第148話
俺は座禅を組んだ状態で瞑目し、片合掌のポーズで集中力を高める。そして両手から周囲に拡散した水属性に変質した魔力を介して、水の精・・もとい水分子の存在を感じ取る。魔力を十全に掌握して初めて可能な芸当であり、其れを成す為には恐ろしく高度な集中力が要求される。しかも散開した距離が遠ければ遠い程に其の魔力の掌握は困難となり、しかも消耗する魔力は加速度的に増大してゆく。
俺は意識を更に研ぎ澄ませ、可能な限り広範囲に掌握した魔力を足掛かりにして水分子を掻き集める。そして単純な魔力による収集に加え、水素結合により連鎖反応的に水分子を結び付けるイメージで更に収奪を加速させてゆく。其れと同時に合掌した掌を下に向け、拡散した魔力を再び手の内に手繰り寄せる。しかし掌握の技術の未熟さ、加えて吸着し過ぎた水分子の質量によるものだろうか。幾多の魔力が手元に戻る前に儚くも掌握をすり抜けて拡散してしまう。其れにより、己の精進がまだまだ不十分である事を思い知らされる。
だがその直後。俺の掌からはドボドボと音を立てて、透明な液体が結構な勢いで降り注ぎ始めた。自分で言うのも何だが、コイツは中々に物凄い光景だ。故郷でこんな事人前でやったら、完全に手品師か超能力者と見做されるであろう。しかも手で触れる事無く、己の魔力のみで物理現象を引き起こす際に感じる万能感。此奴がハンパ無く気持ち良い。ちょっと癖に成っちまいそうだ。
今の絵面だけ見ると、俺由来の何だか臭くてしょっぱそうな謎液体が手から噴出しているように見えなくも無い。だが、此れは紛う事無き唯の水である・・・よな?俺は掌から滝汗を水道の蛇口の如く噴射するような変態体質では無かったハズだ。
「ちっとは様になってきたようじゃの。」
座禅を組んで座る俺と対面で偉そうに椅子に踏ん反り返った婆センパイが、俺を見下ろしながら不気味な笑みを浮かべた。
「うむ、苦労したからな。」
今、俺が発動したのは湧水の魔法である。効果は文字通り水属性の魔力を以て水を抽出する魔法だ。此奴は水属性の代名詞とも言える魔法であり、俺が事前に情報を得た中で最も熱望していた魔法の一つでもある。いや、それどころか此の魔法を習得する為に魔術師ギルドの門を叩いたと言っても過言ではない。その恐るべき有益さはいわずもがなである。初めて此の魔法が成功した時は掌から水滴が一つ二つ零れ落ちる程度だったが、其れでも感動に打ち震えてしまったぜ。
当たり前だが、この異界には魔法鞄だの収納魔法だのといったドラ〇もんの腹袋の如きイカれたオーパーツなんぞ存在する訳が無い。いや、実は何処かに存在するかもしれんが、少なくとも俺が見聞する限りにおいてはそんな代物は無い。故に迷宮や旅先で飲料水や生活用水が必要な場合は現地調達するか、無ければ輸送するしか無いのだ。だが例えば10リットルの飲料水を持ち運ぼうとすれば、其れだけで其の重量は10kgにもなる。そして一般的な人間が1日に必要な水分量は約2リットル。そうなると一名20日分の飲料水を運搬しようとするだけで、その重量は40kgに達する。しかも保存食と違って、水は重量だけで無くどうしても嵩張る。更に人数が増えれば、運搬だけでも恐るべき重労働となる。迷宮都市と呼ばれるこの都市で多くの迷宮探索者達がポーターを雇う所以である。
だが湧水の魔法を習熟すれば、此れ等を全て省く事すら可能だ。其れだけでも途轍もない恩恵である。その上何らかの事故で突発的に飲料水を失ったとしても、焦って水源を探し回る必要も無くなる。但し、湧水の魔法の効果は術者の技量だけでなく、周囲の環境に相当に左右される。例えば空気が乾燥したり、周辺に水気が無い場合は相応の魔力が必要となる。かつて故郷の漫画や小説で見たように、Ninjaが水気の無い場所でもお構いなしに高度な水遁の術を使うようにはいかないのだ。
そして先刻から俺がぶっ放している湧水の魔法は、婆センパイによる鬼の指導で魔力掌握の鍛錬に明け暮れた成果である。その間、婆センパイは俺の魔力の掌握に干渉して負荷を掛けまくってきた。情けも容赦も持ち合わせぬババアのせいで、俺は鍛錬を始めた最初の内は狂ったように水属性の魔力を注ぎ込んでもマトモに掌握が出来なかった。だが、その後煽りまくるセンパイに対する反骨心もあり死に物狂いで喰らい付いた結果、そんな状態でもどうにかある程度の水準まで魔力の掌握が可能となった。其の事を受けて、漸く婆センパイの干渉無しでの此の魔法の行使が解禁となったのだ。
