(閑話7 前)
あたしゃの名前はリリィ。魔導の大家マグィストスの叡智と名を受け継ぐ魔術師の数少ない生き残り・・と言えば聞こえは良いのじゃが、実態は辺鄙な辺境の地で悠々自適に魔導の探求という名の享楽に耽る、しがない一介の魔女じゃ。
あたしは大国エリスタルの僻地にある小さな領地を治める、下級貴族の四女としてこの世に生を受けた。あたしには既に年の離れた兄姉が居た為、嫡子としての期待を寄せられる事は無く、さりとて近隣の他家との縁組の為に持て囃される事も無く、また両親は元々これ以上子をもうける気が無かった事から、まるで予期せぬ余り物のようにコロリと生まれ落ちたそうだ。かと言って別段庶子や忌み子と言う訳では無かったので、産声を上げた際には兄妹達は元より多忙な父も姿を見せ、出入りの商人から買い付けたカペラを一頭潰して慎ましやかな宴が催されたと聞いた。
そんなあたしが家族や家内の世話役達の目には映らない友達の存在を見出したのは、物心付いてから暫く経った頃。太陽神ソラスが最も偉大な力を示し、御使いの天羽輝鳥が舞う季節。確か三歳頃だっただろうか。両親からは未だ自由に部屋の外に出る許しを得ていなかった私だが、何時からか側に侍る私だけの友達と言葉を交わし、時に戯れ合い、幼子には開けられるはずのない窓を開けて貰って、一緒に外の風景を楽しんだ。夜に窓の外を眺めると空から美しい輝きが降り注ぐ幻想的な光景が広がっており、あたし達は何時までも飽きる事無くその光景を眺め続けた。
幼かったあたしは其れ等が何であるか気に留める事もなかったけれど、心を通わせた友人達が精霊であり、美しい光が魔素であった事を知ったのはずっと後の事だ。
唯人には見えないモノと言葉を交わし、幼子では届くハズが無い自室の窓を何度も開けるあたしに対して、年の離れた兄姉達は薄気味悪いと嫌悪の目を向け、父は腫物を扱うようにあたしを遠ざけた。一番歳が近い姉だけは良く話し掛けてくれたが、その扱いは気が触れた妹に対する好奇の類であった。家族で唯一母だけは、あたしの事を気に掛けてくれていたように思う。望めば厭う事無く抱き締めてくれたし、時には夜一緒に添い寝をしてくれた。
そして何時しか身の周りの世話役達も酷くあたしを怖がるようになり、言葉を交わす事も無くなってしまったが、幼いあたしは全く気に病む事は無かった。遊び相手にも話し相手にも困らなかったからだ。あたしは部屋の中で、家人の誰にも顧みられる事無く独り遊び続けていた。
だが時が経ち、身体が成長するにつれて、次第にあたしは慣れ親しんだ友人達と話をしたり遊ぶ事は無くなっていった。部屋や屋敷の外へ出る事が出来るようになった私はあらゆる事で好奇心を満たすのに忙しく、また身体が成長するにつれてとある事に夢中になっていったからだ。
それは、喧嘩だ。
あたしは教育係や世話役の目を盗んで屋敷を抜け出しては、身分を隠して領内の悪童共を相手に喧嘩に明け暮れた。勿論、その貴族の淑女にあるまじき蛮行が明るみに出た時には父や教育係から酷く咎められたが、あたしは改める気は無かった。
当時のあたしがあれ程の好き勝手を許されたのは、母の取り成しと恐らくは小心者の父があたしを心の何処かで恐れていたからだと思う。あたしを見る父の目に怯えが宿って居る事に、あたしは何時からか気付いていた。
毎日顔を腫れ上がらせ、全身の生傷が絶えないあたしを見て、周囲の者達は憐みと蔑みの目を向けてきた。口さがない者達は、家族に疎まれ鬱屈した心を抱えたあたしが、自棄になって荒んでいるのだと囁いた。
だが実のところ、母以外の家族に疎まれるのはあたしにとっては取るに足らない出来事だった。あたしが毎日喧嘩に明け暮れていたのは、もっと別の理由だ。
