第163話
大山脈の麓にあるシュヤーリアンコットの町から更に東方へは幾つかの道があるが、其の中でも最も名が通っているのは大山脈の奥へと続く、所謂『商人の道』と呼ばれるルートである。他にはその辺の山岳地帯に住む土着の民の集落や、大迷宮の入口へと続くルート、そして商人の道とは別口の、地元民しか知らないような何やら良く分からん山奥へと伸びる細い道等様々な道が存在するようだ。此の町に至るまでの街道には結構な勾配があり、時には相当に険しい箇所も有ったのだが、此の先は更に本格的な山道となるそうだ。
シュヤーリアンコットの町から商人の道を通って大山脈へと分け入ってゆくと、其の先には商人ギルドが管理する小さな集落が在るんだそうだ。其の集落は山越えを目指す行商人達の実質的な最後の補給地点であり、其処で暮らす住人達は全員商人ギルドの関係者である。但し冬の前に住人は全員山から降りて来る為、環境が劣悪な冬季の間は、集落は完全に無人となる。そして、其処から更に山奥には商人ギルドが建てた関所のような建造物があり、冬季以外は人が詰めているそうなのだが、其処は補給地点と言うよりは故郷の山小屋のように束の間の休息や緊急時の避難場所として使用されているようだ。また、其れに加えて断り無く商人の道を利用する不届き者を監視する役割も担っているんだそうだ。
狩人ギルドを介して商人ギルドの行商人達が率いる隊商の護衛として正式な契約を交わした俺は、隊商がシュヤーリアンコットの町で山越えの準備を整えている間に、先行して件の集落へと向かう事に成った。俺が隊商の護衛の仕事を受けるにあたり、提示した条件が此れを了承して貰う事である。その目的は言わずと知れた肉体の高度順化である。
故郷ではヒマラヤ等に代表される高地でトレッキングをしたり、高所登山に挑む登山隊が本格的に活動する前には必ず高度順化が必要と言われている。其れを怠り急激に標高を上げてしまった場合、どれ程屈強な肉体を誇ろうが、例え経験豊富なベテラン登山家であろうが、重い高山病に冒されるリスクは一気に跳ね上がる。旅立つ前に迷宮都市にて事前に仕入れた情報に拠れば、大山脈越えの死因の最たるものは病死である。しかも聞き及んだ病気の症状から鑑みて、其れは恐らく高山病だと推測される。なのでその対策の一環として、此の町よりも更に相当な高地にあるらしい商人ギルドの集落に俺だけ先行させて貰い、事前に高度順化をしておこうという算段だ。理想を言えばもっと長く、最低でも一カ月以上の期間を設けて山奥の集落と此の町を何度も往復し、徐々に身体を高地に慣らしておきたい所だ。だが今は契約した隊商の旅程との兼ね合いがある。余り贅沢は言って居られないだろう。
隊商の他の連中?知らん。どうやら此の世界の連中は高山病の原因は山々の頂に座す神々の仕業だと考えて居るようだ。なので俺の拙い知識で高山病について一から説明したところで、その言葉を素直に信じて貰えるとはとても思えん。此の世界の旅人ってのは特に信心深い奴等が多いみたいだからな。そもそも幾ら狩人ギルドに所属しているとは言え、初対面かつ新参者である俺の胡散臭い話に誰が耳を傾けるかっての。それに俺が護衛する予定の隊商は幾つかの集団が合同で山越えをする事になり、結果として結構な大所帯となった。その為、護衛の中でも最底辺の下っ端一人の意見を重用して、隊全体の行動計画を組み替えるなど絶対に有り得ない事だろう。もし仮にそんなマジョリティの意見を押し退けて己の主張を認めさせようとしたところで、無駄な労力どころか周囲の反感を買いまくって余計な軋轢を生むだけである。
てな訳で。俺は隊商の偉そう尚且つ賢そうな実務担当の男と割と綿密な打ち合わせを行った結果、二人の偵察の連中と先の集落まで同行させて貰うことに成った。俺は始め独りで行く事を主張したが、流石に単独で山奥の集落へ向かうのは危険過ぎるとの先方の判断と、どの道偵察の人員は先に行かせるつもりだった為、そのついでという事だ。因みに偵察とは道中の山道に異変が無いかを調べる任務である。一応目的の集落と此の町との間は故郷で言う所の歩荷のような荷運び人が往来しているのだが、険しい山道は何時何が起きていても可笑しくは無い。特に此処数日の間は、山では相当に激しく雨が降ったそうだからな。もし偵察の結果として不測の事態により山道が寸断されていた場合、偵察の二人は速やかに此の町まで引き返して詳細を隊商とギルドに報告し、通り抜ける為の対策を練るんだそうだ。