湧水の魔法は収奪の魔法の応用である。通常、収奪の魔法により複数名の魔術師で拡散した魔力が同じ空間で重複した場合、水属性であれば空間内の水分子の奪い合いとなる。その場合、より多くの魔力を注ぎ込むか或いは収奪の練度が高い側が優先的に水分子をかっ攫うワケだが、其れでも他の魔術師の魔力に直接干渉出来る訳では無い。だが、婆センパイは何と他の魔術師の魔力に干渉して、その掌握や制御を乱すことを可能としている。此れはセンパイが編み出したオリジナルの魔法の一つなのだそうだ。こいつは役に立ちそうなので正直是非教えて欲しい。だが試しに拝み倒してみたところ、ふざけんじゃねえと素気無く断られてしまった。まあ考えてみりゃ何の見返りも無しに独自で開発した魔法なんて教えてくれる訳無いんだろうけど。
目の前の婆センパイの姿を一瞥した俺は考える。
実はもう一つ。俺には密かに修練を続けていた魔法が有る。魔法についての情報を収集するにつれて以前から構想はしており、湧水の魔法の修練と併せて思い切って開発に着手した、俺のオリジナル魔法である。見習いのド新人の分際でいきなりオリジナル魔法とか言うと、高いハードルどころか処女飛行のポータブルジェットで大空の彼方へカッ飛んで行く程に無謀な試みのように聞こえるが、実は魔法の独自要素はこの世界では左程珍しいモノでは無い。例えば炎の飛沫の魔法にしても、個人により使用する触媒は様々だし、習熟の過程で他の魔法の効果や独自要素をブレンドしたりする為、厳密には同じ魔法は殆ど存在しないと言えるのだ。
そして目に前に座る婆センパイも様々なオリジナル魔法を持って居るようだ。俺を手頃なサンドバックの如くぶん殴る時に感じた異常な膂力も、実は射出の魔法の応用らしい。更に老人の耐久力で平然とハードパンチを繰り出すのを不審に思ってもしや身体強化の類かと疑ったら、邪悪な笑みを浮かべながら農作業で鍛え上げたらしい上腕三頭筋と前腕伸筋群を見せ付けられた。其れはババアが搭載を許される腕の筋肉では無かった。此のババアはは本当に人間なのだろうか。
それはさておき。未だ開発途上の其のオリジナル魔法。実は一度婆センパイに披露してみようかと考えていたのだ。正直披露するか否かはかなり迷った。だが現在開発が少々行き詰まっている上、例え情報を開示したとしても、別段危険がある魔法という訳でも無い。そこで、一度魔術師の先達であるセンパイの意見を是が非でも聞いてみたくなったのだ。
「なあ、センパイ。」
「なんじゃ小僧。あたしゃが何時止めて良いと言った。怠けるな。気を散らすな。余計な口を開くな。黙って魔法を行使し続けるんじゃ。またぶん殴られたいのかえ。」
「・・・・。」
俺は当面黙って魔法に集中する事にした。あのゾルゲのように特に意味も無く殴る蹴るの暴行をカマしてくる事こそ無いが、婆センパイの拳は滅茶糞痛いのだ。
「良し。発動を止めてもええぞい。」
婆センパイの許可が出た頃には、膝上に設置した何度目かの水桶が既に限界近くまで水を湛えていた。無負荷で此の魔法を行使するのは久し振りだが、自分でも驚く程に進化を遂げていたようだ。以前の俺ならとうに魔力が枯渇してぶっ倒れている筈だ。
「なあ、センパイ。」
俺は再び婆センパイに声を掛けた。
「実はセンパイに 見てもらいたいものがある。」
「うん?何じゃ小僧。」
「俺が開発した 独自の魔法だ。」
「ほ~ん。」
「あれ。」
「何じゃい。」
「いや、驚いたり生意気だと怒ったりは しないんだな。」
「フンッまあ良くある話じゃからの。ちいと魔法を齧って調子に乗った間抜けな青二才が、急に独自の魔法を開発したとか戯けたことを抜かしよるのは。尤も、実際に見せられるのはチーチクの糞みたいな欠陥品なのが常なんじゃがのう。ケヒヒヒッ。ええぞええぞ、あたしゃにその糞みたいな出来損ないを見せてみい。あたしゃが正しく寸評してやるぞい。」
