を越える用事でもない限り、高ランクの狩人からは敬遠されがちな仕事なのだ。
俺は再び周辺の人に訊ねながら目的の人物を探し回ると、漸く件の纏め役の狩人PTの居場所を突き止める事が出来た。そして面会したその人物は、複雑な刺繍が入った高級そうな外套と、材質不明の黒光りする此れもまた高級そうな胸当てを身に纏った、如何にも古強者といった風情の壮年くらいの歳格好なおっさんであった。その顔面はゴツく、古傷だらけで見た目はかなり怖い。だが実際に言葉を交わしてみると、とても気さくな感じで頼り甲斐のありそうなおっさんだった。
おっさんに護衛の内容について訊ねてみると、既に護衛計画の立案と綿密な話し合いは済んでいるそうで、後から加わった俺は5つの中で最も規模が大きい隊商が擁する隊列の、ほぼ中心に近い最も守りが強固な辺りの配置に付けとの事だ。
成程。薄々分かっちゃ居たが、俺は隊商の皆さんに護衛の戦力としては全く期待されていないらしい。要するに水を提供するだけの蛇口要員と言う訳だ。まあ普通に考えれば、最下級狩人の俺が護衛の仕事なんて受けられる訳が無いからな。だが此の配置、俺に文句などあろうハズが無い。今迄念を入れて色々準備したものの、何事も無く危険をやり過ごす事が出来ればそれに越したことは無いのだ。
ならば俺はおっさんの有り難い申し付けに全力で乗っからせて貰おう。危なくなったら全力で応援するから皆頑張ってな。俺も頑張ってドバドバ水出しちゃうかんな。