そう言えば隊商の実務担当の偉そうな男との打ち合わせや、他の一部の護衛との顔合わせやら何やらしていて思ったが、狩人ギルドの仕事として正式に契約した後だと相手の態度が露骨に変わるな。契約前の面談相手は胡散臭い不審者に肩ポンするポリスメンのような訝し気な目線と態度が隠し切れて居なかったのだが。初対面であり隊商や他の護衛の連中との信頼関係など未だゼロな俺ではあるが、連中にとっては契約に拠って狩人ギルドがケツ持ちに成った事が、仕事に対する不義や裏切りといった行為を抑止する担保となった訳だ。そう考えると下っ端とは言え、組織と言うモノの有難味って奴を少なからず感じてしまうぜ。尤も、俺が契約に対する背信行為をカマした場合、ケツ持ちである狩人ギルドからのエグい制裁が容赦無く課されるであろう事は想像に難くないのだが。
それにしても俺が狩人ギルドの仕事を真面に受けたのって、ファン・ギザの町で突如依頼で指名された挙句、戦場に放り込まれた時以来か。あの時は後ほんの紙一重で黒蜘蛛の奴等に殺られる所だった。今思い出してもムカムカするぜ。尤も、そのお礼として相当な数の黒蜘蛛をぶっ殺して胃袋に収めてやったけどな。・・・とは言ったものの。俺は恐らくは黒蜘蛛にモグモグされてしまったであろうカニバル軍の補給部隊を率いていたバルガさんや、一緒に従軍した狩人ギルドの仲間達の事を思い出して、何ともしんみりとした気分になった。あの時の事を後悔して居る訳じゃ無い。もしあの時、即座に逃げを決断して居なければ。情に絆されて、彼等を連れて逃げる選択をしていたならば。・・恐らく今、俺は既に生きてはいまい。しかしだからと言って余りにもあっけなく消えていった彼等の命の儚さに、思う所が無い訳では無いのだ。
そして町を出発する前日。俺は先行して件の集落に向かうにあたり、隊商から提供された物資を受け取った。今回の仕事において食料や生活必需品は幸運な事に隊商持ちと聞いていたので、実はここぞとばかりに金を無心して色々と買い込む事を目論んでいたのが、結局食料も物資も必要な分だけ現物支給であった。そらそうか。またその際、何故か結構なデカさの空樽も渡された。オイオイなんじゃこりゃと訊ねてみると、どうやら目的の集落の井戸は水質が余り良く無いらしい。そこで先行を許可してやる代わりに、隊商の本体が到着する頃に合わせて水魔法で樽に満タン水を入れておけという事なのだそうだ。いや、許可も何も初めから先行する条件で仕事を受けたんだろうが。まあ別に良いけど。
実は俺が護衛する隊商団には俺以外にも二名、水魔法の使い手が居るらしい。未だツラは拝んで無いけどな。そして俺達が捻出した水は、全て飲料水として使用される。山越えの際は緊急の事態に備えて予備の飲料水も運ぶそうなのだが、其れを考慮しても俺達の存在によって積み荷の重量は相当に軽減されるんだそうだ。そして更に話を訊くに、水魔法の遣い手が三名も確保できたのは彼等の長い行商の旅にあっても滅多に無い僥倖であるらしく、本当に大助かりなんだそうだ。水は重い上に扱い難い液体なので、険しい山道を運ぶのには難儀するだろうからな。因みに飲料水を除く他の生活用水は、可能であればその辺の川から汲んだり、雪を溶かして利用するそうだ。ほほう、矢張り此の世界の人間もその辺の川から直に水をグビグビ飲むのはヤバいと認識しているらしいな。今更だが此の世界に飛ばされた直後の俺達は結構危険な橋を渡っていたと言えよう。かなり軽率に川から直飲みしまくってたからな。