俺は無言で婆センパイに背を向けた。そして腰の帯を解いておもむろに下穿きをズリ降ろして、プリップリの美尻を着衣から解き放って見せた。
「な、ななななんじゃああああ!?」
俺の背後からセンパイの怒声が叩き付けられるが、委細構わず黙殺する。
此れから俺が披露するのは、俺の乾坤一擲の魔法である。そして此れが、此れこそが俺の、俺だけのオリジナル。地球という素晴らしき故郷で過ごした日々から着想を得た、輝かしき現代文明の断片と言えるかもしれぬ魔法なのだ。
かつて俺がこの世界に飛ばされる以前。俺は漫画や小説等フィクションの主人公達が多種多様な異文明に故郷の文化や技術を齎した様が記憶に残っている。だがしかし。
黒色火薬?銃火器? 殺し合いで死人の桁が増えるだけだろ。いらねえよ。
マヨネーズ? 何時までも子供舌じゃあるまいし。いらねえよ。
味噌?醤油? 作り方知らねえよ。そもそも大豆とかねえし。一次生産者舐めんな。
石鹸? 身体からそんな香り発散させてどうやって隠形すんだ。いらねえ。
甘味? 糖分は穀物や果物から採れば充分だしその方が健康的だろ。いらねえ。
自動車? お前のその足は何の為に付いてんだ。老人じゃねえんだぞ。いらねえ。
蒸留酒? 作り方知らねえよ。そもそも酒は好きじゃねえ。隙が出来るからな。
そもそも唯の一般peopleの一人だった俺にそんな代物を製造する知識や技術何ぞ皆無だ。それに、もし俺にそんな下らん代物の数々を地球から此の異界に持ち込める程の知識があるのなら。
俺が最も渇望するモノは唯一つ。それは・・トイペだっ!!
そう、トイレットペーパーこそが。其れこそが素晴らしき現代文明が生み落とした奇跡であり、文明の偉大な輝きを文字通り肌で感じられる至宝なのだ。此のクソッタレな異界で葉っぱやら粗末な縄やらわけわからん繊維でケツ穴を拭く度に、地球の現代人たる俺の魂が叫ぶのだ。願わくばどうか、どうかトイペをこの手に再び、と。
だが当たり前だが、俺はトイペの製造方法何て全く知らねえ。だが絶望に頭を垂れたその時、俺の中に天啓が舞い降りて来たのだ。今こそ俺は、トイペすら遥かにすっ飛ばして、此の世界の文明を500年先へと進めてみせるっ!
俺は上半身を斜め45度傾けてお辞儀の体勢を取ると、右の掌をそっと尻の後ろに差し出した。そしてその体勢で精神を集中する。
「おいこら小僧!一体何のつもりじゃ。お前いよいよ気が狂ったのかえ。」
センパイが背後で何事か喚いているが、今は集中力を高めねばならぬので無視だ。この魔法の発動にはまだまだ時間が掛かる。だが何時かはオリジナルと同等の5秒くらいまで短縮するのが最終目標である。そしてそのまま集中する事およそ1分。無言となった婆センパイを文字通り尻目に。遂に、俺の新たな秘術が発動した。
尻の背後に添えた俺の掌から、魔力に拠って収集した水が控え目な勢いで発射された。静謐なる室内で、唯水の音だけが静かに木霊する。そして尻に伝わる確かなる水流の感触。其処には確かに故郷の文明の輝きを感じる。嗚呼、素晴らしきかな。
無論、此の魔法はこれで完成では無い。発動時間は言うに及ばず、日属性魔法と組み合わせた温水、スイング、強弱、ビデ等真の完成までの道のりは果てしなく遠く険しい。それに射出の魔法は通常掌と平行に魔法を飛ばす為、垂直に水を飛ばすのが滅茶苦茶難しいのだ。
俺は暫くの間魔法を堪能した後、持参した布片で尻の水気を拭き取った。そしてゆったりと下穿きを履き直して背後を振り向いた。
「此れこそが、俺が開発した独自の魔法。名付けて尻洗魔法、アスクリン(ass clean)だ。」
「・・・・。」
婆センパイは、何故か固まったまま動かない。あれ?正直相当に自信あったのだが、或いは未開の土人には理解の範疇を越えてしまったのだろうか。
「センパイどうしたのだ。寸評するのでは 無かったのか。」
次の瞬間、俺は凄まじい力でいきなりセンパイに両腕を鷲掴みにされた。とても老婆とは思えぬ膂力だ。次いでセンパイは零れ落ちそうな程に目を見開いて、俺の眼前に迫って来た。激しく身の危険を感じる。
「小僧ぉ~!貴様っ天才かっ!!!」
薄暗い研究室に、婆センパイの絶叫が響き渡った。