あたしは他人に舐められるのが兎に角癇に障り、向かってくる敵をぶちのめすのが他の何より大好きだったのだ。小癪な強敵を殴り倒し、屈服させた際に身体の奥底から湧き上がる悦楽は何物にも代え難く。他では得難き歓喜に身を任せたあたしは、何度も拳を突き上げて勝利のダンスを踊ったものだ。ただ、周囲の者達が哀れな娘が心に鬱屈を抱えて暴れ回っていると勝手に勘違いする分にはあたしにとって都合が良かったので、その事を特に否定する事はしなかった。だが母に心配を掛けるのだけは、少なからず後ろめたい気持ちになった。それでも結局喧嘩は止められなかったが。
そんな充実した日々を過ごすうちに、あたしは何時の間にか自領どころか、近隣の領内の悪童共を統べる小さな王となっていた。その頃には既に子供達の中であたしに逆らう者は居なかったが、時には悪辣な大人と対峙することも有った。だが相手が大人であっても、あたしは一度も負ける事は無かった。何故ならあたしには切り札があったからだ。あたしには幼い頃に友達から使い方を教わった不思議な力があり、更には少々疎遠になってしまったとはいえ、その時のあたしは唯人の目には映らない友達に願えば、その不思議な力を借りる事も出来たのだ。
だがそんな荒々しくも楽しい日々にも終わりが来る。身体が成長して大人に近付くにつれて、自身では為す術の無い問題に直面したのだ。それはあたしが女であるが故に、男との間に埋め難い筋力と身体能力の差が顕著に現れ始めたのだ。それでも駆け引きや狡知により辛うじて勝利を重ね続けたあたしだったが、楽しい喧嘩の時間よりも喧嘩に勝つ為に必要な鍛錬の時間が際限なく伸び続けるに至り、遂に小さな王国を配下に託して身を引くことを決意した。切り札を活用する手も有るにはあったが、アレは殺傷力が高すぎる為、相手が大人でなければ決して使わないと決めていたのだ。
その後、荒事の一切から身を引いたあたしは、安堵する周囲とは裏腹に抜け殻のような退屈な日々を過ごしていた。だが暫く経った後に、偶然姉達が艶聞に花を咲かせるのを盗み聞いた事で、遂に新たな遊興を見出すことが出来た。それは男、いや恋である。今度の敵はあたしと同じ女だ。そしてその様相は今までの喧嘩とはまるで異なる。とはいえ、その本質は良い男を奪い合う熾烈な戦いに相違ない。しかも今迄のような単純な相手を捻じ伏せる戦いでは無い。男を篭絡し、敵を出し抜く手練手管に精通せねば通用しないだろう。平凡な田舎貴族の娘としての退屈な暮らしに身を任せていたあたしに俄然闘志が湧いて来た。幸い、あたしの母や兄姉は近隣でも名高い程の器量の持ち主である。同じ血を引くあたしも相応の器量はあるはずだ。
ところが長年の闘争の為か、あたしの顔は外傷こそ治療の甲斐あって殆ど目立たなかったものの、大元の骨格から酷く歪んでまるで川の石ころのような有様で、とても器量を武器として戦う事など出来そうに無かった。
だがあたしは諦めなかった。それからのあたしは人が変わったように、貴族の子女としての知識や立ち振る舞い、嗜み、そして異性の関心を惹く為の手管。其れ等を身に修める為の勉学に脇目も振らずに没頭した。父や兄姉は相変わらずあたしを遠ざけていたが、母はそんなあたしを眺めて随分と喜んでくれた。