水魔法と言えば俺は狩人ギルドの受付熟女に対してだけでなく、隊商との面接の時にも湧水の魔法を披露する事に成ったのだが、その際に俺がどれだけの量の水を出せるのか滅茶苦茶執拗に問い詰められた。は~、全くコレだから素人って奴は。まあ其の事を確認しておきたい気持ちは分からんでは無いがな。
だが湧水の魔法や或いは炎の飛沫のような魔法は、周囲から水分子や可燃性物質を魔力を用いて収集する都合上、其の効率は周辺環境に滅茶苦茶左右される。例えばフロリダのビーチで水魔法をぶっ放した場合と、アリゾナの砂漠でぶっ放した場合じゃ下手すりゃ魔力のコスパの差が数十倍どころじゃ効かないかも知れん。しかもその魔力の運用効率は湿度は無論の事、土壌に含まれる水分量や近隣の水場の有無、更には地下水の存在や其の深度、そして恐らくはその上の地層や岩盤の存在といった地質によっても左右される。
因みに魔力で水を収集する事に拠り、俺は周辺に存在する水源の存在を敏感に感じ取ることが出来るようになった。水源がある方角は収集の水魔法の通りが他に比べて良いのだ。尤も、今後俺は飲料水で困窮する事は滅多な事では無さそうなので、此れが何かの役に立つかと問われるとかなり微妙なのだが。
何れにせよそんな訳で、リアルな魔法は例えばゲームのように俺はMPが10あるから消費MP2の湧水の魔法が5回使えますよ、などと言う安直な代物では無い。その上、婆センパイに拠れば己の魔力の総量は体調や心身の疲労によっても変動するし、極端な話その時のテンションによってすら影響を受けるらしい。更には個人差による其れ等が及ぼす影響の差異も有るとのことだ。とは言え俺の今迄の経験則から鑑みるに、少なくとも俺自身の魔力の残量は体力の消耗に直結して左右される事は無いと思われる。尤も、人間の魔力と体力や体調、そして精神状態との相関関係について纏めた論理的なデータなどそこらに転がってる訳も無いので、飽く迄も俺の主観でしか無いんだけどな。
因みに目安程度ではあるが、婆センパイからは魔力の消耗具合を測る遣り方を幾つか教えて貰った。その内の一つが唾液を使う方法だ。唾液に水属性の魔力を混ぜると、魔法で粘度を上げることが出来る。其処で唾液に水魔法を掛けて、舌で粘性を測ってみるのだ。その時、粘度が上がらず唾液がサラサラのままだと魔力枯渇の危険信号と言う訳だ。但し、此の方法には結構コツが必要だ。意識して力を込めてしまうと例え消耗していても魔法が必要以上に効いてしまう為、なるだけ意識しないように自然に、しかも何時も同じ塩梅で魔法を行使しなければならない。魔法に集中しつつもリラックスというワケ分かんねえ精神状態でなければ目安として機能しないのだ。そして俺はまだまだ下手糞なので今でも絶賛練習中である。
話が大幅に逸れてしまったが、結局隊商の面接の際には、大樽を一樽満杯にする程度が俺が一日に提供可能な水の総量だと適当に申告しておいた。実はその時のコンディションであれば二樽半位はいけそうな感じはしたが、安定の過小申告である。己の全力を軽挙に晒すような蒙昧な真似は勿論しない。とは言え、過少申告した量がショボ過ぎて不採用、などという更にワンランク上のアホを晒す羽目に成らないかとちょっとドキドキしたが、結局問題無く採用された。一般的な水属性の魔術師の力量について、狩人ギルドのおばちゃんに探りを入れて置いて本当に良かった。
そして町を出立する日の早朝。遠く巨大な山の岩塊を望む朝焼けがとても美しい。俺は事前に打ち合わせた通り、商人ギルドの門の前で斥候である二人の男と落ち合った。年の頃は二十代半ば位だろうか。その男達は如何にも旅慣れた風情で荷物を括り付けた木製の背負子のような器具を担ぎ、使い込まれたゆったりとした外套を身に纏っていた。商人の道は一応商人ギルドの縄張りであると此の地域で認知されているそうだが、魔物や獣、あと蛮族と呼ばれる話が全然通じないヤバい連中の襲撃が無いとも限らないらしく、二人共蛮刀のような物騒な曲剣を腰から下げて武装している。
既に顔合わせは済ませてあった俺達はお互い軽く挨拶を交わした後、聳え立つ大山脈に向かってシュヤーリアンコットの町を後にした。