顔の凹凸や身体に残った傷については父の主治医に懇願して、高価な薬草や傷薬を駆使して丸一年以上の歳月を費やして治療を行った。幸いにしてあたしの家の領地は規模こそ小さかったものの、母に商才が有ったお陰で懐事情は良好だったのだ。また喧嘩の衝撃で折れたり抜け落ちた歯に関しては、あたしには三度目の歯の生まれ変わりが訪れたので、どうにか綺麗な歯並びを取り戻すことが叶った。更に長年の鍛えにより手に入れた一見男のようなゴツゴツと筋肉質な身体は日々の鍛錬の内容を根本から練り直し、更に料理番に命じて肉中心だった食事の内容を一新する事で、時間を掛けてたおやかでかつ弾むような女性らしい身体に作り変えていった。
荒事から身を引いてから季節が一巡もすると、姿見に映る私の姿は殆ど別人へと変わり果てていた。いや、本来の姿を取り戻したと言うべきか。縮れて薄汚れた髪は、切り揃えた為に少々短いながらも柔らかく光輝くような銀の混じった金色の髪へと変貌を遂げ、瑞々しくも繊細な肌には傷どころか最早僅かな班すら目に付かない。顔立ちは一流の金細工師すら削り出すことが叶わぬ程の絶妙な均整を保っている。そして身体付きは女性らしい柔らかな曲線を描きつつも、無駄な肉の一切は削ぎ落されている。溢れるような濡れた光を湛えた緑色の瞳は、角度を変える度に美しく輝いて。
我が事ながら己の凄まじい変貌ぶりには大いに戦慄した。惜しみ無く協力してくれた医師や料理番には随分と感謝したものだ。
殆ど別人のような変貌を遂げた私は、母の計らいで随分と遅れた社交界へのお披露目を行った。そのお披露目は一般的な貴族の子女より遅れたせいか、却って鮮烈な印象を来賓達に与えたようで、その反響は私を満足させるものであった。だが、私にとってそれが霞んでしまう程に重大な問題に気付かされる契機にもなった。
私達の社交の場に参列する近隣の有力な家には既に姉達が嫁いでおり、私には年の近い目ぼしい相手が居なかったのだ。そして更に、集まった貴族達の中に私好みの男は一人も居なかった。私も女だ。無論顔立ちが整い、相手に気配りの出来る男が好ましい事は言うまでも無い。実は社交の場に集まった男性には、その条件だけなら満たす者は何人か居た。但し全員既婚者であったが。だが私にはそれ以上に、求める男に対してどうしても譲れない条件が有る事に気付いてしまったのだ。
長年の充実した闘争の日々せいで、私は弱い男が嫌いになっていた。迂闊な事に、私は期待に満ちた新たな戦いに思いを馳せるばかりで、自身の男の好みの事をすっかりと失念していたのだ。そして田舎貴族の社交の場に居並ぶ男達に、私が満足出来そうな男は一人も存在しなかった。
それから暫し思い悩んだ私は、ある日エリスタルの王都にある学校へ入学したい旨を両親に告げた。私が入学を希望したのは貴族としての教養や法律や算術を学び、主に女官を育てる為の学校である。だが胸の内に秘めた本来の目的は、都会の男だ。王都ともなれば、この田舎の町や村とは抱える人口の桁が違う。なのできっと私の求める良い男を探し出して射止めることが出来るだろう。その頃、私には悪童共に君臨していた時に拵えた私財の蓄えが十分にあったので、仮に両親の許しが出ない場合は、時期を見計らって家を出奔するつもりだった。ただしその場合、未だ世間知らずの拙い頭でも入学が叶うまでの難易度が非常に高くなってしまうのは容易に想像できた為、実行に移すのは本当に最後の手段であった。
だがその頃には既に我が家の実質的な支配者となっていた母は、顔を顰めて何かを言おうとする父を一瞥して黙らせると、事も無げに私に告げた。
「良いでしょう。リリィ、あなたの好きになさいな。学費の事も心配いりません。」
それからの私は一年の猛勉強の末、無事王都の学校への入学試験に合格することが出来た。そして僅か一名の世話役と共に領地を離れて王都に移り住んだ私は、まるで生まれて初めて川に潜った銀水魚のように、王都で華やかに浮名を流す事になった。




